寅さんの「ごめんよ!」がカッコいい
最近ずっと映画の『男はつらいよ』シリーズを観てます。僕が生まれるよりも前からやっている映画なので全く世代でもないんですが、もともと僕は古いものが好きで基本的にアナログ人間。
音楽なんかも今の音楽には全くついていけず、60〜80年代なんかのブルースやロック、プログレなんかばっかり聞いてしまう。
新しい音はなんだか整いすぎててダメなんです。昔の、ノイズが入ったような、その場の空気がモロに伝わってきてしまうような音じゃないとダメで。ああいう昔のものの肌触りというか、ザラつきみたいなのに触れると安心して情緒的になれるんですよね。
てな流れで『男はつらいよ』にハマってしまったのは僕にとってごく当然のことなんですが、この映画の言わずと知れた主人公、寅さん。
これがなんでかすごくカッコいいんですね。
カッコつけてるばっかりでその実全然カッコよくないんですけど、そこがまたいい。
特に僕が惹きつけられるのは、寅さんが旅先かなんかでどこかお店に入る時にいつも「ごめんよ!」って声かける姿。いいですなぁ。
先日お昼にカツ丼なんか食べたいなと思って、買い物先のショッピングモールの一角のお店に入ったんですけど、もうお昼時も過ぎた時間だったので誰もお客さんがおらず、僕が入ってきても店員さんはお店の奥で作業してて全然気づかない。そのうち気づくかなと思って適当な席に座ってメニューを見ているも店員さんは一向に出てこない。仕方ないので「すみませ〜ん」と情けない声でこちらから呼ぶ始末。
その時ハッと寅さんの「ごめんよ!」を思い返したんです。ああ、あの時の寅さんみたいにさりげなく「ごめんよ」って言えたらな。
でも今はどこのお店行ってもそんな雰囲気じゃない。下町や田舎だったり、安い居酒屋ならまだこんな人が居るかもしれないけど、普通の街中のお店ではそうはいかない。
例えばコンビニに入って「ごめんよ!」って入ったらどうなるか?
想像するだけで身の毛がよだつ。店員さんや他の客さんも含めて全員に白い目で見られることうけあい。
でも何でこうなっちゃうんだろう?
何で「ごめんよ」がいけないんだろう?
あやまってんですよ?笑
たぶん余計な自己主張をするな!ってことなんでしょう。そんなもんに誰が応えるかって。
自分が店員さんだったら間違いなく怪訝な顔をするでしょう。んで口には言わないけど心の中で「お前のことなんか知らんわ!」と言うでしょう。
煩わしいんですよね。
煩わしいんですよ。
でも何で煩わしいんだろ?
この「煩わしさ」が今の世の中のほとんどの問題の本質になってると思うんです。
たぶん寅さんの中の「自然」が煩わしいのです。
街の中に「自然」はあると困る。何だか分からない汚らしいものはあっちゃいけない。
予定調和を崩さないでほしい。
だから「都市」は「自然」を除外する。でやっぱり除外しきれないもんだからあちこちで色んな問題・トラブルに発展する。
ちょっと話が飛躍してるかな?
でも一方で僕はその「自然」にカッコ良さを感じ、憧れさえ抱くのです。
このカッコ良さというのは普通のカッコ良さじゃない。
謂わゆる洗練された、流行の、スタイリッシュな、知的で清潔で爽やか…な、街で見かけて普通にみんながカッコいいと思えるようなものではない。
寅さんなんか身なりは安っぽいし、素足に草履だし、汗なんかかきっぱなしで別に大して気にしない。ホントに気にしない。みんなが気になるようないろんなことが寅さんには気にならない。
それがとても颯爽として力強く健康的で元気に映る。気にしてないからとてものびのびとしてる。まあ、そのおかげでいろんなトラブルに見舞われるんですが笑
ただ、ホントに何も気にしてないのかというとそんな感じじゃない。
やっぱり源公(寅さんの弟分)とは違う。
どこか気が利いている。
だから安い身なりでも何かが張り詰めたようなかすかな緊張感がある。
僕はそこに「動物」をみます。
広大な自然の中にひとり佇んでいる動物。
例えばサバンナの草原に立つガゼル。
原っぱに身体を横たえながら遠くを見つめるライオン。
雪山の崖の先で静かに座るオオカミ…
静かで厳しい、怖い感じ。圧倒的存在感。
でも同時に柔らかい、ゆったりして寛ぎも感じる。
相反するものを同時に備えている。不思議な感じ。
なんかスゴい!って思って僕はその姿に尊敬してしまいます。自分もこうありたい、と。
この話がまたからだのことにつながる。
「都市」と「自然」のあいだに起きる問題は、実は「意識」と「からだ」に置き換えることがそのままできてしまう。
だから健康が問題になる。
寅さんはとっても元気です。動物も元気です。多分病気なんて気にしない。(寅さんはたまに仮病みたいなのに罹りますが笑。)
自分を対象的に見る概念が無いみたいなんですよね。
だから自由に振る舞う。
それってすごい健康的なことですよね。
からだには何か病気があっても自然に治ろうとする力がそもそも備わっています。
だから特段気にしなければ病気なんて勝手に治ってしまう。本来は。
みんな気づかないだけでからだは勝手に毎日、瞬間瞬間それをせっせとやってくれている。
つまり何も気にせず自由にやっていれば健康そのものなわけです。
でも人間そうはいかない。
社会の中で生活するためにはいろんなことを気にしなければならない。安定した生活を守るためにはルールがいる。
自由に振る舞えない。
ストレスが溜まる。余裕が無くなる。
怒りやすくなる。いろんなことが許せなくなる。
それに応じてさらに厳しいルールができる。さらに不自由になる。
だからどんどん元気じゃなくなる。弱気になる。
それでも勝手にからだが良くなってくれれば良いんですが、残念ながらそれに呼応してからだも弱る。
どうもからだは必要に迫られないと元気を起こさないらしいのです。
元気の無い、弱気な生活だと動きませんね。
動く必要が無いなら、からだの方は「じゃあ治る必要ないね」ってサボりだす。
だから気にして、不自由な生活をしているとどんどん不健康になっていく。病気になっていく。
安心な生活を求めた結果、不自由で不健康になってしまう。皮肉なことに。
別に当たり前のことなんですけどね。
でもそれが分からないくらい、今の僕たちの感性があまりにも「自然」からかけ離れてしまっている。
都市と自然、バランスが大事というお話。
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