ラース・フォン・トリアー監督 『奇跡の海』 : 無自覚な「権威迎合主義」を嗤う
映画評:ラース・フォン・トリアー監督『奇跡の海』(1996年・デンマーク映画)
「イヤ〜な映画」である。
ラース・フォン・トリアー監督作品については、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を、公開時の2000年に観たのにくわえて、今年「ラース・フォン・トリアー・ レトロスペクティブ 2023」(縮小6本立版・第七藝術劇場)で、次の5作(6作)を観ているから、どういう作風の作家なのか、おおよそ把握してはいた。
今回『奇跡の海』を観ることにしたのは、既鑑賞の6作以外の作品、つまりまだ観ていない作品の中から、中古DVDで、比較的安く手に入るものを選んだ結果であって、深い意味はない。
ただ、DVDを入手してから、この作品が『カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ』(Wiki)を受賞した作品だと知ったし、また「ラブ・ストーリー」だと評されていることも知った。
しかし、なにしろ前記の6作で、この監督の作風をおおよそ知っている私としては、「ラブ・ストーリー」だなんて眉唾じゃないかと思った。だがまた、本作は、後で示すとおり、比較的初期の作品だったので、まだ、その「イヤな個性」をむき出しにしてはいなかったのかも知れない、とも思った。
たしかに監督デビュー作である『エレメント・オブ・クライム』は、「イヤ〜な作品」ではなかったから、本作も、まだ「猫をかぶっていた」時代の作品だったのかも知れないと、そう思ったのである。
それに、たまたまなのだが、本作のDVDを入手する直前に、友人が「いらなくなった本などの詰め合わせ」を送ってくれ、そのなかに本作のパンフレットが入っていた。
正確には『CINEMA RIZE No.68 奇跡の海』である。たぶん、パンフレットがわりに売られていたものではないだろうか。
この冊子の表紙には、タイトル『奇跡の海』の上に小さく『この愛は、誰にも汚せない』とあって、いかにも「純愛ラブ・ストーリー」であることをアピールしている。
また、ざっとではあるが、DVDを観る前に、パンフの中身を確認したところ、「イヤ〜な作品」であることを匂わすような文章は無さそうだった。一一だから、それも含めて「もしかしたら、まだメジャーになりきる前の作品だったので、普通にラブ・ストーリーを撮ったのかも知れない」と、そう考えたのである。
だが、その考えは甘かった。やはり、トリアーほどの個性の持ち主は、善かれ悪しかれ「栴檀は双葉より芳し」であり、やっぱり本作も「イヤ〜な作品」だったのだ。
本作をDVDで鑑賞したのち、前記のパンフレットを通読したところ、掲載された論考の「的外れ」ぶりには、心底驚いた。「こいつら何を考えて、本作を、純愛ものだなんて評価したのか」と驚いたのだが、考えてみれば、本作は前記のとおり、トリアーの初期作品だったために、このパンフレットへの寄稿者たちは、その後の「イヤ〜な作品」の数々を、まだ観ていなかったのである。
また、パンフに寄せられた論考の中でも言及されているとおり、本作『奇跡の海』の公開にあたって、トリアー監督は『映画を貫く〝善〟』と題するエッセイを発表しており、そこでは、この映画で描いたのは『精神的な〝善〟と、困難な〝善〟』であり『やがて受け入れられる〝善〟へ』ということだと語っているのである。
一一つまり、パンフレットへの寄稿者たちは、このエッセイを「真に受けて」、本作が「今は受け入れられていないけれど、いずれは受け入れられるであろう、あるいは、そうならなければならない〝善〟を描いた作品」だと、そうナイーブにも信じて、その方向での「理解」を語ったようなのだ。
こうした「盲信」には、無論、本作は『カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ』作品であり、前作の『ヨーロッパ』も、グランプリには届かなかったものの、同賞の「審査員賞」を受賞していたという事実が、大きく与っているはずだ。
要は「トリアー監督は、カンヌが認めた、新進気鋭の天才監督だ」という刷り込みがあったから、その最新作にして『カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリ』受賞作である本作については、基本的に「肯定的に評価しよう」という構えになってしまったのではないだろうか。
しかし、言うまでもないことだが、こういうのを世間では「権威主義」とも「権威迎合主義」とも「権威盲従主義」とも言うし、本質的に言えば、これは「偏見」であり、それに由来する「盲信」でしかない。つまり、批評としては、論外の「盲目的評価」でしかなかったのである。
だから、私が本稿で言いたいのは、本作の良し悪しというよりも、こうした「権威迎合主義」への批判であり、こうした愚物たちの「醜態」をあげつらうことで、同じような醜態の繰り返されることを少しでも減らしたい、といっとことになろう。
要は、作品評とは「作品に虚心に向き合い、そこで感じたものを、正直に語るべきであり、作者の自己解説に追従したり、作者の権威に盲従したりすべきではない」という、当たり前の話でしかなく、言わば「批評の基本中の基本」の再確認なのである。
○ ○ ○
本書の「ストーリー」は、次のとおりだ。
これだけを読めば、いかにも純粋な女ベスの、哀れな「純愛ストーリー」だと思うかも知れない。
だが、引っ掛かる部分があるはずだ。そこを安易にスルーしてはいけない。
まず、この「ストーリー」紹介からして、読者を故意にミスリードする「偽善的な誤魔化し」がなされている。それはどこかというと、主人公ベスを紹介した、次の部分だ。
端的に言ってしまえば、ベスは「知的障害者」あるいは「知的遅滞者」であって、人並みの知能を持っていない。感じとしては、小学校低学年くらいの知能だろうか。その上、
とあるように、彼女は(作中でも、医師が診断したように)「統合失調症」の気味がある(入院経験もある)。映画を見ればわかるとおり、彼女は、教会で独り祈りながら、神と自分の「一人二役」を「声色」までつかって、大真面目に演じているのである。
これは、中世であれば「神がかりの聖女」ということにもなるから、そういう評価も可能ではあるのだが、しかし、そうした評価は、まず、ベスが「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性であるという「現実」を認めた上で、なされるべきものだ。
ところが、上の「ストーリー」紹介文では、そのあたりを意識的に「誤魔化し」ている。それはまるで、
『「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性』
と書いてしまうと「障害者差別」になってしまい、「何かと差し障りがある」とでも思っているかのようにだ。
いや、そう思っているのであろう。
誰が見ても『「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性』について、現にそのように思っているのに、そのように表現できないのは、意識的に「自主的表現規制(自主的な「言葉狩り」)」をしているということに他ならない。
で、先のパンフレットへの寄稿者たちも、主人公のベスが「綺麗だ」とか「無垢で可愛い女性」だとは書いても、「知的遅滞者」だとか「統合失調症」気味だとかいったような「表現」は、一切しない。
なぜか? 一一それは無論、彼らが「事なかれ主義の偽善者」だからである。
この作品で、「当然の引っ掛かりを覚えるべき点」は、
という部分である。
これは、普通に考えて「異常な心理」だと言って良いだろう。
実際、ベスの姉やヤンの担当医師も、ヤンのベスに対するこうした要求を知って驚き、ベスに「彼は錯乱しているのだ」と、ヤンの指示に従わないように強く促す。当然、そのように判断して、そう助言するのが、まともな人間というものであろう。
ところが、前述のトリアー監督のエッセイ『映画を貫く〝善〟』では、このヤンの要求が『困難な〝善〟』に出たものだとしているのである。
つまり、ヤンは、自分がベスを性的に満足させてやれないことを申し訳ないと思い、せめてベスには自由に「性的な喜び」を享受してもらいたいと考え、ベスへの愛から、あえて「他の男に抱かれろ」と言った、ということになっているのだ。
映画にも描かれているように、ヤンは、決して錯乱しているのではなく、しごく冷静に、落ち着いた様子で、ベスに「そうしてくれ。それが俺を救うことでもあるのだ」と要求するのである。
そして、ヤンを心から愛しているベスは、当初は当たり前に「そんなことできない。できるわけがない!」と怒りと悲しみをあらわにして、ヤンの要求を拒絶するのだが、しかし、ヤンの容態が悪化すると、どうしていいかわからなくなり、教会へ行って神に相談する。すると神は「お前の愛を証明して見せよ」と言う。つまり「ヤンの要求どおりに、他の男に抱かれろ。それは、ヤンへの愛のための行為だから、決して恥じるべきことではないのだ」と、そういう意味である。
それで、子供のように純粋なベスは、他の男に触れることに大変な嫌悪を感じながらも、ただただヤンを救いたいがために、娼婦を装ってまで、見知らぬ男たちに抱かれ、やがては、厳格なキリスト教倫理に生きている村人たちから「汚れた女」として村八分にされ、子供たちからさえ「売春婦だ!売春婦だ!」と囃し立てられ、つきまとわれ、石を投げられまでするようになって、その無茶な行動の果てに、最後は死ぬことになるのである。
つまり、この映画で、トリアー監督がやっているのは、実のところ、「純愛を描く」ということではなく、「世間の偽善を嘲笑う」ことなのである。
そのために、ヤンは、異様に歪んだ『困難な〝善〟』の人として描かれ、一方ベスは「常識的な判断能力」を持たない、ただ「純粋なだけの女」として設定されたのだ。
「世間の偽善者たち」が、いかに「いやらしい存在」であるかを、これ見よがしに描くために、哀れなベスと異様なヤンを設定したのである。
したがって、本作は「純愛悲劇」のかたちを採りながらも、実際には(監督の本当の狙いとしては)「世間的な偽善に対する、悪意に基づく攻撃」を意図とした作品なのだ。
本作の最後では、売春を行ったがために、村の教会への立ち入りを禁じられ、村の共同体からも村八分にされた、哀れなベスが死んだ結果、教会での葬式は行われず、そのまま埋葬されることになったのだが、その埋葬で、牧師は「彼女はその行いによって、地獄に落ちる」などという説教を、わざわざする。
これはもちろん、トリアーが「キリスト教倫理」を敵視しているために、ことさら悪意を持って、彼らを「憎々しげで非情な人たち」として描いているにすぎない。ことさらに「悪役(ヒール)」として描いているにすぎないのだ(なお、こうした、極端な描き方は、トリアーにはしばしば見られるものだ)。
私のレビューをいくらか読んでくれている人なら知ってのとおり、私は自覚的な「無神論者」であり、徹底した「キリスト教批判者」なのだが、しかし、トリアーのこうした「アンフェア」なやり方には、まったく賛同できないし、嫌悪しか覚えない。
キリスト教を批判するのであれば、正々堂々と真正面から、理路整然と批判すればいいし、それは十分に可能なのだ。
ところが、トリアーのやっていることといえば「お前の母ちゃん出べそ」と言っているのと大差のない、幼稚な誹謗中傷の類に過ぎない。こんなものでは、「キリスト教批判」にも何にもなっていないのである。一一だがまた、ラース・フォン・トリアーという人は、そういう人なのだ。
この作品のラストは、上の「ストーリー」紹介にある通りで、
ということになる。
村人たちによる埋葬を好ましく思わなかったヤンが、ひそかに棺からベスの遺体を抜き去り、代わりに砂を入れておいたので、村人たちは、この砂入りの棺に向かって「ベスは地獄に落ちる」と祈ったあと埋葬していたのである。
一方、ベスの遺体を奪ったヤンとその仕事仲間の友人たちは、船で沖合に出ると、ベスの死体を水葬にふした。棺は無かったものの、布で巻かれたベスの遺体が、海軍で行われるようなかたちで海洋投棄され、水葬にされたのだ。
そしてその後に、村の教会はもとより、村には存在しないはずの「葬送の鐘の音」が天高くから響き渡り、しかも、実際に雲の上で二つの鐘が振り鳴らされている(幻想的な)様子が、この映画では描かれるのである。
一一これで、少なからぬ人は「ベスとヤンの愛は、神の祝福を受け、ベスは天国に召されたのだ」と理解して「ハッピーエンド」だと思ったのかもしれない。だが、これは間抜けすぎる誤解である。
このラストの、これ見よがしな「天の鐘」の描写は、トリアー監督の「悪意ある皮肉」に他ならない。「このように描いておけば、お前らのような頭の悪い偽善者は、これをハッピーエンドだと思い込みたがるんだろう?」と、そういうことでしかないのである。
つまり、このラストの「天の鐘」は、監督自身によるエッセイ『困難な〝善〟』と同様に、「偽善者」たちを嘲笑うための「フェイク」にすぎないのだ。
しかし、この程度のことは、本作を「虚心に鑑賞するならば」さほど難しいことではない。
たしかに、私を含めた、トリアーの「その後の作品」を知っている者は、前記パンフレットへの寄稿者たちよりは、ずいぶん有利な立場にあるというのは、否定できない事実であろう。
だが、それにしても、この作品から感じたことを、正直に語っていれば、本作を「純愛ラブストーリー」だと思ったり、『精神的な〝善〟と、困難な〝善〟』を描いて、『やがて受け入れられる〝善〟へ』という方向性を示した作品だなどと、トリアーの「誘導」どおりに考えたりしなかっただろう。安易に、その線に沿った評価など語らなかったはずなのである。
つまり、こうした評者たちは、トリアー監督に、まんまと嵌められ嘲笑われた、「偽善者」たちだったということである。
ちなみに、前記パンフレットへの寄稿者は、次のとおりである。
・辻邦生(小説家)
・宮本亜門(舞台演出家)
・香山リカ(精神科医・評論家)
・河原晶子(映画評論家)
・小松弘(映画史家)
・天願大介(映画監督)
以上の他に、トリアー監督の前記エッセイや、橋本シャーンのイラスト作品なども収録されているが、「作品」評価が語られているのではないので省いた。
上の6人のうちで、トリアー監督の仕掛けた「罠」にハマらなかったのは、小松弘ただ一人である。
あとの5人は、多かれ少なかれ、トリアー監督の罠にハマって、本作を「純愛ラブストーリー」であるかのように評した、いささか間抜けで無自覚な「偽善者」だったのである。
特にわかりやすい例をひとつだけ挙げておくと、天願大介はそのエッセイ「ラース・フォン・トリアーを観ることの悦び」の中で、直接インタビューして、トリアーから聞かされた話も踏まえたうえで、次のように書いていた。
なんという間抜けな能天気さだろう! こんな奴らに、映画を語る資格はないし、こんな奴らの「もっともらしいだけの言葉」を鵜呑みにしてしまうような者は、文字どおりの「盲目」であり、結局は、頭の悪い「権威迎合主義」者でしかない、ということなのだ。
ちなみに、天願大介なんて映画監督は知らないなと思って、ネット検索してみたところ、この人は「巨匠・今村昌平」の息子であることがわかった。
なるほどである。だが、世の中とは「そういうものだ」(カート・ヴォネガット)。
○ ○ ○
「感じるべき違和感」について、さらに一点指摘しておこう。
本作のポスターやDVDの表紙には、ヤンとの結婚式での、ベスのアップ写真が使われている。
もちろん、ベスを演じた、エミリー・ワトソンの顔のアップだが、これを見て「それほどの美人ではないな」と感じた人は正しい。
いや、たしかに彼女は美人女優なのかもしれないが、典型的な美人ではなく、少し「クセのある顔立ちの美人」と言う方が正しいだろう。細かくいえば、彼女の顔は「両目の間が少し狭い」という印象があって、そこに一種の「気味悪さ」のようなものが感じられるのだ(「ホラー映画向きの顔」と言っても良い)。
そして、これはたぶん、トリアー監督が意識的に彼女をベス役に選んだ「要件」でもあっただろう。彼女の「顔」は、どこか「神経質」そうな雰囲気を持っており、これはたぶん「両目の間が少し狭い」という印象を与えるところから来るものだ。
というのも、一般的には「両目の間が広い顔(ダゴン系)」というのは、人に「望洋とした、何も考えていないような印象」を与える。よくいえば「おおらかそう」ということになろう。
逆に「両目の間が狭い顔」というのは、人に「神経質で、何かを考えつめているという印象」を与えて、「緊張感」をもたらすことになる。
何が言いたいのかというと、エミリー・ワトソンの顔は、「神経症」や「精神に障害がある人」を演じるのに向いた顔立ちであり、見る者に「緊張感」や「不安」を無意識のうちに感じさせる顔だ、ということである。
なぜそうなるのかと言えば、私たちは「動物的本能」として「理解し得ない(意図を持った)もの」や「不自然なもの(普通ではないもの)」に「不安」を抱き「緊張」するようにできている、ということなのだ。これは「自己防衛本能」なのである。
だから、私たちは、たとえば電車やバズの中で、なにやら独り言を呟いている人を見かけると「気味が悪い」とか「怖い」と感じてしまう。それは、そうした人が、私たちの「常識」では推し量れない存在であり、要は「何をするかわからない」と感じているから、本能的に「緊張」することで「防御姿勢」を固めている、ということである。
そして、ここで肝心なことは、このこと自体は「差別ではない」ということなのだ。
前記のとおり私たちは、電車やバズの中で、なにやら独り言を呟いている人を見かけると「気味が悪い」とか「怖い」と感じるし、火傷のあとのひきつれを見れば「醜い」と感じる。
同様に「美人」を見れば「美しい」と思うし、その逆の人を見れば「醜い」と感じる。
例えば、ホラー映画『エルム街の悪夢』に登場する「夢に住むの殺人鬼」フレディー・クルーガーの顔は「焼け爛れた醜い顔」になっているが、なぜそうなっているのかと言えば、それは無論、観る人の「恐怖」を喚起するためである。
そして、このようにして「醜い」という感覚を抱いた場合、私たちはその「醜い人たち」を「差別」していることになるのだろうか?
そうではないと、私は考える。
なぜなら、「醜いものを醜い」と感じるのは「自然」なことであり、要は自己保存のための「本能」でしかないからだ。
そのため、これは「避けられないこと」だし、「醜いものが醜い」というのは「事実」なのだから、その事実自体を否定することはできないのである。
ただし、人間は「本能」だけで生きているわけではなく、「理性」を持った存在なのだから、「本能的」に「醜い」「怖い」と思っても、それをそのまま口にすべきではない場合があるというのを、「理性」の働きにおいて承知していなければならず、その「理性」の指し示すとおりに行動しなければならない。
つまり「顔がブサイクだ」とか「火傷の痕が醜い」と「感じた」としても、それをそのまま口にしてはいけないし、そうした「否定的な属性」をやむを得ずに持った人を、「差別」してはならない。
「否定的な属性」について「否定的な感覚」を持つことは、生存本能に由来する「不随意」反応なのだから、それ自体は仕方ないし、どうしようもないことだが、それをそのまま表出するのは、「理性ある人間」のすべきことではないのである。
だから、本作『奇跡の海』のポスターやDVDの表紙などに使われた、エミリー・ワトソンの「顔のアップ」に「違和感」を感じた人は、その感性に関しては、まったく正しいのである。
実際、ワトソンは、『「知的遅滞者」であり「統合失調症」の気味の女性』ベスを、「本物」にしか見えないほどに、見事に演じ切っている。
だからこそ、映画の中の彼女の表情を見て「変」だとか「少し気持ち悪い」と感じるのは、ごく自然なことで、それ自体は「偏見」でもなんでもないのだ。
私たちは、否応なく「知的遅滞者」の表情や「統合失調症」患者の表情に「否定的な違和感」を感じるようにできており、それは何度も確認したとおり、「本能的なもの」であり避け難いものなのだ。
エミリー・ワトソンは「そう感じさせるように演技をし、そんな表情を作っている」のだし、トリアー監督は、その演技力は無論、そうした役柄向きの顔をもつ女優として、エミリー・ワトソンを選んだのである。
だから、ベスとしての、エミリー・ワトソンを、「綺麗だ」とか「可愛い」としか言わないような人は、基本的に「偽善者」である。
そういう人は、本音では「知的遅滞者」や「統合失調症」患者を気味悪がっていながら、口では「美しい」とか「可愛い」などという言葉を連発し、その一方で、自分の配偶者には、そうした人たちを決して選ぶことなどない、恥知らずの「偽善者」なのである。
だから、そんな「偽善者」たちを、トリアー監督が嘲笑うというのは、間違ったこととは言えないだろう。
ただし、問題なのは、トリアー監督のやり方が「騙して、嵌めて、陰で嘲笑う」という陰険なやり方である点なのだ。この人は、いつだってこういう「醜い」やり方でしか、「偽善者」を批判することができない、歪んだ人なのである。
だから、私の場合は、あえて「醜いもの」を観るために、トリアー監督の作品を観ていると言っても良いだろう。
この世には、「美しいもの」だけではなく、「醜いもの」が確実に存在する。そして、その「醜いもの」にも、「表面的に醜いだけなもの」と「本質的に醜いもの」の二種類があるのだが、いずれにしろ私たちは「醜い現実」から目を逸らそうとしてしまいがちだ。なぜなら、それが「本能」だからである。
しかし、人間には「理性」があるのだから、必要とあれば、そんな「本能」を「理性」の力でねじ伏せてでも、直視しなければならない「醜い現実」というものがある。
私たちは、そうした「現実」を直視し、その上で、「受け入れなければならない(表面的な)醜さ」と「受け入れてはならない(本質的な)醜さ」とに峻別して、後者を厳しく批判攻撃していかなくてはならないのだ。
「醜い」のは、そうした「人間倫理における理性的な責務」を放棄して、表面だけで「善人」ぶってみせる、「偽善」なのである。
(2023年12月22日)
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