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ディズニーアニメ 『ファンタジア』: その影響力と 杉野昭夫
映画評:ベン・シャープスティーン監督『ファンタジア』(ディズニー)
クラッシックの代表的な名曲に、アニメーションによるイメージ映像をつけた、全7話のオムニバス作品。
最後の作品だけ、2曲が使用されているので、全8曲だ。
本作は、私が最も敬愛するアニメーター・杉野昭夫(『あしたのジョー2』『宝島』『家なき子』『ユニコ』等)が褒めていた作品として記憶していた。
当時(約40年前)は『ファンタジア』を観ていなかったので、杉野が『ファンタジア』のどの部分を褒めていたのか正確なところは記憶していないが、いずれ観なければならない作品として、ずっと気にとめていた、アニメ史における名作である。
さて、私の評価だが、最初の「トッカータとフーガ・ニ長調」(バッハ)には、キャラクターの登場しない抽象記号的なアニメーションがつけられており、実験アニメ風の作品で、まずまず面白い。
次の「くるみ割り人形」(チャイコフスキー)では、ディズニーお得意の妖精たちが自然の中を飛び回り、四季の変化をもたらす様子が描かれていて、今の目で見ても素晴らしい、必見の傑作。
当然、後の作品も期待したが、残念ながら残りの5編は、普通に、昔のディズニーアニメ(漫画アニメ風)の域を出ないものであった。
ちなみに、杉野昭夫が作画監督をつとめた劇場用長編アニメ『ユニコ』(原作:手塚治虫、監督:平田敏夫)には、『ファンタジア』第5話「田園交響曲」(ベートーベン)のユニコーンの描写と、第7話「禿山の一夜とアヴェ・マリア」(ムソルグスキーとシューベルト)での禿山の魔神の描写の、影響が見られるように思う。いかがだろうか。
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【補記】 ディズニーとキリスト教の問題
最近刊行された、『キリスト教と死 最後の審判から無名戦士の墓まで』(中公新書)で、著者・指昭博が、『ファンタジア』第7話「禿山の一夜とアヴェ・マリア」に描かれた「死と霊魂」描写の問題について言及している。
「禿山の一夜とアヴェ・マリア」では、夜になると活動し始める「禿山の化身たる魔神」が、墓場から幽霊(霊魂)たちを呼び起こし、幽霊たちが夜の空を飛び回る様子がおもしろく描かれているのだが、これはキリスト教における「死者は、最後の審判までは墓場で眠りつづける」という終末論からすると、正しくない通俗的な死者描写ということになるはずだ。
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まして本作で描かれる「禿げ山の魔神」は、見かけ的には完全に「巨大な悪魔」なのだから、夜間だけとは言え、悪魔が死者(の霊魂)を呼び起こすというのは、キリスト教的には穏やかではない表現だと言えよう。「死者の復活」とそれに続く「最後の審判」は、あくまでも「再臨したキリスト」の専権事項なのである。
当然、キリスト教国であるアメリカの、ディズニーのスタッフたちは、そのあたりに配慮したのか、「禿山の魔神」は、はっきりと「悪魔」とは描かれておらず、あくまでも「禿山の化身」というかたちでしか描かれていないし(もとより文章や音声での説明はない)、夜が明け、魔神の威力が失われたあとの後半の描写は、キリスト教の代表的聖歌「アヴェ・マリア(おめでとう、マリア様)」の調べに乗せて、荘厳な巡礼たちの姿(?)と楽園(神の国?)入りを思わせる清浄な風景が描かれて、物語は幕を閉じる。
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これは、アニメ作家たちとしては前半「禿山の一夜」の奔放で幻想的なイメージを描きたかったのだが、それだけでは問題があるので、後半の「アヴェ・マリア」でフォローしておいた、ということなのではないだろうか。
そもそも、『フェンタジア』第3話「魔法使いの弟子」(デュカス)には、唯一ミッキーマウスが登場して「魔法使いの弟子」を演じるが、この「魔法使い」というものは、キリスト教以前に、広くヨーロッパに居住していたケルト人の民族宗教の祭司ドルイドが、征服宗教であるキリスト教によって「零落させられたイメージ」であると言われている。
『ファンタジア』でも、登場する魔法使いは、意地悪そうな顔はしているものの、しかしミッキーの師匠なのだから、決して悪人ではないはずで、この作品でも、キリスト教的な「魔法使い=悪魔の眷属」という扱いにはなっていない(ちなみに、映画にもなった、J・K・ローリングの児童文学『ハリー・ポッター』シリーズが、カトリックでは「魔法使いを肯定的に描いた、好ましくない小説」扱いにされている)。
また最近では、日本でも大ヒットした『アナと雪の女王』で、従来であれば「(悪の)魔女」扱いにされていた「雪の女王(エルサ)」は、決して悪役ではなく、魅力的なヒロインとして描かれているし、1959年のディズニーのアニメーション映画『眠れる森の美女』のリメイク版実写映画として製作された『マレフィセント』では、悪役の「魔女(マレフィセント)」の視点から同じ物語を語り直して、マレフィセントが決して単なる「悪の権化」ではないことを強調している(また、両作共に、魔女に「名前」が与えられている)。
このように見てくると、ディズニー作品には、かなり早い時期から「キリスト教倫理」を相対化して、それ以前(および以外)の「文化(宗教・神話)」を公正に評価しようとする視点が感じられる。
これは、西欧世界の束縛から自由であろうとした独立国アメリカの、そして多民族国家アメリカの、「人間主義」の伝統と理想に発するものなのかも知れない。
なお、藤原聖子編『世俗化後のグローバル宗教事情 〈世界編I〉(いま宗教に向きあう 第3巻)』(岩波書店)所収の論文「児童文学の中の魔女像の変容とジェンダー」(大澤千恵子)は、前記の『ハリー・ポッター』や「ディズニーアニメ」あるいは、モンゴメリの児童文学『赤毛のアン』を同様の見地から扱ったものとして、たいへん裨益されたので、紹介しておきたい。
初出:2019年9月25日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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