消費ではない創造の楽しみ 楽器演奏の醍醐味は
今、どちらかというと、受動的な娯楽がメインとなっている。既に存在するもの、提供されるものを、消費するというスタイルである。動画視聴、音楽鑑賞、スマホゲーム、ネットショッピングなどなど、能動的に何かを作り出して楽しむという作業が少なくなっている。
無論これらもやり方によっては能動的になり得る。複数の動画を継続的に視聴して、動向を分析したりすれば、それは単なる消費ではなくなる。しかしながら、大部分はなんとなく暇つぶしに、ということが多いのではないかと想像する。何が何でもそれに対して強い情熱がある訳ではなく、とりあえず手近にあり、瞬間的な快楽が得られ、さして労力も使わないからやっている、という感じではないかと思う。
対して、能動的に何かをするのは、相応の労力と努力、継続力、集中力、体力、精神力と、様々なものが要求される。即座に得られる快楽はなく、むしろ最初は何の面白みも感じられない場合もある。スポーツも読書も外国語も、地道に一歩一歩進むものだ。
楽器演奏はその最たるもので、タイパ重視の人には何の価値があるのか理解出来ないだろう。消費ではない創造の楽しみは、実際に時間をかけ、それを経験した人にしか分からないものなのだ。どうしても楽器を習得することの価値や醍醐味を言葉で表現するなら、こんな説明になる。
まず、自分の能力のみで、何かを完全にコントロールする満足感とその喜び。これは自己肯定感にも繋がり、生活全般に幸福感をもたらす。スマートフォンのおかげで、ほとんど頭を使わず物事が解決・完結・成立する今、自分の身体だけで何かを成し遂げるという経験が、どれだけ日常に残されているだろう。楽器演奏に一度でも挑戦した人であれば分かるが、頼りになるのは自分の耳や口や目や指、全身の筋力、肺などの臓器も含む。他の何かから、直接力を借りることは一切ないのだ。これは自分自信を信頼し、客観視し、コントロールし、能力を最大限活用するということなのだ。
もし長期に渡り自己肯定感の低さや精神的不調に悩まされているのなら、一度音楽を演奏する体験をお勧めする。気軽に始められるものも、仲間と共に楽しめるものも、たくさんある。逆にひとりで没頭出来るものも、誰にも気兼ねせず続けられるものもたくさんある。楽器の購入を躊躇うなら、アマチュア合唱団に入ってみるのも、ボイストレーニングに行くのも良い。自分の身体だけでこれほどのことが表現可能なのかと、驚くはずだ。
現在何から何まで便利になり過ぎて、自分自身の能力を目一杯使うという機会が僅かしかない。すると、能力自体はなんともないのに、自己肯定感がどんどん下がってしまう。また、長期間に渡って何かを作り上げたり向上させたりする機会も減った。なぜなら、次々と新しいものに適応することを求められ、ひとつひとつのスパンが短くなり、そんな悠長なことを言っていられないからだ。じっくりひとつのことに取り組む経験は、現代では貴重であり、自身の能力の向上をはっきり感じられる時間となる。
次に、楽器演奏によって時間に価値を与えているという充実感。楽器演奏にコスパだのタイパだのという概念を当てはめることは困難だ。音楽は時間の中に存在している。終了後にその価値が生じるのではなく、時間と共に進行している一瞬一瞬にその価値があるのだ。つまり、楽器を演奏することは、時間に価値を与える行為とも言える。
習得プロセスも同様で、ひとつひとつの練習が日常に価値を与え、生活の充足感を増す。毎日少しずつ上達していくという実感は、例えそれが僅かでも、思った以上に幸福感をもたらすものである。それは瞬間的な快楽とは全く違うもので、静かにじっくり広がっていく。そして急に萎んだり、代償を払ったりする必要のない、持続的幸福感である。自分の時間に価値を感じられるかどうかということは、幸福を感じるための重要な要素ではないかと思われる。音楽を演奏することは、自分自身で自分の時間に価値を作り出すという行為なのだ。
この時間に対する価値創造は、消費による快楽では得られない。能動的に、自分の能力を最大限活用してこそ得られる充足感である。これを面倒と思うかどうかは人それぞれだろうが、おそらく体験してみないことには、この感覚は分からないと思う。
この2つが、楽器演奏の普遍的醍醐味ではないかと思う。