本能寺の変1582 第67話 10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第67話 10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣
信長は、岐阜から岩村城へ向かった。
三月八日。
信長、犬山城着。
岐阜・犬山間、凡そ四里(16km)。
三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り、
(『信長公記』)
柴田勝家は、越中松倉城を攻めていた。
以下は、信長が犬山から越中の柴田勝家に送った書状である。
勝家は、上杉勢と戦っていた。
昨日の書状、今日、犬山において披見候、
仍って、その面、一揆等これある両村に押しつめ、成敗仕り候由、
先ず以って、然るべく候、
それに付きて、松倉口に働きの事、油断なきの旨肝心に候、
越後の族、少々罷り出で候由、神保かたより申し越し候、
定めて、北(逃)げ散り候間、釣り留めおくべきの旨、申し遣わし候、
猶々、油断なく相働き、悉(ことごと)く打置くべきの儀、専一に候、
信忠は、勝頼を追っていた。
武田氏に、終末が迫っていた。
吾等事、五日に安土より相立ち、今日、犬山に着陣候、
甲州諏訪の事、四郎は、去月廿八日、彼方居城え逃げ入り、
居所とも自焼仕り候て、山奥へ何方ともなく逃げ失せ候、
先手の者ども、早や甲州に至って打ち出で候、
城介同前に候、
信長にとって、信忠は自慢の息子だった。
「我々、出馬、専なく候へども」、とある。
これ以上の、息子自慢があるだろうか。
信長は、関東見物をするつもりだった。
見物とは、名目にすぎぬ。
北条氏への牽制に他ならない。
足利義満を見よ。
富士遊覧をしているではないか。
「鎌倉公方」
これと、同じ。
繰り返す。
「戦わずして、勝つ」
これが、信長の信条なのである。
我々出馬、専(詮)なく候へども、連々関東見物の望みに候、
幸の儀に候間相越し候、
四郎事、彼等代々の名をくだし候、
此の如く、早々、平均に属し候間、何れの口も輙(たやす)き事に候、
その意をなすべく候也、
三月八日 信長御判
柴田修理亮殿
(「古今消息集」「古証文」)
信長は、岩村から信濃へ入ろうとした。
三月九日
金山城着。
犬山・金山間、凡そ五里(20km)。
九日、金山御泊り、
三月十日
信長、高野(こうの)城着。
金山・高野間、凡そ六里(24km)。
十日、高野御陣取り。
三月十一日
信長は、岩村城に着いた。
高野・岩村間、凡そ六里(24km)。
十一日、岩村に至りて、信長御着陣。
(『信長公記』)
⇒ 次へつづく 第68話 11光秀の年齢 1三人の娘
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