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小島美羽 『時が止まった部屋 遺品整理人が ミニチュアで伝える 孤独死のはなし』 : その部屋の 〈見えない人の息づかい〉

書評:小島美羽『時が止まった部屋 遺品整理人がミニチュアで伝える孤独死のはなし』(原書房)

書店でたまたま見かけて購入した。
理由は2つ。私の「ミニチュア趣味」と「孤独死への親近感」である。

私には「ミニチュア趣味」があって、ミニチュアハウスの写真集などを、これまでに何冊も購入している。特に、日本の住居を屋内を表現したミニチュア作品が好きで、ヤフオクでかなり精巧な(それなりに値のはった)和室の模型を購入して、クリアケースに入れて飾ってもいる。
「建物」の模型が好きなのではなく、「室内」の(情景)模型が好きなのだ。

では、どうしてそういうものに惹かれるのか。それはたぶん、私はごく幼い頃から、香川県出身の父から、寝物語に「たぬきが人を化かした話」を聞かされてきたからだろう。
「弥次喜多」のような江戸時代の旅人だろうか、人里離れた山の中で夜が更けてしまい、どこに泊まろうかと当惑していると、ぽつんと灯りが見える。やれやれ人家だ、あそこへ泊めてもらおうと訪ねてみると、山中にそぐわぬ立派な御殿であり、中から出てきたのは美女の女主人である。屋敷には大勢の女中もいて、女主人は旅人を大歓迎し、飲めや歌えの大宴会となるのだが、翌朝、旅人が目覚めてみると、そこは山中の河原であった。ああ、たぬきに化かされたのだ、というお話である。

こうした「化かし話」によって培われた感性は、やがて「メタフィクション=入れ子構造の作品」に惹かれる傾向を、私にもたらした。
例えば、昔、東映京都テレビプロが制作した特撮時代劇『妖術武芸帳』のなかで描かれた、主人公の剣士に追い詰められた悪の妖術使いが、川下りの舟を描いた屏風絵の中に飛び込んで、絵の中の舟に乗って悠々と逃げ去ってしまうというワンシーンは、子供心に衝撃的だった。
中学校の教科書に載っていた、芥川龍之介の「杜子春」も、私の趣味にぴったりとハマる、眩惑的な作品だった。さらに後の、エドモンド・ハミルトンの「フェッセンデンの宇宙」も同様だ。
これらに共通するのは、私たちのいるこの「世界(宇宙)」の中にある「小世界(小宇宙)」を「フィクション(虚構)」と考えるなら、しかし、私たちの「世界(宇宙)」自体が、じつはより大きな世界(宇宙)の中の「小世界(小宇宙)」であり、ある種の「フィクション(虚構)」なのかも知れないとか、あるいは「どちらが本物なのかを確定できない」といった「実存的眩惑感」を与える点にあるのではないだろうか。

そうした意味で、精巧なミニュチュアというのは、まさに「世界模型」であり「もう一つの世界」なのだ。
しかも「室内」とは、人にとって最も身近な空間だからこそ、それが「本物」ではないというところに、人は、特に私は、曰く言いがたい「虚実不二的な眩惑的魅力」を感じるのである。

さて、私が本書を購入した理由のもう一方「孤独死への親近感」だが、これは私が、未婚で子供もいない、現在57歳の独居男性であり、そのうえ、人づきあいを面倒がるタイプの人間なので、孤独死は「自然な成りゆき」だと自分でも思っているからである。

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もっとも、私は「無神論者」であり「人は死ねばゴミになる」とも思っているので、死ぬ時に苦しい思いさえしなければ、孤独死でも、死後に発見が遅れてドロドロの腐乱死体になってしまったとしても、それは別にかまわないと考えている。もちろん、そんな汚い死体の処分に関わる、発見者の方や親族、警察や本書の著者のような特殊清掃業者の方には申し訳ないとは思うが、自分自身では、自分が腐って醜いゴミなろうと、死んだ後ではどうでもいいことだと思っている。

そして、そんな私だから、身も蓋もない本音を言えば、葬式などはいらないし、遺体も「山にでも捨ててくれればいい。それで動物の餌になろうと、自然に変えるだけの話だ」と思っているが、法律的にはそういうわけにもいかないので、そこは最低限の処分で済ませて欲しいと思っている。

私がこのように、ある意味では非常に極端な「唯物論的死生観」を持つにいたったのは、たぶん、私自身かつて「孤独死」などの現場にたちあう機会があったからだろう。
本書の著者は、死者に対して非常に敬虔で真摯な方だが、私の場合は、「死者(死んだ人=それまでは生きていた人)」と言うよりも、「死体」の即物性に向き合うことが多かったので、著者のような情緒的な対面を避けていた部分もあったのかも知れない。
裏返して言えば、本書の著者は「すでに遺体の無い、死者の遺した部屋」と向き合ったからこそ、かえってそこに「死者の人生や生活や想い」というものへの想像力と感情を喚起されたのではないだろうか。

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そして言い変えれば、「室内ミニチュア模型」の不思議な魅力とは、そこに「人がいない」ことによってこそ、もたらされるなのだ。だから、そこに人の模型が置かれてしまっては、その魅力が台無しになるように、私には思えてならない。その意味で、「室内ミニチュア模型」と「ドールハウス」とは、本来「似て非なるもの」なのだと考える。

その、非常に精巧に作られたミニチュアの部屋の扉を、あるいは襖や障子を開けて、人が入ってくる。そんな予感をあたえるところに「室内ミニチュア模型」の魅力がある。

そして、その部屋に入ってくる人とは、たぶん「この世の人」ではないのだろう。そこでは、その世界での生活が続いている。そんなふうに感じられるのである。

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初出:2019年10月27日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2019年10月31日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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