セックスが希死念慮をブラックホール化。死んだら楽になれるは嘘かもしれない。
あと何万回と訪れる死にたい夜から逃げるためにセックスがあるんじゃないかって前書いたけど、じゃあ、今日も目覚めてしまった、生き残ってしまった、地獄の始まりだという朝の絶望感から逃げるにはなにがあるの。しかもセックスだって非情だよな、いい相手といいセックスしないと、希死念慮から意識をそらすためにしたセックスが、逆に死にたさをブラックホール化させるだもん。
たしかに、今日も目が覚めてしまった、呼吸が今日の身体へもちゃんと引き継がれてしまったことに絶望するし、地獄の一日がまた始まることから逃げたくて仕方ないのかもしれないけど、でも、目が閉じていた間、自分が精神世界で苦痛ではなかったという証拠はどこにあるんだろう。眠っている間にもう一つの私の意識世界があって、実はそこだって地獄かもしれなくて、もう一人の私がやっと希死念慮から解放されてその世界から意識が遠のいた瞬間に、こっちの私が目を覚ましているだけかもしれなくて、となると、今のこっちの私が夢の中と、向こうからすればとれるわけで、向こうの私は、こっちのわたしがきっと幸せな無の精神世界にいるかもしれないそっちに逃げたいと思っているかもしれなくて、まぁ何を考えたところで、何もわかんないんだけどさ。でも、形而上・形而下って、人間が作った思考の枠組みにすぎなくて、こっちの世界の形而上のことは、あっちの世界の形而下のはなしかもしれなくて、あ~どっちにしろ、なんもわかんないや。
死んだら楽になれるだってそう。死んだら楽になれる教の死にたがり族。死んだら楽になれるはただの一種の思想であって、真実でも何でもない。自殺という選択肢や、それに繋がる死にたいは、別に死を積極的に選んでいるというよりも、今の出口のない地獄から抜け出す方法として、この世界からの離脱があって、それが知る限りでは、死しかないってことなんだと思う。死んだら楽になれる、その信じて疑わない心の拠り所さえも、否定されてしまったら、それこそ心の逃げ道完全になくなるよね。だからきっと、死んだら何もかもから解放されて無に回帰するとか今よりは楽になれるとか、そう思い込むしかないんだと思う。でも結局、やっぱりなんもわからないや。
まぁもしかして死んでも地獄、眠っても地獄なのであれば、こっちのわたしで腕切ってるくらいが自己完結できる一番楽になれる方法なのかもしれないぞ。地獄にいると思い込んでる人間はどこかに天国があると信じて必死にその地獄を生き抜いて、でもそのどこかにあるかもれしない天国で生きている何者かだって、そこは地獄だと思っていて、まだみぬ桃源郷のことを想像しているかもしれなくて、この世に、実は天国も地獄も何もなくて、ただとにかく今意識ある場所でやっぱり何とかそこにいとどまってちょっとでも気休めに何かして心を楽にして流れに身を任せるしかないのかも。