『機動戦士ガンダム』で 社会心理学する。
とても面白い記事を読んだので、下にご紹介して、そこで語られている問題を考えてみたい。
・不仲の兄に解説してもらい…『機動戦士ガンダム』を初めて見たアラサー女子の“覚醒”(2022年11月4日配信)
この記事は、『アラサー』の女性が、『機動戦士ガンダム』シリーズにかなり詳しい(オタクの?)実兄に、いわゆる「ファースト・ガンダム」について、様々な疑問点を解説してもらうという内容だ。
「ファースト・ガンダム」と通称される、最初のテレビシリーズ作品である『機動戦士ガンダム』は、1979年から翌年にかけて放送されたテレビアニメなので、放送からすでに40年以上も経っている。一一と、こう書いて、私は思わず呆然としてしまう(笑)。
いや、冗談ではなくて、もうそんなに経ったのかと、恐ろしいような感じさえしないではない。
今年「還暦」の私が、この『機動戦士ガンダム』(以下「ファースト」と記す)を視たのは、高校2年の年だった。
その頃、私は「マンガ部」の副部長をやっていたのだが、夕方5時半から放送される同作を「録音する」ために、週に2回のクラブ活動の、片方の曜日(木曜だったか?)は、クラブには出ずに、さっさと帰宅して、いそいそとテレビの前にカセットデッキを据え、テレビのイヤホーン・ジャックとカセットデッキを専用ケーブルで繋いで、放送が始まるのを待ち、番組が始まった途端、録音スイッチを「ガチャッ!」と押したのである。
当時は、ビデオデッキを持っているのは一部お金持ちでしかなかったし、持っていても、今のような内蔵ハードディスクへの録画ではなく、「ビデオカセットテープ」への録画だった。また、最初の頃は、カセットデッキによる「録音」と同様、ビデオデッキにも「留守録」機能がなかったので、録音録画したい番組が始まる前に、テレビの前で「スタンバって」おく必要があったのである。
で、そんな大昔のことだから、言われてみれば、今の若者が「ファースト」も視て、色々引っかかるところがあるというのも、むしろ当然のことなのだろう。いや、もはや「若者」とは言えないかもしれない『アラサー』の人(失礼)にしたところで、相当「大昔の作品」なのである。
そのため、たぶん「ガノタ(ガンダムオタク)」(死語?)の兄であっても、妹さんからの「ファーストの作品解説をしてほしい」という要請に対して、最初は、
と、いったんは拒否したくらいの世代なのである。
ちなみに、私は最近(ここ10年くらい?)の『機動戦士ガンダム』シリーズの中では『鉄血のオルフェンズ』は、けっこう気になった作品なのだが、読書を優先して「シリーズもの映像作品」は視ないと決めてすでに数十年だったので、結局は同作も視てはいないし、今後も視る暇はないだろう。
私は、アニメも観るのは「劇場用」と限っているのだが、その劇場用だってテレビシリーズ本編を視ていないものは、おのずと観ることもない。劇場版『エースをねらえ!』の宗方仁ではないが、人生の時間は限られており、まさに「時間を無駄にするな。時間を無駄にするんじゃない…」という感じなのである。
で、『アラサー』の妹さんの疑問とは、こんな感じだ。
たしかに「おかしい」し、現実にはあり得ないことだが、一話30分のテレビアニメなんだから「そこはそれ(省略のためのお約束)」だとは思えないのだろうか?
たしかに、私も若い頃は、そうした点についてツッコミを入れて笑っていたが、しかしそれだって「作劇上の必要」だとわかった上でのことだった。
なのに、いまどきの若者は、そんなことに気づかないのだろうか? どうして、そう「真面目」に「まとも」に受け取ってしまうのだろう?
もちろん、これは、この記事の筆者である『アラサー』の妹さんが「真面目すぎる性格」のせいであって、「いまどきの若者」全般の傾向として敷延できないことなのかもしれないが、あながちその可能性も無いではないのではないかと思ってしまう。
『ガンダム』シリーズは、はたして『難しい』のだろうか?
私などは当時、単純に「どうして、こんなに気難しいやつばかりなんだろう」と思っただけだが、それは、それまでのアニメの中で「戦争」が描かれても、「善玉側(主人公の側・正義の側)」の人は、おおむね「人格者」が多いから、状況が厳しくて焦ることはあっても、トゲトゲした感じにはならない作品が多かったからだろう。
つまり、富野喜幸(富野由悠季)のリアリズムは、当時としては「変わっている(珍しい)」とは思っても、「難しい」とは思わなかった。素直に「そういう作品なんだろう」と受け入れていたのである。
なのに、それを『アラサー』の妹さんは、『難しい』と感じている。これは、私などからすれば、不思議な感覚だ(と思わず、シャアのように、胸の前で組んだ腕の片方の手を、顎に当ててしまう)。
しかし、「いまどきの若者」なら、そうなのかもしれない。
と言うのも、「いまどきの若者」は、「素直であれ」「人に優しくあれ」「ルールを守れ」「暴力は、いかなる場合でもダメ」といった「正論」ばかりが強調された教育を、学校にとどまらず、社会全般から受けているので、昔の人よりも「感情をあらわにする人間」に慣れていないのではないだろうか。
だから、「なんでいきなりビンタ?」とか「もっと優しく教えてあげればいいのに」という「正論」にもなるのではないか?
私が子供の頃は、「年長者」や「指導者」というのは、「偉い」ものであり、おおむね「怖いもの」だと思っていたから、アニメの中でのこうした表現に、むしろ「(それまでになかった)リアル」を感じたのだが、「年長者」や「指導者」といった人たちが、もはや特別に「偉い」わけでも「怖い」存在でもあり得なくなった今の時代には、こうした「古いリアル」は、素朴に「謎」でしかなく、だから「難解」だということになるのではないだろうか?
ここなどもそうだ。
昔の子供なら、「わからない言葉」が出てきても、さほど気にせずに、その作品世界に没入して「なんとなくわかった気になる」ことで満足していただろう。
要は、「専門用語」など所詮は「雰囲気づくりの小道具」でしかないから、作中世界の設定や、場合によってはストーリーそのものさえ、正確に理解できなくても、作中人物たちの葛藤に同化して、作品世界を「生きる」こともできたのである。
また実際、私たちの実生活においても、若い人にとっては「知らない言葉」が溢れているはずだが、それを全部、正確に理解していないと生活ができない、というわけではないはずだ。
なのに、この『アラサー』の妹さんは、生真面目に、作中人物たちのやりとりを『ハイコンテクストなやり取り』だと思いながら視ているのである。
なぜ、もっと素直に、作品世界に浸れないのだろうかと、私には、そちらの方が、むしろ「謎」であった。一一ところが、
と、これを読んで、そういうことか、と多少は腑に落ちた。
つまり、今はインターネットがあるから、わからないことは、その場ですぐに調べて「正解」を知ることができるようになった。そのため、真面目な人ほど、知らない言葉と出くわしたときに、それをネット検索で調べて、「正しく」理解し、正しい反応を返そうとするのであろう。
しかし、昔は、そういうわけではなかった。
調べるといっても、新しい言葉は、必ずしも辞書には載ってないし、そもそも辞書を持ち歩いている人などいない。家に帰ってから調べる、などというマメなことのできる人など滅多にいない。また、家に帰った頃には、その言葉を是非とも理解しなければならない緊急性などなくなっている蓋然性が高いし、すでにその言葉自体を忘れてしまっていることも多いのではないか。今のように、スマホにメモったり録音しておいたるするわけにはいかないからである。
往時、刑事や新聞記者でもないかぎり、常時ポケットに「メモ帳と鉛筆」を忍ばせている人などいなかったのだ。
したがって、知らない言葉、わからない言葉に出くわした時には、その言葉を発した人に、直接その言葉の意味を教えてもらうか、それが恥ずかしいとか、何らかの理由で不都合に思われる場合には、「わかっているフリ」をして、なんとかその場をやり過ごすしかない。
相手の話していることが、すべて正しく理解できていなくても、「大筋(雰囲気)で理解」して、無難な反応をしなければ、日々の生活は成り立たない。
だから、アニメを視る場合だって、わからない言葉に対して、そこまで神経質にはならなかったし、なっても仕方がなかった。お手軽に調べる手段など、身近には無かったからである。
今は、知らない言葉が出てくれば、すぐに調べられる環境がある。しかし、だからこそ、調べられるものを調べないで、いい加減な返事ばかりしている人が、悪目立ちしてしまう。「あいつはいい加減だ」「横着だ」「適当だ」「無責任だ」と思われてしまう。
また、自分自身も、他人に対して「あの人はどうして、その程度の手間を惜しむのだろう」なんて思うから、少なくとも自分は、知らないことを知らないままに「適当に放置しておく」というような「大雑把」なことができなくなる。それは、「大雑把」でもなければ、まして「おおらか」でもない。端的に「いい加減な人」だという非難を招く理由になるから、多くの人は、おのずと「こまめに調べる」「即座に調べる」ということをしなければならなくなる。
しかも、調べるとすぐに「正解」が与えられるから、自分なりに「この言葉は、何を意味するのだろう?」と、あれこれ頭をひねって考えたりすることもなくなるだろう。そんなことをしていては、目の前の事態に「正しく」対応できないし、何より「効率が悪すぎる」からである。
そして、こうした、ほとんど「強迫的」な「加速化」が常態化すると、私たちは「なんとなく感じ取る」とか「ゆっくり考える」「自分なりに考えてみる」ということをしなくなるのではないだろうか。
一一だが、これは、極めて危険なことのように、私は思う。
ここで進んでいる状況とは、「脳の外化」だと言えるかもしれない。
それまでは、自分の頭で考えていたことを、外部のコンピュータに委ねることで、自身の能力を強化するという、一種のサイボーグ化。
しかし、その「外部装置」が失われた場合、その人は、ある意味で、手足をもがれたも同然の状態になることを意味する。だからこそ、これは危険なことなのではないだろうか。
そもそも、あらゆる時と場合に、スマホを含めたコンピュータが「正解」を与えてくれるとは限らない。
なぜなら、私たちの前に惹起する問題とは、必ずしも「論理的整合性のあるものではない(気まぐれ)」かもしれないし、「故意にデタラメで無責任なもの」かもしれないからだ。
例えば、「殺人は犯罪で、罰せられます。最高刑は死刑ですよ云々」と言ったところで、殺人を犯す人は起こすし、そうした相手が目の前に現れた時に、「逃げ方」をスマホで検索している暇などない。その時に必要なのは、スマホは無論、「自分の頭」すら使わない、経験に裏付けられた直観的動作ということになるはずなのだ。
だが、こうした「経験知」「身体知」といったものを、私たちはどんどん失っているのではないだろうか?
今の若者は、そんな「経験知」「身体知」を身につけていく時間的余裕がないからこそ、お手軽な「知識」ばかりを求めるようになるのではないか。深い「知識」や「知恵」を求めることなど、「贅沢」の部類になってしまっているのではないだろうか。
そのために、下のような本が刊行されることにもなっているのではないのか。
・レジー『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)
・稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)
普通に考えれば「そんな薄っぺらな教養なんて、そもそも教養とも呼べない単なる豆知識でしかないし、映画を早送りで観ても、作品の鑑賞にはならないから、それこそ時間の無駄だろう」と、そう言いたくなるはずなのだが、こうした人たちはきっと、そのようなことをしなければならない「必要に迫られている」のであろう。
「ゆっくり」本を読んだり映画を観ている暇なんて無い。
ひとまず「付け焼き刃」でも何でもいいから、「知識として持っており、それを語れることが重要だ」という「貧しい環境」に置かれてしまっているのではないか。
とにかく「手っ取り早く解決」しなければならない、細かな問題に日々とり囲まれ、それに煽られてヨタヨタと走り続けなければならない状況に置かれてしまっているのではないだろうか。
筆者である『アラサー』の妹さんは、この記事の報告部分を、次のように締めくくっている。
この、お兄さんの言い残した言葉「お前もアムロといい友達になれそうだな」には、「アムロと同様、他人の思いに鈍感で、察しの悪いお前は、かえって幸せなんだろう」というニュアンスが込められていると、私は読んだ。
この読みが、正しいとすると、このような記事をこの『アラサー女子』さんが書けるのは、「周囲の意向」に対して、適度に「鈍感であることの出来る強さ」を持っているとの自覚があり、だからこそ「そうできない多くの人たち」の困難な状況に、ある種の危機感を持っていたから、この記事を書いた、ということなのではないか。
実際、この記事にも、
とあるように、この記事の筆者は、アムロの「オタク的な鈍感力」を、けっこう望ましいものとして見ているのではないだろうか。
昔は「公園で遊んでいる子供に、知らないおじさんが声をかけてくるとか、お菓子をくれる」とかいったことも、ままあったが、今それをやったら、変質者ではないかと、110番通報されかねない。また、夏場であれば、上半身は裸、下はステテコ一丁で外を歩いても、何ら問題はなかったけれど、今どきだと「非常識」だと眉をひそめられるのではないだろうか。
こんなふうに考えていくと、便利になった世界が、かえって私たちの生活をどんどん息苦しくしていっているように思えてならない。
もちろん、今更引き返すことなどできないのだけれど、しかし、このままでいいのだろうか。
果たして一一君は、生き延びることができるか?
(2022年11月9日)
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