短編小説 ミルク割りの女
今日はバーに連れていってくれると言われていたので、マユは上機嫌だった。
イワタの左手の薬指に指輪があるのは知っている。ただ、こうして目の前で当たり前にドアを開けて先に通るよう促されたりするとそれはそれで気持ちがよかった。
イワタはウイスキーを薄めもせず傾けている。それを見ていると、少し酔ってもいいのかな、などと少しづつその年上の男特有の余裕のようなものに惹かれていて気付かないフリをしている自分がちっぽけにも思えてくる。
マユは口を開かなくてはいけないような気がしてこんな話をした。
ひと息つくにはチョコレートが一番だと思う。休憩時間、昼食の最後、大きな仕事を終えたあとマユはチョコレートを一かけ食べる。
チョコレートと言っても決まったこだわりがある訳では無い。コンビニで売っているものでもいいし、専門店で買ったものでもいい。ナッツが入っていればラッキーと思うこともあるし、ハズレを引いた気持ちになることもある。
ただ、チョコレートを口に入れる前にはささくれていた気持ちが、口の中で溶ける感覚を味わったとたんフッと解き放たれるような、そんな幸せを求めているのだ。
イワタは微笑みながらマユが喋り終わるまで顔を眺めると、店員に何かを話した。それからすぐにグラスに入ったチョコレート色の液体を勧めてきた。
「なにこれ、お酒?」
「まぁまぁ、ものは試し」
チョコレートの、コールドドリンクだった。
イワタは薬指のリングを光らせながら頬杖をついた。
マユはすぐに違和感に気づいた。舌触りが、喉の奥が、胃の中が熱い。
「あっ」
イワタはマユを舐めるように眺め、クスッと笑った。
「世の中には、チョコレートリキュールという物もあってね、お気に召したかな?」
苦虫を噛み潰したような顔をして、マユはグラスを持て余していた。ただ、こうしてニヤニヤした中年に笑われているのも癪だった。
一気に飲み干してしまいたいが、酒が苦手なマユは一口づつチョコレートに擬態したアルコールを味わうことになる。
「ミルクで割ってある」
イワタはマユの手からグラスを奪うと、そのまま一気に飲み干した。
「俺がこれを飲むことはないだろうと思ってた」
イワタはマユに笑みを向けながらすぐにウイスキーに戻った。
マユはイワタの左手を眺める。ウイスキーの苦味に思いを馳せる。
今日は帰りにコンビニに寄ってチョコレートを買おうと思う。自分のために、チョコレートを買おうと思う。
イワタの左手を眺める。リングが薄明かりでぼんやり光っている。