高橋知也監督 『劇場版 美少女戦士セーラームーンCosmos』 : 「普通の女の子」で いさせてもらえなかった不幸
映画評:高橋知也監督『劇場版 美少女戦士セーラームーンCosmos』(前後編・2023年)
もちろん、昔から『美少女戦士セーラームーン』という作品は知っていたが、私がテレビアニメから離れていた時期(1985年頃〜1997年)ということで、昔はまったく興味がなかった。たまたまテレビをつけたらやっていたので、その時だけは視た、といったことが何度かあったのかもししれないが、ハッキリとした記憶はない。
そもそも、セーラー服姿の戦隊ものというのが、私には間抜けに見えたし、アニメ版のキャラクターは良いとしても、原作マンガの武内直子の絵柄は、古くさくって全然ダメだと思った。
だから、『セーラームーン』と聞いて、ハッキリと私の記憶に残っているのは、「オウム真理教事件」との絡みである。
テレビの第1シリーズにあたる『美少女戦士セーラームーン』の放映が「1992〜3年」。
以下、『美少女戦士セーラームーンR』が「1993〜4年」、『美少女戦士セーラームーンS』が「1994〜5年」、『美少女戦士セーラームーンSuperS』が「1995〜6年」、『美少女戦士セーラームーンセーラースターズ』が「1996〜7年」ということになり、要は、1990年代初頭から中頃にかけて、5期にわたって放映されて人気シリーズということになる。(Wikipedia「美少女戦士セーラームーン(テレビアニメ)」)
これに対し、オウム真理教の方は、大雑把に言えば、次のようになる。
で、問題は、オウム真理教も、最初から「犯罪集団」だと見られていたわけではなく、それ以前は「ユニークな新興宗教」だとして、一部に歓迎されていたのであり、その頃は、「オウム真理教」が登場する下地となった「スピリチュアル・ブーム」があった、という事実である。つまり、「超能力」とか「輪廻転生」とかいったことが、一種の「憧れ」を持って、趣味的に歓迎されていたのだ。
それは、1980年代後半の「バブル経済終焉期」の中で「生活は豊かでも、心が貧しい」と感じていた、多くの日本人に、「心の豊かさ」をもたらすものとして、この種の「スピリチュアル」なものが歓迎されていたのである。
そして、私の記憶に残っているのは、「オウム真理教事件」が世間から最も注目された、1995年3月の「地下鉄サリン事件」から同年5月の上九一色村のサティアンへの強制捜査と教祖・麻原彰晃の逮捕に至る時期か、その直後くらいに読んだ、『セーラームーン』と「オウム真理教」を結びつけた記事である。
その記事では、オカルト雑誌『ムー』などの「文通相手募集コーナー」に、日渡早紀のマンガ作品『ぼくの地球を守って』などに影響を受けたと思しき少女たちによる、「前世で結ばれた仲間への呼びかけ」といった投稿が増えていた、というのだ。
下の記事は、最近のものだが、こうした記事は、1995年当時に、すでに書かれていたのである。
で、こうした「流れ」の一環として『セーラームーン』ブームもあった、ということである。
『セーラームーン』の主題歌「ムーンライト伝説」の歌詞の、次のような部分は、明らかに「転生」と「宿命の絆」といった「ロマン」を歌ったものであった。
私は何も、こういう歌詞を批判したいのではない。むしろ私は、この「切なさ」に満ちた曲が(歌詞も含めて)大好きなのだが、問題は、80年代には、こういう「人との(本当の)つながり」を求め、「本当の自分」を見つけたいという気分が、大人を含めて蔓延しており、子供たちも、その感化を受けていたという事実である。
しかしまた、今でこそ、このように考えられる私だが、当時の若い私は、そうした「現実逃避」的な感受性には批判的だったから、『セーラームーン』にも、あまり良い印象を持っていなかった。
ただ、それが変わるのは、「オウム真理教事件」も遠くなった2010年代に、カラオケに凝ったことからである。
読書を優先するために、アニメを含めたテレビシリーズものからは自覚的に遠ざかったものの、「アニメファンである」という強固な自負は持っていたので、カラオケも完全にアニメソング主体であり、読書と同様、どんどんと新しいものに挑戦する私は、昔から知っていたアニソンだけではなく、視ていなかった時期のアニソンや、視ていなかった番組のアニソンまで、「曲さえ良ければ」なんでもチャレンジしていったのである。
で、そうした曲の筆頭に上がるのが、曲だけは耳に残っていた「ムーンライト伝説」だというわけだ。つまり、私と『セーラームーン』を最初に繋いだのは、この曲だったのである。
そして、こうした流れで、『プリキュア』シリーズを、ときどき視るようになり、その曲をカラオケのレパートリーに加えるようになった。
『プリキュア』シリーズは、明らかに『セーラームーン』の流れを組む「美少女戦士もの」なのだが、シリーズごとに工夫が凝らされており、熱中するほどではないにしても、それなりに楽しめるシリーズとして、カラオケかたがた気にかけてはいたわけだが、それが、第15作『HUGっと! プリキュア』(2017年〜8年)で、どハマりすることになる。
もっとも、この『HUGっと! プリキュア』も、本放映では、たまに視る程度だったのだが、シリーズ終了後、ネットに公開されていた、ある「評論」を読んで、「そんな作品だったのか!」と感心し、YouTubeで可能なかぎり、見落としたところ(大半)を確認した上で、やはり、頭からちゃんと見ようとDVDを購入して鑑賞し、最後は作品論を書くまでに至ったのである。
で、こうしたことから、「少女向けアニメ」も侮ったものではないなと反省させられ、『セーラームーン』に対する見方も少し変わってきたところへ、同じくカラオケ(映像)で注目したのが、幾原邦彦監督の『輪るピングドラム』(2011年)であった。
しかし、この作品もテレビシリーズを視ていなかったため、その前のオリジナル作品『少女革命ウテナ』と共に「いつか視たい」と思いはしたものの、長らくその機会を逸してきた。
だが、ついに、この作品が劇場用二部作になると知って、やっと『輪るピングドラム』を鑑賞することができたのである。
で、私はますます幾原邦彦という個性的なクリエーターに興味を持ち、ついには『少女革命ウテナ』のDVDボックスを購入して鑑賞するに至ったのだった。
また、そうした中で、幾原邦彦が、長らく『セーラームーン』のシリーズ・ディレクターを務めていたというのを知り、ここに「運命の円環は閉じた」というわけだ。私は、『セーラームーン』と、ここで出会い直したのである。
そんなわけで、ここ数年、私は『セーラームーン』を気にかけたはいた。
しかし、新作については、監督が幾原邦彦ではない以上、特別な期待もなかったので、劇場版の予告編などを見ては「これはイマイチだな」とか「これは期待できそうにない」などと思って、結局は観なかったのだが、今回の『劇場版 美少女戦士セーラームーンCosmos』は、監督こそ知らない人だが、キャラクターデザインが、最初の只野和子に戻っており、予告編を見るかぎり、作画的には劇場版の水準にはあったし、また、これで映画版も含めたシリーズもおしまいにするみたいなので、当たり外れはいささか博打的にはなるが、「観に行ってみるか」ということのなったのである。
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で、結論からいうと、本作『劇場版 美少女戦士セーラームーンCosmos』は、「前編」からして「これはダメだ」という出来だった。だから、「後編」を観たのは、あくまでも「確認のため」であって、多くは期待していなかったし、期待しないで正解だった。
前記のとおり、私の場合は、原作マンガも読んでいなければ、テレビシリーズも視てないし、これまでの劇場版も観ていない。
つまり、私の『セーラームーン』に関する知識は、あくまでも「側聞した」程度なのだが、それでもこの『劇場版 美少女戦士セーラームーンCosmos』(以下『Cosmos』と略記)が「凡作」以上の作品ではないというのは確言できる。
無論、同時代に、原作やテレビシリーズの洗礼を浴びた熱心なファンであれば、その「思い入れ」が加味されて、その評価も違ってくるだろうし、そうした評価を必ずしも否定するものではないのだけれど、客観的に見れば、やはり、この『Cosmos』は、凡作以上の作品とは評価し得ないものだった。
本作の何が「いけない」と言って、「最終最強の敵」を描くために、味方をあっさりと殺しすぎる、という点である。
それで、主人公の月野うさぎはショックを受け、追い詰められてゆき、悲壮な戦いに挑むという、いかにも「最終作」らしい作品になってはいるのだが、長らくファンからも愛されてきた、うさぎの仲間たちのやられ方があまりにも呆気なさすぎ、その「死」に何の「肯定的な意味」も与えられていないために「これは、後で復活するな」と容易に見抜けてしまい、その点で、いくら「悲壮感」を演出しようと、よほどナイーブなファンでないかぎり、それをそのまま鵜呑みにすることなどできなかったのである。
このようにして、うさぎは、これまで、弱い自分を守りながら一緒に戦ってくれた仲間を次々と失いながらも、最後は最強の敵に戦いを挑むために、新しい仲間たちと、敵の待つ「銀河の生まれるところ」へと向かうのだが、その仲間たちすら、ラスボスにいたる以前に、次々と犠牲になってしまう。
しかも、そんなほとんど孤立無縁になった(謎の幼女「ちびちび」だけは残っていたが)うさぎの前に、殺されて砂と化して消滅したはずの仲間たちが、「敵」となって現れる。
彼女たちは、敵によって再生された、要は「偽物」であり操り人形(ゴーレム)に過ぎないのだが、外見がそっくりな彼女たちと戦うことは、うさぎにはどうしてもできない。そして「こんなに苦しんでまで戦わなければならないのなら、いっそ殺されたほうがマシだ」とまで思い詰めるのだが、そこへ、ちびうさなどの「助け」が駆けつけて、間一髪でうさぎは助かり、仲間たちを復活させられることを信じて、ラスボスとの戦いへと向かう。一一と、大筋、こういう展開である。
そして、ラスボスと見られていた(実質的には、ラスボスなのだが)セーラーギャラクシアは、彼女もセーラー戦士ということで、根は悪い人間ではないのだが、悲惨な生育環境のために「力こそが、すべてだ」と考えるようになり「全銀河の支配」を目論んだ人物として描かれ、そんな彼女を倒した後に残った、「銀河の負の意志」とでも呼ぶべき巨大な悪との最終決戦でも、やっぱり、うさぎには「加勢」が登場する。
それは「謎の幼女ちびちび」の正体ということで登場するのだが、一一はっきり言って、そういう細かいことは、どうでもいい。
要は、徹頭徹尾「ご都合主義」なのである。
仲間はどんどん殺されるけれども、結局は復活する。主人公のうさぎが危機に陥ると、タイミングよく「助け」が登場する、というわかりやすすぎる展開なのだ。つまり、「物語の作り」として、安直なのである。
この『Cosmos』を観て知ったことなのだが、『セーラームーン』のユニークなところは、主人公が当たり前に「一番に強い」というのではなく、うさぎは「ドジで泣き虫な、普通の女の子」であり、それゆえの「弱さ」を持っているのだが、その弱い彼女を、仲間たちが「守って」戦ってくれる、という構図である。
このような設定であるからこそ、うさぎは仲間を失うことで決定的な打撃を受け、一人で戦いに挑むという構図は、最終作らしい「悲壮感」を嫌が上にも盛り上げることになるはずなのだが、それも、やり過ぎては逆効果なのだ。
「こんなに簡単に、仲間たちが殺されてしまうはずがない。殺すなら殺すなりの、代償がなければ、彼女たちの死に甲斐がないのだが、それが描かれていないということは、当然、彼女たちは復活するはずだ」となってしまうのである。
で、こうした無理のある「悲壮感」演出をしなければならなかったのは、結局のところ「ラスト」に向けて、話をどんどん「大袈裟」にしていくという「物語の(悪しき)インフレーション」に、この作品がとらわれてしまったからであろう。
そして、たぶんこれは、原作者の、本作への「過剰な思い入れ」のせいなのではないか。
つまり、原作者の武内直子が、この大ヒット作であり、自身の代表作への思い入れから、お話を「壮大な物語」に仕立てようという欲望にとらわれ過ぎたからではないと思われるのだ。もともと、武内に「その傾向」があったにしてもだ。
テレビアニメ版について、「Wikipedia」では、次のように説明している。
つまり、アニメのテレビシリーズは、視聴者のターゲット層を「女児」に設定していたから、あまり真面目くさった「SFアクション」ではなく「明るく楽しい友情コメディ」路線として制作され、これがヒットした。
しかし、原作者としては、アニメが大ヒットして、原作までが「世界的名作」となったのは嬉しいにしろ、やはり「アニメにおける改変(路線変更)」には、作家として不満がないわけではなかったので、「セーラームーン30周年記念」として制作されることになった「劇場版アニメ」においては「原作路線でいく」ということになったのであろう。で、その結果が、原作どおりに「物語の(悪しき)インフレーション」になってしまった、ということなのではなかったか。
だから、私としては、やはり『セーラームーン』という作品は、あくまでも「友情コメディ」を基本として、その「優しさや温かさ」を損なわない範囲での(『プリキュア』がそうであるように)「優しい戦いの物語」の収めるべきではなかったかと考える。
たしかに、それはある種の「偽善」なのかもしれないが、アニメ版の『セーラームーン』が元来求めていたのは「壮大な物語」や「悲壮なヒロイズム」などではなく、「友達との温かなつながり」ということだったのではないかと、本作を見ながら、そのように推察したのである。
うさぎが「普通の女の子」のままであっては、本当にいけなかったのであろうか。
(2023年7月26日)
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