短編小説 寄り道

海が見たかった。智史はゲーム機の電源を落とすと洗面所で髭を剃った。いつも休みの日は剃らずに過ごしているのだが、海に行くなら剃らなければいけないような気がした。  

智史は幼い頃両親の離婚で一人だけ父親に引き取られた。それからは定住の地といえるものがなかった。父は何度も職を変え、思い出と言えるものは何処でもなく海という漠然とした概念だけだった。父は三年前に死んだ。  

ちょっとしたドライブになるので洋子を誘った。面倒そうな声で、しかし洋子は行くと答えた。洋子は海が好きなのだ。  

洋子を迎えに行くあいだ、母親について考えた。智史一人を残して行方をくらませた女。幼くして別れたので思い出は無いが、海は母のいる墓場のようなものだと思った。居ないけど、ずっとあり、大きい。
そこに洋子を連れていくことに意味は無い。意味は無いが洋子なら貝殻でも供えてくれるような気がしていた。  

洋子は短いスカートにヒールの靴を履いていた。スカートはともかく、靴はスニーカーにするように促すと気分を害したのか、ずっと洋子は黙っていた。カーステレオからはラジオが流行りの歌を流す。サビだけ鼻歌を歌うと洋子はようやくため息をついて喋りだした。  

砂浜に降りると冷たい風が二人に吹きつけた。洋子は智史の背に隠れ、智史は洋子を風に当てようと逃げる。洋子は文句を言い、智史は笑う。風は冷たかったが強くはなかった。まるで呼吸のように。  

かつて兄弟がいた。兄と妹である。大人しい兄と、元気な妹だった。ぽつりとそんなことを言うと、洋子は智史に抱きついてきた。寂しい訳じゃない、ただ大きくなっているんだろうなと思う。洋子は智史をくすぐった。
やめてくれー、と言いながら身を捩らすと洋子は幸せに暮らしているよと言った。  

二人で海を見ていた。波が寄せては返す。洋子は一緒に暮らそうか、と言った。あまりに軽い調子だったので智史は返事を渋った。ならいいよ、と洋子は拗ねて頭を智史の肩に預ける。海がみていると思ったが海は包み込むだけでいちいち智史を見たりはしない。だから人は海に向かって叫ぶのだろうと思った。  

結局、叫ぶほどの激情など持ち合わせてはいなかったのだと智史は気付き、砂の上に腰掛けた。見ていないものは知りようがないし、父は自分を生きることに一生懸命だった。智史もそうやって生きていくしかない。自分のために懸命になどなれるだろうか?
洋子がさむーい、と身体を寄せたので車に戻ることにした。
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