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短編小説1000字

100
大体1000字くらいの短編小説です
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2020年2月の記事一覧

短編小説 たのしい食卓

男が三人の兄弟だが、洋子はこんな生活が嫌ではなかった。むしろ誇らしく思っていた。一番上は責任感があり、仕事で留守がちな正樹にかわってよく下の子の面倒を見てくれる。真ん中は要領がよく甘え上手、一番下はマイペース。同じように育てても性格はかわってくるということを洋子は子育てをしてみて初めて知った。  

食事の時間は戦場と言っても過言ではなく、洋子は座ることも出来ない。キッチンカウンターの上に生姜焼き

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短編小説 白い耳

「だからさぁ、私言ったの。お金も無いのに誘うなって」
「んー」
早苗は目の前の浩美に身振りを混じえながら不満をぶちまけた。浩美は聞いているのかいないのか、ぼんやりとアイスティーを啜っている。
「だってそうでしょ?私の時間を使ってるのにガソリンまで割り勘だなんてセコすぎない?」
ひとたび口を開けば不満が山のように出てくる。高揚した早苗は浩美に話しているというより、この前言いあぐねた相手の男に話すよう

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短編小説 オレンジ

河原に座る猫の隣に腰掛けようと近寄ると、すぐに逃げられた。泰司は小さく舌打ちすると猫の温もりが残る場所に腰掛けた。
初めて塾をサボった。勉強が嫌になったわけでは無い。ただ、やることだけが決まっていて自由がない気がした。
敷かれたレールという訳では無い。自分で決めて、達成させたい。似たような価値観の集団の中に自分を押し込むには今日は少しだけ窮屈で、沈む太陽を見たかった。久しくそんな感傷を持っていなか

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短編小説 おごりの男

振り上げた拳をおろした時、晴紀はしまった、と思った。
殴られた美咲はぽかんと晴紀を見上げ、それからゆっくりと俯いて頬に手をやった。
カッとした。殴るつもりなどなかった。
「サイテー」
美咲は強い視線で晴紀を眺めると布団の中に潜り込んだ。
「待てよ、聞けって」
「言い訳なんて聞きたくない」
潜り込んだ美咲は意地でも布団を離さない。イライラが募る。
「殴るつもりなんてなかったんだって」
「知らない、し

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短編小説 大きな公園へ

「欲張っちゃった」
芽衣子はため息をつくとベビーカーを押す手を止めた。片手にはスーパーの袋、ベビーカーを押す手にはさらにトイレットペーパーを抱えていた。
今日は天気がよかったのでいつもの公園ではなく歩いて30分弱の大きな運動場にやって来た。マンネリ化した毎日でこうした気分転換はとても芽衣子の心を癒してくれた。拓斗もはしゃいで大きな敷地を走り回り、疲れたのか家に着く前にお昼寝を始めた。
そこで欲がで

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短編小説 ブランケット

ハッピーエンドの恋愛映画がエンドロールを映し始めた。依子は泣いていた。隣で一緒に観ていた洋介はとうにベッドに移動していてテーブルには二人分のワインがそのままになっていた。
ティッシュボックスを手繰り寄せながら依子は幸せになった二人に「よかったね」と声をかける。  

私にもあんな時があったと依子は思う。何十年も前だが確かにあったのである。ワインの残りを口に含むと寝室へと目を向ける。洋介のいびきはひ

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短編小説 最初の女

別れた夜はさめざめ泣いた。次の日仕事を休めなかったからだ。
会社で目の腫れた様を指摘された時、コンタクトを取るのを忘れて寝たと言った。上司には笑われたがこんな時彼女なら嘘を見抜き、冷たいタオルの一つでも渡してくれるのにと思った事を覚えている。  

口の端が切れたのでクリームを塗った。このクリームはいい匂いがする。貰い物のクリームである。
彼女はいつもこのクリームの匂いをさせていた。女物の化粧品の

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短編小説 盗難

「お兄ちゃん、借りたよ」と急にサエが部屋に入ってきたので隠す必要のないはずの参考書とノートに覆いかぶさった。サエは微笑みながら俺のストッキングをベッドの上に置いた。
「もう少し厚い方がサエは好きかな、そうね60デニールくらい」
「で、デニール?」
くすくす笑いながら、サエは部屋を後にする。俺はデニールを直ぐに検索した。
その日の夕飯は鶏の唐揚げだった。俺はサエの皿に自分の唐揚げから一つ渡した。やけ

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短編小説 性欲に埋もれた部屋

足の踏み場がない部屋というものを初めて見た。
「ちょっと散らかってるけど」などと言いながら優里香は器用に獣道を作っていくが、正直進むのを遠慮したくなる部屋だった。
反射的にこの部屋のベッドを探した。一体俺はどこでヤるつもりだったんだろうと思う。
「ごめん、お茶は出せないの」
恥ずかしそうに冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を渡してくる。キッチンには化粧品や鏡、ブラシやドライヤーなどが山積みになっている

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短編小説 ミルク割りの女

今日はバーに連れていってくれると言われていたので、マユは上機嫌だった。
イワタの左手の薬指に指輪があるのは知っている。ただ、こうして目の前で当たり前にドアを開けて先に通るよう促されたりするとそれはそれで気持ちがよかった。
イワタはウイスキーを薄めもせず傾けている。それを見ていると、少し酔ってもいいのかな、などと少しづつその年上の男特有の余裕のようなものに惹かれていて気付かないフリをしている自分がち

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短編小説 キャンセル

デートの約束をしても、もはや遅刻が当たり前になっていた。
サナは駅前の大きな時計に目をやりながら小さく溜息をついた。10分前には着いていたのでかれこれ40分は待ったことになる。足元から冷えて寒い。鼻をすすりながらコートの襟に首を縮める。
連絡をしてみようかとも思う。
「ごめん、ねてた、いまからいく」既に返事が思い浮かぶほどサナは待つ経験を繰り返しており、約束は一時間後に繰り下がる。
だから一時間待

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短編小説 消費される青春

「あっ、矢野」
風呂上がり、頭をタオルで拭きながらふと目をやったテレビの中に矢野は居た。
中堅のお笑い芸人に話を振られて、困ったような顔をして同意するような言葉を紡ぐ。
学生時代矢野は、目立つタイプでも大人しいタイプでもなかった。プリントが配られる時、掃除の合間、体育祭など、言葉を交わした事はあった。しかし何を話したのか覚えてはいない。吹奏楽部、いや水泳部だったか。矢野の下の名前は忘れてしまった。

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