前野隆司 『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』 : 本当は、この世界に〈意味〉は存在しない。
書評:前野隆司『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』(講談社+α文庫)
少々うさん臭さの漂うタイトルだし、著者の経歴も微妙なので、もしかすると(選書に)失敗かなと思いながら読み始めたのだが、かなり面白かった。
本書巻末の著者紹介は、こんな感じである。
私と同い年である。経歴的には申し分なく立派な人で、高卒の私とは月とスッポンだ。
それでも『人間にかかわるシステムならばすべて対象』というのは私と同じで『理工学から心理学、社会学、哲学まで、分野を横断して研究』というのも、専門性のレベルは違うものの、傾向としてはとても似ている。
しかし『人類にとって必要なものを創造的にデザインする』とか『幸福学』といったところには、私は、どうにもうさん臭さを感じてしまう。
私の場合は「徹底して現実を直視すれば、選ぶべき道は自ずと明らかになる」と考えるので、ことさらに「幸福」になる方法、などといったことは考えない。そういうのは、「宗教」臭くて、いかにもうさん臭いと感じるからだ。
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だが、読み始めてみると、著者の「人間」の捉え方は、徹底して「科学的」であり、その点で、とても共感できたし、学ぶところが多かった。
ことに、「心」に関する著者の捉え方は、徹底的に科学的な見地からする「心とは、幻想(錯覚)である」というもので、その理論の中核をなすのは、人間が「心=魂=私」と考えているものは「進化的に脳が獲得した、効率的記憶装置としてのクオリアによる、認知情報の編集構成作品としての現実、という幻想を受けたかたちでの、二次的な錯覚だ」というもので、これには、これまであれこれ考えながらも、うまく言語化できなかった部分を補ってもらえたという感動があった。
で、著者のこの理論を正しく理解したい向きには、本書を読んでいただくしかないのだが、ここでは便宜的に、この理論を、不正確ではあれ、ごくごく簡便に説明をしてみよう。
まず、私たちが「現実」と思っている「認識の外部にあるもの(と思っているもの)」は、人間の感覚器官を通して得られた情報を、脳で「クオリア」として構成したものだ。
つまり「赤いもの」の「赤」色とは、それが実際に「赤い」のかどうかは別にして、脳の中で「赤」とされた「色」として「映像化」されて認識される。この時、認識されている「赤い色」が「クオリア」である。
「クオリア」には「色」だけではなく「味」や「音」や「感触」など色々あるが、これらはすべて、脳で構成されて、初めて存在するものであり、いわば脳の中にしか存在しないから「幻想」なのである。「脳の外」にある「それ」とは、違ったものだからだ。
で、こうした「クオリア」は、程度の差はあれ、他の生物にもおおよそあるのだけれど、同じようにあるわけではない。脳の機能が低ければ、「クオリア」の質も低下して、限定的で単純なものにならざるを得ないからだ。
で、問題は、人間の脳が発達して「クオリア」が高度化すると、どうなるかというと、それが精緻な「記憶」として保存され、行動が精緻化されるのである。
ところが、この「クオリア」によって精緻化された「記憶」とは、所詮「認知」や「行動」の後(や先)に構成された「幻想」でしかないのだが、人間はそれを「同時的に作動している意識=心」だと、受動的に錯覚している(幻想としての判断主体)。なぜそのようなことが起きるのかといえば、そのように「誤認」する方が、システムとしては効率的かつ安定的だからである(例えば、人間の視覚には、構造的な盲点があるのに、脳がその部分の情報を補うことで、盲点を消しているのと同じようなことだと言えよう。本来は存在しない情報を、在ると錯覚しているのである)。
つまり、下等生物から人間にいたるまで、「刺激」に反応して、生存のための行動をする、というのは、まったく同じなのだが、人間の場合は、その機能を、進化的に高度化した結果、高度な「記憶」装置を持つようになった。
だが、他の動物にも程度の差こそあれ存在している「記憶」システムを、それが高度であるがゆえに「心=意識」だと効率的に誤認している、というのが、人間の人間たるところで、それこそが本書著者の言う「受動意識仮説」なのだと、そう大筋で考えてもらえばいい。
きっと、著者からすれば「そこは違う」といったところがあるはずだが、私が理解しえたところでは、だいたいこんな感じだったと思っていただければよいだろう。
で、私が面白いと思ったのは、著者の「受動意識仮説」によれば、人間は、「意識=心=私」を持った「特別な生物」ではなく、あくまでも「生物の一種」であり、さらに言えば「よく出来たシステム」の一つであって、要は「ロボット」とも、本質的な違いはない、ということなのである。
言い換えれば、ロボットが、十分に複雑・高性能化すれば、「自意識という幻想」を持つようになるはずだ、と考えることが(論理的には)正しい(つまり、無機物と有機物に、本質的な断絶はない)、と考える点で、私は深く共感したのだ。
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ところが、本書終盤の「幸福学」の部分に入ってくると、やっぱり、基本的に納得できない。
著者は「人間の、生物としての現実を正しく知るならば、死を恐れる必要などなくなり、おのずと死を恐れなくなるはずだ」と主張し、本書の趣旨もそこにある。
著者が延々と「人間は機械である」「意識は幻想である」みたいな科学的説明を行うのも、それは「だから、この世界における生死とは、本当は連続的なサイクルのようなものであり、その意味で、死は特別なものでも終わりでもないのだから、恐れる必要はないのだ」ということを教え、納得してもらいたいからで、ここまでは私も納得できる。
しかし、著者が、そんな「生死観」に立った上での「幸福学」の見地から、(禅に代表される)仏教のような哲学的「宗教」の効能を語り始めると、そこからはまったく納得がいかず、むしろ、それは「主張に一貫性のない、誤魔化しだ」としか思えないのだ。
無論、著者は、宗教の「教義」を信じているわけではなく、「宗教」を「(誤った)こだわりなく生きるテクニック」としてなら利用可能であり、科学的認識とも共存可能だ、と考えているようなのだが、私は、そうは思わない。
所詮「宗教は、フィクションであることを否定するフィクション(幻想でしかない「意味」の存在を認めるフィクション)」でしかないのだから、私の場合は「フィクションと自覚できる、個人的なフィクションに生きよ(無い「意味」を、あるかのように生きよ)」と考えるのだ。
つまり、「宗教」のように「他(自分の外部)に権威を求める」ことをしないで、ただ、自分だけに有効な「(個人的な)フィクション」を、「フィクション(個人的なものであり、普遍的な実在ではない)」と自覚しつつ「自己コントロールのための、自覚的な道具的イメージ(虚構)」として活用せよ、と言いたいのだ。
そして、私の考える「自己コントロールのための、自覚的な道具的イメージ(虚構)」とは、例えば「理想」的な「観念」「信念」「生き方」「偉人的人物(イメージ)」「キャラクター」などといったことになる。
例えば、「人のために汗を流す人間になりたい」とか「仮面ライダーのように生きたい」といったことだ。
「人のために汗を流す人間になりたい」というのは、その人個人の「理想」としての「観念」や「信念」であり「イメージ」であって、それを実行できるか否かは、その人個人に全てがかかっていて、他の誰も保証してくれるものではない。また「仮面ライダーのように生きたい」という「理想」は、「仮面ライダーは実在しない」という前提的認識があった上で「それでも私は、そのように生きたいのだ」という「個人」の意志がすべてであって、他の誰も、その生き方の「成功」を保証してなどくれないものなのだ。しかし、そんなものでも「無いよりはマシ」なのである。
ところが「宗教」というのは、いくら「仏教は、宗教ではなく、哲学である」などと言っても、やはり「既成の権威」として、どこかで「保証」を与えている部分があり、そこが結局は、自らが否定したはずの「虚構=フィクション」でしかないと私は考えるので、本書著者の「科学的ニヒリズム(本当は、善も悪もない。意味もない)」という立場からしても、矛盾していると思えるのである。
つまり、簡単に言えば「死は幻想であるから、恐れる必要はない」と言うのであれば「幸不幸も幻想であるから、恐れる必要なない」というところまでいかなければ、論理的には「矛盾」であり、実のところは「実用的妥協による不徹底」なのだ。
だから、私は「本当は、生死もないし、幸不幸もない。だから、自己責任において、なるべく、美しいと感じられる、生と幸福を虚構して、それを生きるべきだ」と主張するのである。
したがって私は、本書著者の言う、一般性はあっても画一的でしかない「幸福学」もまた、妥協の産物的「無自覚な幻想」だとしか評価できない。
そして、著者と私のこうした「違い」は、たぶん、本書著者には「文学」がなく、私にはそれがあった、ということなのではないかと考えている。
(2021年12月13日)
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