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玉城康四郎 『悟りと解脱 宗教と科学の真理について』 : 博識な (自称)ブッダの 〈アナロジカル陳列室〉

書評:玉城康四郎『悟りと解脱 宗教と科学の真理について』(法蔵館文庫)

これはもう「学問」ではなく「創作」である。

著者は「東大名誉教授」という肩書を持つ、立派な「仏教学者」なのだが、彼は「私は学者ではありません。行者です」(丘山新・文庫版解説 P248)と自ら宣言するとおりで、良くも悪くも「普通の学者」ではない。

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(玉城康四郎)

彼の本質は「信仰の行者」であり、学問は「自身の信仰体験の自己分析」にすぎない。したがって、本人は客観的に分析し、描写しているつもりでも、それは「主観」を客観的に描こうとしているだけであって、自身の「主観」を疑おうという「学者的な客観性」は、ほぼ「無い」と言って良い。
「ほぼ」と言うのは、いちおう「私のこの悟りは、なぜ本物だと言えるのか」みたいなことは言うのだが、その「問い」は、あくまでも形式的なものでしかないからだ。なにしろ彼の本質は「信仰の行者」であり、要は「信仰的な世界観」を、疑いようのない自明の大前提として「信じている」からである。

したがって、前記の「問い」に対する「自己回答」は、無信仰の第三者を納得させるような体のものではなく、せいぜい「ああ、お釈迦さまの悟りが本物の(超越的な)悟りであること前提として、自分も同じだという理屈なんですね。でも、非信仰者や異教徒は、お釈迦さまの悟り自体、いわゆる宇宙的真理への全的覚醒みたいな、超越的かつ特権的な悟りだとは考えないんですよ。あくまでも、ゴータマさんが、ゴータマさんの主観において、悟った気になった、としか考えませんから」という感じにしかならないのだ。

そして、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)の「悟り」が、いわゆる「本物」か「自己満足」かは、今となってはわからないので、ここでは措くとして、問題は、本書著者である玉城康四郎が自己申告している「悟りや解脱」が、本物か否かということだ。
そして、結論から言わせてもらえば、私は「本物ではない」と判断する。

それは、良くて「勘違い」、悪くて「嘘」だ。
まあ、「嘘」と言っても、本人は半ば本気で信じていたという「自己欺瞞」も含めてではあるが、いずれにしろ玉城康四郎が、本当に「悟った人(ブッダ)」だとは思わない。六道輪廻や煩悩から「解脱」した人だなどとは思わない。

その理由は、本書を読めば、著者である玉城が「ちょっと変わった人」ではあるけれど、所詮は「ただの人」でしかないとしか感じられない「文体」の持ち主であり、内容的にも「博捜博識の宗教研究者にして信仰実践者」の域を出るものではない、としか思えないからだ。
つまり「凡夫」を超えた「時空を超えた超然たる人格や認識」とそれに伴う「明鏡止水」的な「たたずまい」といったものが、玉城の文章には、まったく見当たらないし、感じられもしないのである。

玉城の文章(文体)というのは、基本的に「大袈裟で騒々しい」と、こう評して良いだろう。
文庫版解説者の丘山新は、師である玉城を、

『仏教学者にとどまらぬ特異な思想人としての在り方が示されており、本書を独特な輝きで包んでいる』(P251)

『続く第六章での跳躍ぶりは、その(※ 「悟り」や「解脱」の)体得に支えられての科学との照応で、入定(※ 真言密教における、特別な瞑想行法)を(※ 体得的に)知る玉城の境地でこそを語り得る力技、まさに独壇場と言えるだろう。客観に依拠する科学をぐいぐいと己が境地に手繰り寄せ、自在に結ぶ「和解」ぶりはほとんどアクロバティックだ』(P253)

つまり、玉城は、弟子から見ても「特異」で「独特」で「跳躍」の人で「ぐいぐいと己が境地に手繰り寄せ」る「力技」が得意で「アクロバティック」な人だ、ということになるのである。

そして、これを言い換えれば、学者的な「冷静沈着」「客観的」「自制的」「理性的」といったタイプではない、ということであり、それは玉城の「大袈裟な形容」「これ見よがしな知識開陳(衒学趣味)」「断言の連続と説明の先送りの末の、説明になっていない説明」といった、およそ学者らしからぬ、いかにも「にぎやかな」あるいは「騒々しい」個性が、ハッキリと文体化されているのである。つまり、厳しく評するならば「時に躁病的なまでに落ち着きがなく、深みや品格に欠ける文体」なのだ。

玉城の論文の特徴を、いくつか挙げてみよう。

(1) ブッダ、キリスト、孔子、ソクラテスなど、世界的な宗教人または賢人を、その「本質」において合い通ずるものとして論じる、かなり大味な「習合的宗教観(あるいは、世界観)」。

(2) 思考パターンが、基本的に「アナロジー(類似性)」一本で、「厳密さ」や「繊細さ」を欠く。

(3) 「いのち」という、概念規定のできない曖昧な「マジック・ワード」で、「すべて」をまとめて(「和解」させて)しまう。

(4) 先哲の言葉の引用に当たり、『取意』として、「自分の解釈」を先哲の語ったものであるかのように、カギカッコに括って語るという荒っぽさが、明らかに「学問」の域を逸脱している。

(5) 高齢であるにもかかわらず、最先端科学などへの目配りや勉強ぶりは素晴らしいが、結局はそれも、己が「悟り」を「箔付け」するための「我田引水的雑学」に堕しており、そこには、本質的な自己中心的な世界観と、他者への基本的な敬意の乏しさが窺える。

と、いったところだろうか。

(1)について言えば、通俗宗教講話としてならよくあるものだが、学問としてはあまりに「雑」。
その学識において開きがあるとは言え、これでは「幸福の科学」の大川隆法による「習合宗教」と大差がない(どちらも「東大」関係者だが、両者に共通するのは「東大話法」か?)。

(2)については、「アナロジー」一本ということは、「厳格な論理性」が欠けている、ということでもある。言うまでもなく、物事を考えるには、この双方が一定水準以上、なければならない。

(3)については、玉城の「論理ではなく、見かけのもっともらしさ」偏重傾向から来るものだと言えるだろう。つまり「本質」を問題としているかのようでありながら、真に本質的なところで、客観的論理性が無いために、「マジック・ワード」や「キラー・ワード」に依存し、濫用してしまうのだ。

(4)について言えば、例えばこんな調子だ。

『 以上は、ビレンケンの宇宙創成に関する佐藤教授の紹介を下敷きにしながら、しかもわれわれ(※ 宗教実践者)の側との対応関係を念頭において要約したものである。この要約の私の心象に映るイメージに、すでに無理解と誤解とが綯い交ぜに混入していると思う。それにもかかわらず、両者の対応関係に関心を持たないわけにはいかない。』(P217)

もちろん、論文を書くには「要約」も必要ではあろうが、玉城の「要約」には、原著者の意図に正確であらねばならないという、学者としての自制的倫理が希薄なのである。彼としては「表面的な差異ではなく、本質こそが大事」だということなのだろうが、それは学問的に言えば、「独善(独り善がり)」にすぎない。

ちなみに、本書で玉城が、説明もなく当たり前に使っている『取意』という言葉を、私は知らなかったので、「意図するところを取り出せば」というような意味の言葉なのだろうと推察ながらも、いちおうネット検索だけはしてみたが、この言葉そのものはヒットしなかった。
だが、似たような言葉として、次のような言葉がヒットした。

『だんしょうしゅぎ【断章取義】
他人の書物や詩文などを引用するとき、その一部だけを抜き出し、前後、あるいは全体との関連性を無視して、自分の都合のいいように解釈すること。』(『学研 四字熟語辞典』)

(5)について。玉城の勉強ぶりには、本当に頭が下がるのだが、しかし、その努力や熱量は認めるとしても、その「質」には大いに問題がある。
晩年の玉城は、「科学」と、彼が言うところの「いのち」との「和解」を目指した。つまり、「科学」と、玉城が考えるところの「宗教における根底体」としての「いのち」を、統一的に理論化しようとしていたのだが、それが例によっての「アナロジー」一本槍でパワフルに驀進したあげく、話がだんだん誇大妄想の気味さえ帯びてくるにいたっては、もはや笑って済ませられる「トンデモSF」を超えて「サイコホラー的な薄気味悪さ」まで発し始めたりさえするのだ。

玉城は、一昔前の「半実践・半学問」の人だから良かったようなものの、今の時代にこんなものを書いていたら、マッド・サイエンティストならぬ、マッド・ブッディストと呼ばれるであろうことは必至。
事ほど左様に、玉城が「最新の科学的知見」の数々を次々と俎上に上げて見せる様は、「ルドルフ2世の奇想コレクション」にも似て、ほとんど玉城の「アナロジカル・オブジェの陳列室」の観を呈してしまっているのである。

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ともあれ、宗教にどっぷりとハマった人の一つのパターンとして、かつての「ポストモダン思想オタク」のそれにも似た、ジャーゴン(専門用語/業界用語)を羅列するという「物量作戦」で、素人を圧倒威嚇したがるような人がいるが、こういう人というのは、いくら宗教のお勉強をしても、いっかな「悟り」に近づいたようには見えず、かえって「自己顕示欲」というわかりやすい「煩悩」にとらわれているようにしか見えないというのは、やはり、禅宗で言われる「魔境」に堕ちているということなのかも知れない。つまり、普通の言葉で素人を説得することができないから、威嚇してマウントを取りたがるという「畜生道」に堕ちているのだ。
だが、そんなオナニズムでは「何のための信仰修行か」としか、宗教の素人には思えないのである。

初出:2021年4月10日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月26日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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