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【哲学対話•学習会レポ】ルソーが今日の教育現場を観たら何というだろうか?

❤苫野一徳さんのVoicyの配信をもとに開催された対話学習会に参加しました。オンライン配信から実際の対面での学びの場へと発展した興味深い機会となりました。

❤会の冒頭で取り上げられたのが「洗脳」というキーワードでした。私たちが哲学を通じて学ぶことと洗脳との違いについて議論になりました。その中で、哲学の特徴として、絶対的な真理を押し付けるのではなく、常に検証・確かめ可能で、新しい解釈や理解に開かれているという重要な点が指摘されました。まるで、固まったコンクリートと柔軟な粘土の違いのようです。

❤かつてカルト宗教に関連して「洗脳」という言葉が注目されましたが、実は現代社会の至るところで洗脳に似た現象が今日も起きているのではないでしょうか。特に学校教育の現場では、「当たり前」とされている慣習を無批判に受け入れ、変更を許さない雰囲気が蔓延しています。例えば、40人の生徒全員が同じ教科書を使い、同じペースで学ぶ一斉教育。これは工場のベルトコンベアのように、個々の生徒の個性や学習スタイルを無視しているの、ある種の「洗脳」ではないでしょうか。

❤では、こうした教育現場における「洗脳的な状況」からどのように抜け出せるのでしょうか。その鍵となるのが、「個別化」と「共同化」と「プロジェクト化」を融合した教育システムではないでしょうか。これは、まるで庭園のような教育環境を作ることです。それぞれの花(生徒)が自分のペースで成長しながらも、美しい庭(クラス)として調和する。このような環境で学ぶことで、子どもたちは生き生きと学び始め、不登校やいじめといった問題も自然と減少していくのではないでしょうか。

❤コロナ禍は、私たちに教育の在り方を見直す大きなチャンスを与えてくれました。それは、凍った湖に開いた穴のように、新しい可能性への入り口でした。家族との対話が深まり、オンラインを通じた新しい学びの形も見えてきました。しかし、参加者との話し合いで明らかになったのは、多くの学校が再び「従来の教育」に戻りつつあるという現実です。せっかく開いた可能性の窓を、私たちは十分に活かしきれていないのかもしれません。

❤ルソーという哲学者について興味深い議論がありました。彼は、天才的な哲学者・教育思想家である一方で、自身の5人の子どもを孤児院に預けるなど、複雑な人生を送った人物として知られています。しかし、まさにその苦しい経験があったからこそ、理想の教育を単なる理想論で終わらせず、現実のものにしようと強く願ったのではないでしょうか。それは、傷ついた心が癒しを求めるように、よりよい教育への切実な願いだったのかもしれません。

❤現代の教育現場では、子どもが転ばないようにと、道にあるすべての石ころを取り除こうとする大人たちの姿が目立ちます。しかし、命に関わる危険は別として、小さな失敗や挫折は、子どもの成長に必要な栄養素のようなものです。たとえば、自転車の練習で転んで擦り傷を作ることは、バランス感覚を身につける大切なプロセスです。過保護は、子どもたちから学びの機会を奪ってしまう可能性があるのではないでしょうか。

❤Voicyでの苫野一徳さんの哲学的な話は、その説得力で思わず「そうだ!」と頷いてしまいがちです。それは、私には澄んだ水のように透明で美しい論理だからです。しかし、私たちは常に「本当にそうか?」という問いかけの姿勢を持ち続ける必要があります。それは、自分の思考を洗脳から守る免疫システムのような役割を果たすのです。せっかくの哲学の原理も、鵜呑みにしてしまっては、「洗脳的」と言われても仕方ないでしょう。

❤ルソーの人生は、幼少期から苦難の連続でした。当時の徒弟制度は、若者たちにとって過酷な試練でした。しかし、ルソーの偉大さは、その辛い経験を単なる不平や空想に終わらせず、現実を変える力強い哲学へと昇華させたことにあります。それは、泥の中から美しい蓮の花を咲かせるような、人間の可能性を示すものでした。


❤家庭や学校での「失敗させない教育」について、重要な指摘がありました。まるで温室で育つ花のように、あらゆる危険から守られた環境では、かえって子どもたちの成長する機会が奪われてしまいます。大切なのは、子どもたちが転んでも、また立ち上がれる環境を作ることです。例えば、料理を覚える過程で、最初は失敗して味が悪くても、何度も挑戦することで上手くなっていくように、失敗は成長の肥やしとなるのです。


❤苫野一徳さんが「断じて」という言葉を使うことについて、興味深い議論が展開されました。現象学の視点からは、人間が絶対的な真理に到達できないことは明らかです。しかし、この場合の「断じて」は、赤信号を「絶対に」渡ってはいけないというような、実践的な強調表現として理解すべきでしょう。これは哲学の基本原理を否定するものではなく、むしろ具体的な場面での判断の重要性を示すものとして捉えられました。

❤人間の特徴として、「変化できる」という可塑性が挙げられます。これは、粘土が様々な形に変化できるように、私たち人間も常に成長し、変化する可能性を持っているということです。「人間は間違える動物である」という認識に立ち、その特性を活かしながら、互いに学び合い、成長していける教育環境を作っていきたい。そんな思いを参加者で共有しました。

❤教師が意図的に権威的な態度をとり、それによって子どもたちの反発を引き出そうとする教育手法について、危険性が指摘されました。これは、わざと塩辛い食事を出して、子どもに「もっと美味しいものが食べたい」と思わせるようなものです。このような心理操作的なアプローチは、子どもたちの信頼を損ね、本当の意味での教育的な関係を築くことを妨げかねません。

❤ジャン=ジャック・ルソーの教育論について、重要な指摘がありました。子どもの欲求すべてを無条件に受け入れるのではなく、本当に必要なものを見極める大人の目が必要だということです。これは、まるで庭師が植物の枝を剪定するように、成長を支援する慎重な判断が必要です。しかし、それは子どもとの深い対話なしには見えてこない、繊細な作業なのです。

❤子どもたちの学校への反発や不登校の背景には、深い疲労が潜んでいることが指摘されました。特に日本の教育現場では、「空気を読む」という独特の人間関係の中で、子どもたちは絶えず緊張を強いられています。まるで、常に舞台の上で演技を続けているような状態です。この疲れは、様々な形で表現されます。仮病や反抗的な態度も、実は「休みたい」というSOSのサインかもしれないのです。

❤子どもを「信じて、任せて、待って、支える」という哲学的・教育学的アプローチは、頭では理解できても、実践は容易ではありません。特に自分の子どもとなると、感情が先に立ってしまい、ついつい口を出したり、手を出したりしてしまいます。これは、料理を教えるときに、子どもの手から包丁を取り上げてしまうような親心のようなものです。しかし、そうした葛藤自体が、私たち大人の学びの機会なのかもしれません。

❤心身ともに疲れ切った子どもたちの回復方法として、意外にも「掃除」が効果的だという指摘がありました。特にトイレ掃除には、心を癒す不思議な力があるようです。それは、曇った鏡をピカピカに磨き上げるように、自分自身を見つめ直すきっかけとなるのかもしれません。また、目の前の具体的な作業に取り組むことで、自分のやりたいことが少しずつ見えてくることもあります。人は、現実の中での具体的な関わりを通じて、自分の進むべき道を発見していくのだと感じました。

❤もちろん、「信じて、任せて、待って、支える」という姿勢は、ただ放任するということではありません。それは、まるで植物を育てる農夫のように、適切な環境を整え、芽が出るのを辛抱強く待ち、必要な時にはそっと支えるという、積極的な関わり方です。この姿勢の根底には、子どもたちの潜在的な可能性への深い信頼があります。種が必ず芽を出し、花を咲かせるように、子どもたちも必ず成長するという期待と確信があるのです。

❤この学習会を通じて、現代の教育が抱える課題と可能性について、多くの気づきがありました。特に印象的だったのは、「洗脳」と「教育」の違いを考えることで、より良い教育のあり方が見えてきたことです。完璧な答えはないかもしれませんが、子どもたちの可能性を信じ、共に成長していく姿勢の大切さを、参加者全員で確認できた意義深い機会となりました。


野中恒宏




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