人間の人間たる〈自己超克〉 : 堤未果・ 中島岳志・ 大澤真幸・ 高橋源一郎 『支配の構造 国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか』
書評:堤未果・中島岳志・大澤真幸・高橋源一郎『支配の構造 国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか』(SB新書)
本書は、NHKーEテレで放送された『100分de名著スペシャル〜メディア論』の好評を受けて、新たにメディア関連の本4冊を採り上げて論じた、活字版の『100分de名著スペシャル〜メディア論2』といったところのものだ。
本書で採り上げられる4冊は、ハルバースタム『メディアの権力』(堤未果)、トクヴィル『アメリカのデモクラシー』(中島岳志)、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(大澤真幸)、ブラッドベリ『華氏451度』(高橋源一郎)である。
私はテレビの『100分de名著スペシャル〜メディア論』を視ていないので、そちらがどういう内容だったかは知らないが、本書の「国家とメディア 一一 世論はいかに操られるか」というサブタイトルから推すと、テレビの方も、いわゆる「マス・メディア」の問題を中心に論じたものだったと推察される。
しかし、私が本書で特に興味を持ったのは、テレビや新聞あるいはインターネットといった「マス・メディア」ではなく、イマドキは「マス」と呼べるのかどうかも疑わしい、書籍を扱った部分だった。
言うまでもなく、堤がここで言っているのは、「若者」にかぎられた話ではないし、「活字」であればいいとか「活字」じゃなければダメだ、などといったことでもない。
だが、活字に親しんでいない人の「単純化」された(正確には、複雑化されていない)頭からは、脊髄反射的に「活字だけが偉いのか」とか「何様のつもりだ。上から目線で、○○をバカにするな」といった反発しかかえってこないだろう。
物事を丁寧に観察検討して、その意味を読み解くといった「面倒なこと」は、それに喜びを感じる人にしか出来ないというのは、理の当然だからである。
そしてその結果が(いささか極端な言い方ではあるものの)、
ということにもなるのであろう。
じっさい、小説を読むと言ってもラノベしか読まないとかエンタメしか読まないといった人は少なくないだろうし、政治・社会関連の書籍を読むと言っても、見出し的なアピールばかりが派手で客観的考察に欠ける短文ばかりの載った「オピニオン雑誌」の類いしか読まない人も多い。
彼らは、「新しい視点を得ること」つまり「自己を相対化して発展させること」を望むのではなく、ひたすら「今の自己が追認されること」つまり「変わらないで済ませること」を望んでいるのである。
自身の「従来の世界の見方」が揺らぐことを喜べるのは、自身の知が「世界の現実」に食いついていき、それを咀嚼できる力がある、と信じられる人間だけだ。
自分はバカだとどこかで自己卑下している人間は、自己保身のために「今の自分の世界観」を追認してくれるものだけを掻き集め、その手垢にまみれた防御壁によって「今の自分」を守り、それに閉じこもってしまうのである。
むろん、今の世の中には、面白いものがたくさんあるし、私は(そして堤も大澤も)そうした「娯楽」を否定するわけではない。私自身「娯楽小説」も「娯楽映画」も「娯楽マンガ」も楽しんでいる。だが、それだけでは「バカになる」と言うよりも「知的未熟」に止まるしかない、ということであり、そうした「知的に未熟な人間」を、知的に勝った(かつ、他者に不誠実な)権力者がコントロールするのは容易なことだ、ということなのだ。
「知的に未熟な人間」の最大の問題点は、自身の「知的未熟さ」への無自覚である。知的に未熟であるからこそ、自身の知的未熟さに気づかず、独り善がりな自信(自己正当化)を振りかざして「学び」を拒絶しがちなのだ。
「娯楽」が悪いわけではない。しかし「知性」を磨かなければ、人間もまた「飼いならされた豚」にも劣る存在でしかないということに気づかなければならない。
人間以外の動物は、その種の範囲においてしか学習しないけれども、人間はどこまでも学習し、人間であることを超えていこうとするその知性において、人間なのである。
たとえそれが、時に不幸をもたらそうとも、人間が人間であるかぎり、知を求め、物事の本質を考え抜こうとするものなのだ。安易に自足できない知的欲望こそ、人間の人間たる所以なのである。
という言葉は、人間の「理想」というよりも、人間が人間であるための「条件」なのではないだろうか。
初出:2019年8月1日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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