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長崎ライチ 『地球に生まれちゃった人々』 : 〈宇宙人〉の悲しみ
書評:長崎ライチ『地球に生まれちゃった人々』(ハルタコミックス・KADOKAWA)
初出が明記されていないので断定はできないが、帯に、『『ふうらい姉妹』の/長崎ライチの/お蔵出し!』とあるので、『紙一重りんちゃん』『ふうらい姉妹』(全4巻)などで知られる長崎ライチの、初期作品集と見て間違いないだろう。
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本集に収められた作品は、おおまかに「自伝的作品」と「SFホラー作品」の2種類である。
今では「世間からちょっとズレた変な人」の生活を、愛情を込めてほのぼのと描く作家だと認知されているであろう長崎ライチが、その初期において、どのような方向性を模索していたのかが、とてもよくわかる作品集だ。
たぶん、より古いのは「SFホラー作品」の方で、こちらの作品には、萩尾望都や楳図かずおなどの影響が見て取れる。
だが、「SF」と言っても、萩尾望都のように「SF小説」を読み込んでいるようには見えず、たぶん、マンガや映画から得た「SF」的な設定を使って描いた、二次的なSF作品と見て間違いない。「SF」的なガジェットを使ってはいるものの、「SF」的に見て、特に「新しいアイデア」や「壮大な思弁」があるわけではない。ただ、「宇宙人」や「人間になりすましている何者か」や「複製人間」といった、「人間と似ているけれど、人間ではない存在」が、人間の「常識的世界観」を脅かす作品だと言えるだろう。
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一方、「自伝」そのものではないけれど、「実体験」を下敷きにしたのが明らかな「自伝的作品」の方は、当然のことながら、ある程度の実績を積んでから描かれたもの(描くことが許された種類の作品)だと思われる。
この「自伝的作品」で描かれるのは、あるシリーズ作品のタイトルが「清く正しくはみだした人の話」とあるとおり、「世間の欺瞞に順応することができないために、職を転々とする不器用な人」を主人公としている。
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私は、長崎ライチの、もう一つのノンシリーズ短編集である『阿呆にも歴史がありますの』の書評で、
『長崎ライチの特徴は「狂気と無垢」とでも言えるのではないかと思う。
多くの人は、その「理性」によって、自分の感情を抑制して「社会」に適応しようとする。ところが、この「自己抑制による社会適応」の苦手な人たちを描いたのが、長崎ライチ作品なのである。』
と書いたが、本書の「自伝的作品」で描かれるのも、ぐっと現実的ではあるものの、やはり「清く正しい」という「狂気と無垢」を抱えているがゆえに「はみだした人」の話だと言えるだろう。
「自伝的作品」に描かれた「不器用な人たち」を、マンガ的に誇張し、純粋化して極限にまで強化すると、「反社会的な狂気」とも見える、ライチマンガでおなじみの、ライチキャラになるのである。
つまり、作者・長崎ライチの意識は、「社会に適応した普通の人間」の側にはなく、「社会の欺瞞に適応できない人たち」の側にあり、「社会の側」から言うならば、彼らは言わば「宇宙人」なのだ。
本来なら「宇宙人」は「宇宙人のいるべき母星」に生まれて平和に暮らしたかったのだが、残念ながら、ライチキャラは、生まれるべき場所を誤って生まれてきた「宇宙人」であり、決して望んでいるわけでもないのに、その異なった存在性のために「地球人」たちを脅かし、それゆえ「阻害」されてしまう「地球に生まれちゃった人々」だ、ということになろう。
彼らは「地球に生まれた」のではない。「生まれた」と言うと、何やらそこに主体性が感じられてしまうが、彼(彼女)らは、あくまでも「望まず」に、ある種の「失敗」として、地球に「生まれちゃった」のだ。「生まれちゃった」という言い回しには、そういう「失敗」や「不運」に対する、ため息のような感情が込められているのである。
その後の長崎ライチは、「宇宙人」や「(世間の常識から外れた人としての)狂人」から、なんとか「紙一重」で、人間社会の側に住むことを許される存在へと順応し、人々から「阿呆」として「安心」される存在となる。
しかし、人々が「ちょっと変わった子」とか「阿呆姉妹」だと言って安心する彼女たちの中には、「阻害された者の悲しみと痛み」が刻み込まれているのだということを、彼女たちのためにも、そして私たち自身のためにも、私たちは心得ておくべきなのではないだろうか。
(2021年11月30日)
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