ポール・バーホーベン監督 『スターシップ・トゥルーパーズ』 : バーホーベン節炸裂の「アメリカ」嘲笑映画
映画評:ポール・バーホーベン監督『スターシップ・トゥルーパーズ』(1998年・アメリカ映画)
ロバート・A・ハインラインのSF小説『宇宙の戦士』の映画化作品。私は、ロードショー当時に観ており、これが2度目の鑑賞である。
最初に観た当時から、私はこの作品がとても気に入って、いつかもう一度観たいと思っていたのだが、それが四半世紀後の今になって、やっと実現した。だが、昔と変わらず十分に楽しめる作品であった。
映画の中に登場するコンピュータ・デバイスの表示画面などのデザインが、いささか古くさくなったことをのぞけば、CGを含む特撮シーンも特に違和感のない出来だったのだ。
だが、この作品の「売り」は、なんといってもバーホーベン監督独特の「皮肉な批評性」だ。つまり「嘲笑」。
大真面目に「批判」するのではなく、それを徹底的にからかう、憎たらしいまでの攻撃性が、この監督の「批評性」の特徴だと言えるだろう。そして、本作で、そんなバーホーベンの槍玉に上がったのが、「戦争・愛国バカ」とでも言うべき「右翼的な鷹派性」である。
本作については、以前、2012年に制作されたリメイク版『トータル・リコール』のレビューの中で、そこそこ触れているので、まずはそれを紹介した後、今回の再鑑賞で気づいた点を付け加えたいと思う。
私は本作『スターシップ・トゥルーパーズ』を観る以前に原作の方を読んでいる。そちらの評価については、上のレビューで次のように書いた。
私は、今も昔も「リベラル」だから、「右翼」的なものは大嫌いだった。だが、バーホーベンによる映画版については、次のような点に期待して観に行ったのだった。
上のような点では、映画『スターシップ・トゥルーパーズ』は「期待外れ」だったのだが、しかし、期待したものとは違った点で、この映画は、私を大喜びさせてくれた。
と、このようなわけで、私はこの映画を「SFアクションもの」としてではなく、その「皮肉な批評性」において高く評価し、バーホーベンという人を強く意識するようになったのである。
なお、本作のストーリーは、原作とは違って、『地味な「宇宙兵養成学校物語」』に終わるのではなく、それが最初の4分の1程度で、あとは「バグス」と呼ばれる敵宇宙生物との戦いが描かれ、その中で「愛国(愛星)戦士」として成長していく主人公の姿が描かれていく。
詳しい、ストーリーについては「Wikipedia(スターシップ・トゥルーパーズ)」の方で最後まで丁寧に紹介されているので、そちらをご参照願いたい。ストーリーを知ったからといって、それでつまらなくなるような「わかりやすい」作品ではないので、「ネタバレ」については、心配無用である。
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さて、今回、本作を再鑑賞する以前に、私はハインラインの別の代表作『異星の客』を読んでいる。最近のことだ。
なぜこの『異星の客』を読んだのかというと、この作品が「右派」思想的なものとは、およそ真逆の作品だという評判を聞いたからだ。そんなことがあり得るのだろうかと、気になったのである。
私が『宇宙の戦士』を読んだかぎりでは、ハインラインは本気で「愛国戦士への成長ドラマ」を肯定的に描いているという感じしかなく、それを「装って書いた」という感じは、まったくなかった。
では、問題の『異性の客』の方が、逆に「リベラルを装って書いた」作品なのだろうか?
そのような疑念を持って、『異性の客』を読んだのだが、この作品での「リベラル」さも、とうてい「演技」だとは思えないものだった。
ただし、『異星の客』を読んでひとつ言えることは、ハインラインは「複雑な人=屈折を抱えた人」であって、簡単に「右派」だとか「リベラル」だとか決めつけることはできない、ということであった。その意味で「面白い」人だというのがわかったのである。
したがって、できれば『宇宙の戦士』を再読して、そのあたりを「今の私の目」で確認すれば良いのだけれど、ただ、『宇宙の戦士』は、いま読んでも私には「楽しくない」作品だろうという印象が拭えないし、それなりに分厚い長編作品なので、この「課題」については、ハインラインの他の作品をいくつか読み、それで読もうと思えるようになれば、その時には読むこととし、当面は判断保留のまま残しておくことにした。
よって、本作『スターシップ・トゥルーパーズ』において、バーホーベン監督が、ハインラインの原作小説をどう評価していたのかは、定かではない。
かつての私のように、この原作を「右翼・愛国小説」としてバカにしていたのか、あるいは、私より深く読み込んで、ハインラインの意図をそうしたものではなかったと理解した上で、「右翼・愛国」的なものを嘲笑する映画を作ったのか、そのあたりは見定めがたい。だが、少なくともバーホーベンが、ハインラインの意図に関わりなく、「右翼・愛国」的なものを嘲笑する映画として本作を撮った、というのは間違いのないところだとは断じてもいいだろう。
では、どのようなところから、本作が〈「右翼・愛国」的なものを嘲笑する映画〉だとわかるのかというと、それはもう「冒頭」からして明らかである。
この映画の冒頭は「軍事国家」となったアメリカ(あるいは、アメリカ主導の地球連邦)政府の流す「兵隊募集のプロパガンダ番組」から始まるのだが、これがまあ露骨にこの種のプロパガンダ番組の「わざとらしさ」をからかうようなものであり、その「わざとらしさ」を殊更に誇張して描いているから、この映画の監督が、そうしたものを嫌い、馬鹿にしているというのは、比較的簡単に見て取ることが出来る。
だが、このあと本編ドラマに入ると、このような「極端なわざとらしさ」は影を潜め、ある意味では「よくまとまったSF戦争映画」になっている。
つまり、こんな具合だ。一一「世間知らずのお坊ちゃん」(主人公)が「好きな彼女が宇宙船パイロット志望」で軍を希望したので、彼も親の反対を押し切って兵隊養成学校に入り、そこでの厳しい訓練の中で成長していく。ところが、その訓練の最中、仲間を死なせるという事故を起こしてしまい、いったんは兵隊学校からの自主退学を決意するものの、そのタイミングで、故郷の街が「バグス」の遠隔兵器により壊滅し、主人公は両親を失うことで、地球を守る軍人になろうと、決意を新たにする。
そして、幾多の戦場経験をかさねる中で、尊敬できる上官や気のいい仲間との絆を育て、その一方、好きな彼女との別れと再会などのラブロマンスや、仲間の死などを経験して、主人公は優れた戦士として成長し、最後は「バグス」の「頭脳」ともいうべき個体の捕獲作戦に成功することで、この戦争の未来は明るいだろうということを暗示して、物語は幕を閉じるのである。
そんなわけで、この映画は、うかうか観ていると、当たり前の「娯楽戦争SF映画」として楽しめるような作品になっている。「リアル」な「反戦映画」とは違って、基本的には「味方はいいヤツ」ばかりだし、「敵は醜い虫」である。物語の展開も、いささかご都合主義にすぎる部分はあるものの、娯楽映画とは大抵そういうものだから、特に気になるほどのものではない。
そのため、この映画は、単純な「SF戦争映画」として楽しむこともできるし、その上で、少し深読みをすれば、「右翼・愛国」主義の「ノータリン」性をおちょくった映画として楽しむことができるという、一粒で二度美味しい「二重構造」を持っているのである。
少し物を考える人なら、この作品の「二重構造」は容易に見抜けるし、またそのように作られているのだから、この作品を、単なる「SF戦争映画」だと評価するような映画評論家は、まずいないだろう。むしろ、そういう人を見つけることの方が難しいのではないかと思う。
だから、ここまで指摘した程度のことなら「馬鹿でも書ける」のだが、今回の再鑑賞で、気づいたことが、ひとつあった。これは、ほとんど指摘されていないことだろうから、その点について書いておこう。
実は、この映画の最後もまた「兵隊募集のプロパガンダ番組」で終わる。
その中で、本作「本編」の主人公やその仲間の活躍なども簡単に紹介されて「君も、彼らのような誇り高い戦士にならないか」みたいなナレーションが入るのだ。
前回観た時は、最初と最後を「兵隊募集のプロパガンダ番組」でまとめて、「形式を整えたのかな」くらいの感じで流したのだが、今回は、この「サンドイッチ形式」を見て、もしかすると、主人公の活躍する「本編」部分は「政府の作ったプロパガンダ映画」という「(隠し)設定」なのかもしれないぞ、ということに気がついた。
つまり、「本編部分」が「SF戦争映画」として当たり前に楽しめるものになっているのは、バーホーベンが本作を、自身の「批評性」とは別のところで、普通の観客にも楽しめる「娯楽映画」とするために、妥協して描いたものだった、のではないのではないか、ということである。
バーホーベンが撮った、「兵隊募集のプロパガンダ番組」である「外枠」の部分は、明らかに「右翼・愛国」主義的なものを、嘲笑し批判するものだった。しかし、それと同じようには見えない「本編」部分さえも、「バーホーベンが撮ったもの」というよりは、「軍国政府が作った戦意高揚映画を、バーホーベンが批評的に再現したもの」と理解できるのではないかということ気づいたのだ。そして、もしそうだとすれば、この映画では、バーホーベンは、いっさい「妥協」などしなかった、ということになるのである。
このような「額物語=メタフィクション」の形式を、そうと察せられにくいかたちで採用し、自身の信念と作家性を貫いたバーホーベンに、私はいたく感心し、この「反骨の映画作家」に惚れ直すことになったのである。
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ところで、今回私が観たDVDでは、オリジナルの映画にはあったのかなかったのか、今では記憶していないのだが、たぶん無かったであろう「日本語テロップ」が、タイトルの後の冒頭部に掲げられている。次のような文言のものだ。
これがあると、ハインラインは、SF小説「スターシップ・トゥルーパーズ」(邦題で『宇宙の戦士』)を、「軍事政権」的なものに対し批判的に書いた、という印象を与えるだろう。
そして、その意味で、これがあると、この映画版も、決して「右翼・愛国」的なものを肯定しているわけではないし、「戦争讃美」をしている作品ではないことも「わかりやすい」とは思う。一一だが、こんなものは、最初からあったのだろうか?
私は今回、日本語吹き替え版でこのでDVDを観たので、この冒頭の「日本語テロップ」も、もしかすると英語オリジナル版では「英語表記」で登場するのかと思い、英語版に切り替えて、再度この部分を確認したのだが、やはり同じ「日本語テロップ」が登場した。
ということは、このテロップは、本来、無かったものを、後から日本で「何らかの配慮なより付け加えた」ものなのではないだろうか?
だとすれば、それは、バーホーベンが本作に込めた「皮肉な意図」を「わかりやすくするため」のお節介だった、ということなのかもしれない。
だが、バーホーベンが本作で批判的にからかっているのは、単に「右翼・愛国」的な思想だけではなく、「アメリカ文化の痴呆性」ということも含まれていると、私は本作「本編」の「通俗エンタメ」的な作りに見ている。したがって、このお節介な「日本語テロップ」も、ある意味では、観客に対して「過剰に優しい」、アメリカ的な「通俗エンタメ」性に竿を差すものでしかないのではないかと思うのだ。
つまり、バーホーベンならば、このような「解説テロップ」を冒頭に置かなくても、当たり前の人間なら、監督の意図したことくらい理解できるはずだし、理解できなくてはならない、とさえ考えていたのではないかと思うのだ。
だとすれば、この「日本語テロップ」自体が、バーホーベンの意図を汲んだというよりは、意図を汲みそこなって、かえってバーホーベンの嘲笑を買う代物になってしまっているのではないだろうか。
このあたりも、DVDを観ただけでは、その真相は不明だが、私のバーホーベン理解からすれば、この冒頭の「日本語テロップ」は余計なものであったばかりではなく、むしろ恥ずかしいものということになるのだが、さて、諸兄のご意見は、いかがであろう?
(2023年11月27日)
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