意味を問うことへの違和感。
毎日同じような生活、同じことの繰り返しで、特別に何かを成すわけでもない。そんな日々を過ごす中で虚無、空虚を感じない日など無い。
同じことを同じように繰り返していられるのは楽なことだ。楽なら楽を味わっていられればいいのになぜかそれができない。
そこで思うのは、やっぱり意味が欲しいんだ、ということ。
今こうして行っている自分の行為にちゃんと意味があるんだ、と思えること。
実際いつも通りやってる何でもない仕事でも、時たま相手から「ありがとう」と心のこもった言葉がかけられれば、急にやる気が漲って心が潤う感じがある。
空虚とは真逆で人生に光が差すような感じさえある。
要するに「やりがい」。「やりがい」が感じられれば「意味」がでてくる。
でも僕は、実は人間はそこに依ってはいけないんじゃないかと思う。
それが悪いことだ、というよりそれだと結局苦しくて、自由闊達に生きることができない、と思うからだ。
一生懸命に、ひたむきに行われたある人間の行為に対して素直に感謝の念が向けられる。この現象事態はとても良いことだし、微笑ましく思うし、こういうことが毎日、世界中至るところで行われるべきだと思う。
ただ問題はそれを目的にしちゃいけない、ということ。
目的にした途端、それはそうでなければいけないことになってしまう。「ありがとう」という言葉が無かったらダメなことになってしまう。あるいは「ありがとう」を言うことが義務化されてしまう。
でも義務で「ありがとう」がなされてもそれはもう「意味」をなさない。
不思議なことに、形は同じでも自然発生したことと決められたとおりに行われることでは全然違ってしまう。
たぶん、同じ「ありがとう」でもその人から発せられる「何か」が違っていて、それを受け取る人の反応する「何か」がまた違った変化をするからだろう。これはもう「見えない何か」というより他ない。
それ以前に、目的化した時点でおそらく最初の行為ももうすでに変わってしまっている。(「ありがとう」ありきでは、「ありがとう」が無かったときのようにはもう行えないということ)
私が「意味」というものに懐疑的なのはこの所以。「意味」を設けた時点でそれを「目的」にしてしまう。そして今度は再現しようとしてしまう。
しかし、残念ながら「再現」では最初にその「意味」をもたらした「何か」が発生してくれない。
言い換えれば、「意味」や「目的」も無い純粋な行為によってこそ生まれる「何か」がある、ということ。
どうもその「何か」が、人が「生きていて良かった!」と思う根拠になっている。もっと言えばそれ自体が人が生きていることの根拠らしい。
なぜそれが分かるのかと言えばそれは「からだ」の感覚を追求していった結果だ。身体を静かに観ていって「からだ」があることが分かってきた。
「からだ」が動くとき、そこに意味や目的も要らない。ほとんど勝手に動いてしまうから。
でもそれが何とも心地いい。自分のコントロールから外れて自然に、勝手に自分の身体が動くことがとても静かで清々しい。
私はそこに生きる喜びを見出す。
本来人間はそういうものなんだと思う。
でもそれを目的にした途端その感じは消え失せる。意味を意識しただけで無くなる。
まさに雲をも掴むようなことだけど仕方ない。これを知ってしまった以上はもう追求していくしかない。少なくとも違和感に身を任せたくはない。
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