からだを観るということ。
私のからだの見方についてお話します。
(あくまで私の経験からくる感覚のお話しでこれが「正しい!」と主張するものではないということだけご承知おきください。)
「みる」の表現にもいろいろありますが、「からだ」に対しては「観る」を用います。
一方、同じ読み方をしますが「身体」には「見る」を用います。
何でか、と言われると「そういう感じがする」からです笑。
もうちょっと違いを明確にすると、「身体」を見ているときには「みている」感じがします。「からだ」を観ているときは「みえている」感じがします。
それで「見る」と「観る」に使い分けられている。
「みるぞ!」というのと「ああ、みえてるな」というのでは実はみえ方が全く違う。
実際にそういう使い分けをしていなくても、多分なんとなくわかるという方はいるんじゃないかと思うんです。多分昔の人も「みる」という行為に何かしらの使い分ける感覚があったから、こういう違う言葉を当てはめたはずです。感覚と言葉はとても密接に関係しているというのはすごく面白い。
それはさておき、「見る」と「観る」の感覚の違いについては実際にやってもらうのが一番分かる。
ご自分の手を見てください。右手か左手のどちらか。
どちらでもいいですが多分左の方が違いが分かり易いと思います。
手のひらを下に向けてそっと膝の上に置きます。ちょっと一息落ちつけて、手の甲側を見てください。
どんな感じがするでしょう?手・爪の血色、血管が浮き出ているのが分かったり、指の長さ・太さや気にならなかったシワとかシミが見えたり。あるいは手が疲れてる、痛い、なんてことも感じられる方もいるかもしれませんね。
これが普通の「見る」です。
ではそこから今度はその同じ手の「輪郭」を意識してください。手首の付け根から親指、人差し指、中指、薬指、小指、それぞれの先と付け根、股の部分…。なるべく力まずに、手全体を型取っている輪郭をなぞらえる感じ。
すると何となく視界が少し引けるような感じがないでしょうか。さっきよりも少し後ろに引いて見ている感覚。
これが「観る」です。
しばらくその状態をキープしてみてください。
多分1分もすれば違う感覚が生まれてくるのが分かると思います。
手の「中」が何となく感じられる。手の内側で何かうごめいている。
そのまま静かにしている血管の拍動も感じられてくる。手が冷えている人は、妙に温かくあるいは熱く感じる場合もあるかもしれません。
不思議な感じですよね。手がボワッとするというか。何だか気持ち良くありませんか?
うまくいっていれば「見ている」時よりも「観ている」時の方が明らかに力が抜けてきているのが分かると思います。そのままでうまくいられると、だんだん手から腕、肩に繋がって体全体にその感覚が広がっていく。
この状態でしばらくいられれば相当身体は良くなる。治る力を取り戻すことができる。
「瞑想」と言われるものの主眼はおそらくここにある、と考えています。
言うなれば「見る」は外側から、「観る」は内側から体を感じる感覚です。
「見ている」ときは意識が完全に頭、あるいは体の外にあってそこから体を眺めている。体が観察の対象化している状態。つまり見ている自分と見られている体が切り離された状態。
ですが「観ている」ときは意識が体の内側にあって(これを意識と呼べるのかな?主体的感覚と呼べるかもしれません)、内側から体を感じている。つながっている。見ている自分も見られている体もひと繋がりなので分かる、といった感じ。
本来「自分」と「体」は切り離されないものです。
だって「自分だ」という意識は「体」があって生まれるものだから。
「体」の方が先。根本。「自分」という「意識」はちゃんとその根本とつながっていたはず。
何ですけど、現代に生きる私たちはどうしても「意識」が行きすぎてしまい(上昇指向が過ぎる?)、この根本の、先輩である「体」をほったらかします。
で、いつの間にかつながっていること、その感覚すら忘れてしまい、「体」という物を外からしか見られない、自分の「体」を他者としてしか見られなくなってしまっている、という何とも寂しい現状なのです。
体には外側から内側・中心に向かって集まろうとする力と、内側・中心から外側へ広がろうとする力が常に働いています。この二つの力が拮抗することである一個体としての形を保つことができている。
このバランスの均衡が、人が生き物としてちゃんと生きる上でとても大事だと私は考えていますが、現代を生きる私たちはどうも外側からの力が強くなりすぎているようです。
多分外的ストレス、刺激が多すぎるためでしょうね。無意識に自分を守ろうとする欲求が強くなってしまう。
でもちゃんと体には内側からの力が起きている。外へ向かっていこうとする力が誰の中にもちゃんと働いている。本来はそれを存分に発揮するべきで、そうすれば人間、もっと自然に元気に振る舞えると思う。
ただそれに気が付けていないだけ。知らないだっけ。からだは知っているけど忘れているだけ。
「からだ」を「観る」ということはそれに気付くための最適な方法なんです。
こういう感性を世に展開したい、そう考えて地味ながら一人で研究・活動しています。
もしご興味ある方、↓↓↓ものぞいて見て下さい。
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