坂月さかな 『星旅少年』 : 〈忘れないで〉という根源的願望
書評:坂月さかな『星旅少年1 -Planetarium ghost travel』(パイコミックス)
本書は、著者デビュー作『坂月さかな作品集 プラネタリウム・ゴースト・トラベル』の中心的登場人物の一人「星旅人・登録ナンバー303」を主人公とした、シリーズ作品の第1巻である。
前記『坂月さかな作品集』の方は、著者の「作品世界」を全体的に紹介した著作で、その分、具体的なストーリー性には欠けており、『孤独で静謐な世界を優しい筆致で描く。』作品として感覚的に味わうには印象的であるものの、一方で、所詮は絵に描いた遠い世界の話として、長く印象に残る作品集にはなり得ていなかったようにも思う。
だが、本作『星旅少年』では、そんな「世界」を外から眺めるのではなく、その中に入っていって、そこに生きるような、ある種の「切実さ」を持った物語となっている。
この物語のテーマは「記憶」である。一一そう言っても過言ではなかろう。
「なぜ人々は、トビアスの木になってしまうのか」「星旅人・登録ナンバー303は、なぜ記憶することを仕事としているのか」一一こうした謎が、この物語を駆動していく。
前述のとおり、この物語の魅力は、何と言っても「孤独で静謐で優しい」ということなのだが、これは、裏を返せば、作者を含む多くの人々が、こういう世界を希求しているということではないか。
そしてそれは、私たちの「現実世界」が到底そのようなものではなく、剥きつけに言えば「猥雑で騒々しく冷たい」世界だということなのではないか。だからこそ、人は、まるで「死後の世界」のような「孤独で静謐で優しい」世界に憧れ、そこへ逃避したいと願うのではないだろうか。
このように、この物語を、私たちの「現実」と対照するなら、物語中に設定された「謎」の意味について、一つの解答を与えるのは、さほど難しいことではないのかもしれない。
例えば、「星旅人・登録ナンバー303は、なぜ記憶するのが仕事なのか」と言えば、それは我々の中に「私を見てほしい=記憶していてほしい=忘れないでほしい」という、強い願望があるからではないか。つまり、昨今の時事的な言葉で言えば「承認欲求=承認願望」である。
しかし、そうした「欲望」が十全に満たされることはない。
当たり前の話だが、他人の記憶に残りうるのは、特別な存在だけであって、大半の人は、記憶される以前に、興味すら持たれないし、結局のところ、特別な人であっても、いずれは忘れ去られてしまう。なぜなら、いずれ人類は死滅するからだし、この宇宙すら消滅するからだ。
だからこそ、私たちは「星旅人・登録ナンバー303」のような「記憶して遺す存在」の存在を望んでしまう。私たちが消えて無くなっても、どこかで誰かが私たちのことを思い出して、懐かしんでほしい。
そんな願望があるからこそ「星旅人・登録ナンバー303」のような「記憶して遺す存在=記憶の存続を保証する存在」が要請されるのである。
このように考えていくと、「トビアスの木とは何か」という謎にも、比較的わかりやすい回答を与えることができる。一一それは「作品」だ。人は作品を、自分の「記憶」として遺すことができるのだ。
だが、より正確に言うと、「トビアスの木」が、人を「トビアスの木」に変えてしまう猛毒性を持つという設定の意味とは、「トビアスの木」が単なる「作品」などではなく、「誰もが作品を残せるシステム」であると、そう考えるべきであろうし、その意味でそれは、「SNS」だと言えるのではないだろうか。
つまり、作者自身も私たちも、「トビアスの木」の猛毒にやられて、半ば「トビアスの木」になりかけている存在なのだ。
「トビアスの木」には、元の人の記憶が宿った実がなり、それを食べると、その記憶を見ることができる。しかし、その実は猛毒性のものであり、その実を食べれば、人は「トビアスの木」にグッと近づいてしまうのである。
これはどういうことかと言うと、「トビアスの木」というのは、「記憶としてのデータ」を蓄積した「SNS」なのである。だから、それを読むことで「記憶」を再生できるが、それを読むことで、人は「SNS」の毒を蓄積してゆき、いずれは自分も「書き手」となり、最後は「データ」だけを(トビアスの木というSNSに)残して、消えていくのである。
作中で「星旅人・登録ナンバー303」は、「トビアスの木には、記憶は残されているが、ゴーストは存在していない」と語っているのは、そういう意味だ。そこに「その人(人間)」がそのまま残っているのではなく、残っているのは「データ」だけなのである。
しかし、このようにして、すべての人が「トビアスの木」と化してしまったら、私たちは何のために「データ=記憶」を遺したのか、ということになってしまう。誰にも読まれず、誰にも思い出されることなく、誰にも懐かしんでもらえないのなら、データを残すことに、意味などないのではないだろうか。
そこで要請されるのが、すべての人が「トビアスの木」になったとしても、一人だけ「トビアスの木」にならないで、人々の記憶を味わい続ける存在としての「星旅人・登録ナンバー303」、ということになるのではないか。つまり彼は、「人」ではないのである。だから、「トビアスの木」の毒に侵されることもなく、たぶん歳も取らないのだ。
したがって、この物語が最終的に描くヴィジョンとは、人々が「データとしての記憶」だけを遺して死滅し、その後に、そのデータを保全し、読み返すことを仕事とする「機械」だけが残る、そんな「孤独で静謐で優しい」死後の世界である。
私たちが、もしも望みうるとしたら、そんな「死後の世界」しかないのだということを、この物語は語っているのかもしれない。
しかしまた、だからこそ作中には、「トビアスの木」を恐れ嫌悪をするだけではなく、人々が「データ」だけを遺して死滅した世界を、まるで肯定するかのような「星旅人・登録ナンバー303」を、嫌う人物も登場するのではないだろうか。静かな「死後の記憶」ではなく、「生きる」ことにこだわる人の存在である。そういう人は、きっと「SNS」を嫌悪している。「人は、記憶のために(書き残すために)生きているのではない」と、人を「死後の記憶」に還元しようとするそれを、拒絶したいのだ。
そして、こうした感情は、本作作者の中にもあるのではないだろうか。
作者は、自身を作家にしてくれ、夢を叶えてくれた「創作SNS」に感謝するその一方、自分を「トビアスの木」に変えていくシステムに対して、愛憎半ばする感情を抱いているのではないか。だからこそ、「トビアスの木」が支配する世界を嫌悪し、それを受け入れ肯定しているような「星旅人・登録ナンバー303」を、嫌う人物をも登場させるのではないだろうか。
いずれにしろ、間違いなく私たちは、こうした葛藤の中に生きている。
したがってこの作品は、私たちの「現実」から隔絶した「ファンタジー」ではなく、私たちの「願望」の儚さをリアルに描いたものとして私たちを惹きつけ、その一方で、「これでいいのか?」という感情をも喚起するのではないだろうか。
坂月さかなの描く世界の静けさは「死後の世界」であり、より現実な言い方をすれば「霊園」であり「墓地」である。そこには「トビアスの木」という「墓石」が林立して、故人の記憶を止める装置の役割を果たしている。
しかし、現実の「墓地」や「墓石」がそうであるように、そこに訪れて故人を偲ぶ人がいなくなれば、それらは自ずと「整理」され、上書きされて消滅してしまう。まさに「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」。
そんな「非情な現実」に対する「救済」として、私たちの夢想する「星旅人・登録ナンバー303」の「世界」とは、ある意味で、「阿弥陀如来の浄土」に似たものなのかもしれない。だからこそそこは「孤独で静謐で優しい」のではないだろうか。
人々の願望とは、その本質において、大きく変わるものではないのかもしれない。
(2022年4月23日)
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