さわむらごう

自然、山、川、海、植物、動物その他にんげんを含めたいきもの全てを愛する者です。セラピスト・介護の仕事をするかたわら、武術・からだ・生命を日々追究しています。にんげんのしぜん研究所主宰。 趣味は音楽、楽器演奏(ギター・キーボード・トランペット)

さわむらごう

自然、山、川、海、植物、動物その他にんげんを含めたいきもの全てを愛する者です。セラピスト・介護の仕事をするかたわら、武術・からだ・生命を日々追究しています。にんげんのしぜん研究所主宰。 趣味は音楽、楽器演奏(ギター・キーボード・トランペット)

最近の記事

悩み・こだわり・トラウマ・コンプレックスとの付き合い方

①まず安定したかたちで座る。できれば正座が理想。正座ができなければあぐら。緊張せず深くため息をつくようにして力を抜いてゆったりと座る。 ②目を軽くつむる。少し外の光が入りそうなくらいに。 ③自分の中のモヤモヤしている感じに注意を向ける。それを胸の辺りでひとまとまりのかたちにしてみる。 ④ある程度のかたちになったら、それを少し大きめの箱のかたちにする。 ⑤その箱をエアーでそっと持ってみる。 ⑥その箱を自分の左横にそっと置く。 ⑦左横の箱の存在を感じる。 悩みの対処の仕方として

    • 「守破離」は結局、人間が執着する生き物である、ということを認めていく過程だ。

      ・執着することから自由にはなれない。 ・「枠」を作るごとに執着が強くなる。 ・一方で「枠」が見えることでそこへ執着していることが見える。 ・「見えること」で執着から離れ「枠」を超えて次の「層」へ行くことができる。 ・しかし同時に次の「枠」をこしらえてしまう。そしてまた執着。 ・「執着しては離れること」の繰り返ししかないとあきらめることか。 ・「枠」が無ければ「執着」も無い。しかし「枠」が無ければ私たちはその事・ものを「認識」することができない。「枠」が無ければ「今の層」も「次

      • 「搾取されてる」という被害感だけでマイナス過ぎて変わろうと行動を起こす気力が削がれてしまっている。 「されてる」は置いておいて、「したい」「したくない」の主体性に少しずつフォーカスを傾けていくことが肝要だと思う。

        • 人に言いたいことは大概自分に必要なことだから言ってる。 直感的に先に感じて、思いつき、そして言葉になる。 でも我が強いので、自分に向ける前に人に向けてしまう。

        • 悩み・こだわり・トラウマ・コンプレックスとの付き合い方

        • 「守破離」は結局、人間が執着する生き物である、ということを認めていく過程だ。

        • 「搾取されてる」という被害感だけでマイナス過ぎて変わろうと行動を起こす気力が削がれてしまっている。 「されてる」は置いておいて、「したい」「したくない」の主体性に少しずつフォーカスを傾けていくことが肝要だと思う。

        • 人に言いたいことは大概自分に必要なことだから言ってる。 直感的に先に感じて、思いつき、そして言葉になる。 でも我が強いので、自分に向ける前に人に向けてしまう。

          痛みについて。

           「痛み」とは何なのか?  「痛み」をどうとらえるか? これを追求しないとやっぱり始まらないようだ。  「痛み」をつらさ、苦しさと言い換えてもいい。  「痛み」を強要しろというのか?とすぐ脊髄反射で言ってきそうな人が思い浮かぶけどそうじゃない。     そもそも「痛み」は他者がどうこうできるものじゃない。  なぜなら「痛み」は紛れもなく自己の、自分の「経験」だからだ。ある意味、人間にとっていちばん端的な「内的経験」と言えるのではないか。  「痛み」に耐える鈍感さ

          痛みについて。

          自分を知ること、自分と向き合うことがなぜこんなにも怖いのか?たぶん自分が「分からない存在である」ということを認めたくないからだ。

          自分を知ること、自分と向き合うことがなぜこんなにも怖いのか?たぶん自分が「分からない存在である」ということを認めたくないからだ。

          「自然」への考察22/10/24

          物を持つ、ということは必然的に反自然になる。 反自然すなわち反重力性。 物を持つということは、その物にかかる重力に逆らうこと。 そのため物を持つ、という時点で人間の「思い上がり」が発生する。 人間の、自然を支配したい欲求の始まり。 日本人が「物を大事に」という心持ちを大切にするのは、この「思い上がり」を戒めるためなのではないか。 物を置くのに音を立てるのか、静かに置くのか。そこには明らかな身体性の違いが現れる。 静かに物を置くためには、その物と繋がるためのシンパシーが必

          「自然」への考察22/10/24

          表現とは何ぞや?

          表現するのにもじもじしてたらダメなのは分かってる。「自分」を覆い隠してたら表現になるわけない。 でも「さらけ出す」のも変だって思ってた。 あたりまえに表現できる人はよく「さらけ出せ!」って言う。 でもぼくはそれが嫌。 無理してる感がキツい。 自分がしててもキツいし、人がしてるのを見るのもキツい。 無理してる感じを表現するってのがイイっていうのもよく分かるんだけど。 僕が好きな表現、惹きつけられる表現のものって基本的に無理してない。 いいなあって感じるものは大体無理

          表現とは何ぞや?

          個人は本当に大事か?

           アラスカのムースは子どもを二頭産む。しかしほとんどの場合、産後一ヶ月以内にどちらか一頭はクマかオオカミに食べられてしまうという。  必死の想いで生き延びて、その命を何とか繋がるようにと託されて生まれた生命が、しかし確実に殺される運命にある。何と残酷なことか。  非力にも食べられてしまう子どもと、それを残して立ち去らなければならない母親のことを想うと堪らない気持ちになる。  しかし一方でこれが自然の作り出した精妙なシステムなのだ、とも感じる。  オオカミやクマなどの捕

          個人は本当に大事か?

          生と死の中庸。そこに在るのが整体ではないか。

          熱や痛みの症状が過ぎれば結果死ぬ。 しかし生があるからこそ熱も痛みも起こる。 たぶん調子が悪い、不調和という状態は生が過ぎるからだ。 生が過ぎるから痛みも熱もひどくなる。 生が過ぎれば死ぬ。 過ぎるはすなわち傾き。 ならば調和とは一方に傾かずにバランスを取ることではないか。 つまり、中庸。 生に傾き過ぎず。死に傾き過ぎず。 フラフラしながらも中庸から外れない、しなやかなバランスの取りかた。 人間が自然に生きて、ゆるやかに死に向かって行くためにはこれが必要なのではな

          生と死の中庸。そこに在るのが整体ではないか。

          「からだ」は「他者」だ。

          今までは身体を見る対象としてはいけないと思っていた。 対象化するとどんどん遠ざかって分からないものになってしまうと思っていたから。 コントロールしたくなってしまう。 だから出来るだけ身体と同一化することを目指した。身体の側に立って身体に動いてもらうつもりだった。 しかしそれを進めても実は結局コントロールから離れられないということが分かってきた。 当たり前かもしれない。 だってそれを見る以上はそれはどうしたって対象化であり、同時に「自己」(意識)は対象と隔絶されるこ

          「からだ」は「他者」だ。

          自由とは?

          今朝目を覚ますと身体が痛い。重い。 昨日の疲れが抜けてない。仕方ないからしばらくそのまま横になったまま「何とかならんかなぁ」と思いながらボーっとしてみる。 何かだるいのが抜けてきた。 久しぶりの感覚。しばらく忘れていた。 すると次の言葉が思い浮かんできた。 「運命は完全に決められていて、同時に自由である」 この言葉との出会いは二度あった。 僕の人生のバイブルとも言える漫画の『バガボンド』と、武術家の甲野善紀先生のおはなし。 どちらとの出会いも衝撃的だった。 『バ

          意味を問うことへの違和感。

           毎日同じような生活、同じことの繰り返しで、特別に何かを成すわけでもない。そんな日々を過ごす中で虚無、空虚を感じない日など無い。  同じことを同じように繰り返していられるのは楽なことだ。楽なら楽を味わっていられればいいのになぜかそれができない。  そこで思うのは、やっぱり意味が欲しいんだ、ということ。  今こうして行っている自分の行為にちゃんと意味があるんだ、と思えること。  実際いつも通りやってる何でもない仕事でも、時たま相手から「ありがとう」と心のこもった言葉がかけ

          意味を問うことへの違和感。

          海へでかけた。

          ふと思い立ち、前から行きたいと思っていた海岸へ。 と言っても来るのは2回目。 以前奥さんと二人でこれまた思いつきで出かけた南知多近くの心月斉というお寺(素敵なお寺でした)の、最寄りの河和口駅そばにある海岸で、その時は少ししか滞在できなかったのでまたゆっくり一人で来てみたいなと思っていました。 小さな砂浜があるだけで何にもないところですが、一面海が広がって遠くまできれいに見渡せる。 それでいてほとんど人気が無いので、人間嫌い(^◇^;)な僕にはうってつけです。 思い立った

          海へでかけた。

          からだを観るということ。

          私のからだの見方についてお話します。 (あくまで私の経験からくる感覚のお話しでこれが「正しい!」と主張するものではないということだけご承知おきください。) 「みる」の表現にもいろいろありますが、「からだ」に対しては「観る」を用います。 一方、同じ読み方をしますが「身体」には「見る」を用います。 何でか、と言われると「そういう感じがする」からです笑。 もうちょっと違いを明確にすると、「身体」を見ているときには「みている」感じがします。「からだ」を観ているときは「みえてい

          からだを観るということ。

          寅さんの「ごめんよ!」がカッコいい

          最近ずっと映画の『男はつらいよ』シリーズを観てます。僕が生まれるよりも前からやっている映画なので全く世代でもないんですが、もともと僕は古いものが好きで基本的にアナログ人間。 音楽なんかも今の音楽には全くついていけず、60〜80年代なんかのブルースやロック、プログレなんかばっかり聞いてしまう。 新しい音はなんだか整いすぎててダメなんです。昔の、ノイズが入ったような、その場の空気がモロに伝わってきてしまうような音じゃないとダメで。ああいう昔のものの肌触りというか、ザラつきみた

          寅さんの「ごめんよ!」がカッコいい