個人は本当に大事か?
アラスカのムースは子どもを二頭産む。しかしほとんどの場合、産後一ヶ月以内にどちらか一頭はクマかオオカミに食べられてしまうという。
必死の想いで生き延びて、その命を何とか繋がるようにと託されて生まれた生命が、しかし確実に殺される運命にある。何と残酷なことか。
非力にも食べられてしまう子どもと、それを残して立ち去らなければならない母親のことを想うと堪らない気持ちになる。
しかし一方でこれが自然の作り出した精妙なシステムなのだ、とも感じる。
オオカミやクマなどの捕食者が生き延びられるようにするシステムによってムースは二頭の子どもを生まされている、ということ。
二頭ともは殺されずに一頭は生き延びるというところが何だか図られたもののように思えるのだ。
まさかオオカミやクマが「次の餌が生まれなくならないように片方は残しておこう」なんて考えてやってるわけではないだろうけど、多分自然にそのバランスが取られるように力関係が保たれている。それが生態系のシステムなんだろう。
こう考えていると、じゃあ自分は子どものムースのどちらの方でありたいか?という思いが立ち上がってくる。
普通なら生き残りたいと思うのが当然だろうけど、生態系のシステムという大きな流れで見れば別にどちらも一緒ではないか?とも思える。
生まれてすぐに食べられてしまえば、餌として生まれてきたのか、自分は!と悶えたくなるのは必至だが、生き残ったら生き残ったで、結局次の餌を産むための道具として生き残ってるだけ、という風にも見られる。
そういう意味ではどちらも生態系のシステムの中の一つの歯車だと言えるわけで、どちらにしても残酷な運命。
でも実は歯車であるということはそんなに酷いことでもないのではないか?歯車になりきれた方がずっと楽なような気がする。
自然の大きな流れに乗ってそのままただ生きて結果死ぬ。そこに自分の意志の介在の余地は無い。
淋しいことではあるけれどもそれが当たり前であると納得できると何だか清々しい安心感がある。
自由意志という言い方があるけれども、本当はそんなもの無いと思う。この地球に生まれる。この世界に生まれる。この時代に、この国に、この土地に、この親に…
生まれるという時点ですでに自由は無い。
最初からいろんな制約を背負わされて生まれてくる。それを土台に生まれる意志が「自由」と言えるか?
結局「個人」の意志なんて言っても最初から自分でコントロールできるものじゃない。
だったら「個人」にこだわる必要なんてない。
自分がすぐ殺されるのか、生き残るのか。
別にどちらも元は一緒。
そう考えられる方がむしろ自由だ。
「個人」にこだわる方がずっとしんどい。
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