指昭博 『キリスト教と死 最後の審判から無名戦士の墓まで』 : 死をめぐる〈教会と世俗の落差〉
書評:指昭博『キリスト教と死 最後の審判から無名戦士の墓まで』(中公新書)
著者は、「近代イギリス史」の研究者であり、クリスチャンではないが、キリスト教には当然詳しい。なにしろイギリスには、一国内において、カトリックとプロテスタントが、対立する政治勢力と直接結びついて、血で血を洗う抗争をくりひろげた、キリスト教とは切っても切れない、凄惨な歴史を持つからだ。
本書は、大まかに言えば、前半がキリスト教における「死の教義的捉え方」を論じたパートで、後半が、その影響下にありながらも、そこに収まりきらない世俗社会における「死にまつわる文化」を紹介したパートだと言えるだろう。
私個人は、キリスト教に興味を持つ無神論者なので、前半がすこぶる面白かった。
特にスッキリさせられたのは、「延期された神の国の到来(延期された最後の審判)」問題への説明原理として形成された、カトリックにおける「煉獄」観念。そこから生まれた「諸聖人の通功」の教義。その発展から「免罪符(贖宥状)」問題を経て「宗教改革」に至るという道筋が、とてもわかりやすく論理的に説明されていた点であった。
つまり「なぜカトリックは、聖書には無い教義を発展させたのか」という問題が、単に「信者から金を巻き上げるための作り話」というプロテスタント視点からではなく、切迫していたはずの「神の国の到来」が、はるか先へと延期されたことによる「信仰(への信憑性)の危機」への理論的対処として、「煉獄」や「諸聖人の通功」といった教義が生み出され、それが「免罪符」という庶民にもわかりやすくて便利な道具を生み、その結果、教会権力の腐敗を加速せしめて、宗教改革を引き起こした、という一連の歴史的流れとして、明晰に説明されていたのである。
これは、カトリックとプロテスタントの、どちらの教義的都合にも縛られない、非クリスチャンならではものだったと言えるだろう。
ただし、著者の面白いところは、カトリック教会のやったことは、嘘とご都合主義(教義的フィクションと辻褄合わせ)に満ち満ちていたとしても、それでも庶民の慰めやセーフティーネットの一部を形成していたと、結果論的にではあれ、その功績を肯定的に評価する一方、プロテスタントの改革は、教義純化の倫理運動として正しくはあれ、原理主義的であるが故に、庶民の信仰や生活から乖離しており、それゆえカトリック教義の社会的功績への配慮を欠いて、カトリックが形成していた、庶民に対する社会的保護の役割を破壊する側面があったと、批判的に語っている点だろう。
つまり、著者の立場は、カトリックかプロテスタントか、ではなく、「庶民」の側にあり、キリスト教信仰については、社会的に必要だった「方便」として是認する(に過ぎない)ということなのである。
だからこそ、本書の前半の、死をめぐるキリスト教教義の発展史の部分は、ややアイロニカルな、からかい口調なのに対して、キリスト教の教義から離れがちに発展した「世俗における、死の文化史」を詳しく紹介した部分では、それらを、死という避けられないものに対する、人間の「ささやかな抵抗」として、ある種の共感を持って語られるのである。
そして、その上で著者が読者に訴えたいことは、昔の人たちの素朴かつ、ある意味では滑稽にも見える死生観の問題ではなく、それが少しかたちを変えただけで、今もなお生き続けている、私たちの現実(死生観)への反省であろう。
だからこそ著者は改めて「メメント・モリ(死を想え)」と、最後に訴えるのである。
初出:2019年9月21日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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