
本能寺の変1582 目次小 信長の台頭 8三好の衰退 293~308② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史・信長公記。『光秀記』
目次小 信長の台頭 8三好の衰退 293~308②
*298~302は、バックナンバーです。
298 長慶は、松永久秀を重用した。 「足利季世記」
長慶は、飯盛山に立て籠もっていた。
松永久秀が動いた。 「足利季世記」
三好義興が後詰の軍勢を率いた。 「足利季世記」
義興は、四国勢と合流した。 「足利季世記」
三好方は、畠山勢を挟撃しようとした。 「足利季世記」
299 教興寺の戦い。
義興の軍勢が押し寄せた。 「足利季世記」
畠山高政が軍勢を引いた。 「足利季世記」
教興寺の付近が戦場になった。 「足利季世記」
300 畠山方は、総崩れになった。 「足利季世記」
長慶は、飯盛山から打って出た。 「足利季世記」
三好方の大勝利である。 「足利季世記」
三好康長が、高屋城に入った。 「足利季世記」
六角承禎は、将軍地蔵山から軍勢を引いた。 「足利季世記」
301 しかし、実休は帰らず。
三好長治が実休の後を継いだ。 「森田文書」
302 永禄六年(1563)
細川藤孝は、将軍義輝に仕えていた。
藤孝は、将軍の側近「御供衆」だった。 「言継卿記」
目次 1~317
目次中 信長の台頭
1信勝謀殺 240~244
2尾張統一 245~253
3桶狭間 254~273①
〃 254~273②
〃 254~273③
〃 254~273④
4光秀と長宗我部元親 274~276
5武田信玄と天沢和尚 277~282
6三好の絶頂 283~288
7斎藤義龍の死 289~292
8三好の衰退 293~308①
〃 293~308②
〃 293~308③
目次小 信長の台頭
1信勝謀殺 240~244
2尾張統一 245~253
3桶狭間 254~273①
〃 254~273②
〃 254~273③
〃 254~273④
4光秀と長宗我部元親 274~276
5武田信玄と天沢和尚 277~282
6三好の絶頂 283~288
7斎藤義龍の死 289~292
8三好の衰退 293~308①
〃 293~308②
〃 293~308③
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく