曲げ

歌詞の種

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最近の記事

5月の下書き

 もう5月だ。そして、気づかぬ間に6月になっていくのだろう。僕はいつからかこの時期になると心を病み、取るに足らない鬱屈とした湿気た詩を電子の海に放り投げたり、投げなかったりする。一般的には五月病だとか梅雨だとか呼ばれている時季は、僕にとって詩のシーズンとしてやってくるのだ。  ふとiPhoneの写真アプリの検索窓に、「5月」と「6月」を打ち込んでみると、画面にはなんともキラキラした僕や友人の表情が映し出される。この矛盾は、自分に対して「偉い」と「キモい」を感じさせた。こんな顔

    • 多面体

      相性が良い人というのは、自分の良い性格を引き出してくれる人のことを言うらしい。 人の性格は多面体だ。母の前の僕と、父の前の僕と、あいつの前の僕と、君の前の僕は、別の人格のようだ。君の前にいる僕は、最も優れた僕だと言えるかな。 君はどうだろうか。僕の前に立つ君は、何番目の君なんだろう。もしその君が最高の君でないのなら、僕は悲しい。どうあがいても、僕は最高の君に会うことができない一方で、僕の知らない誰かの前にだけ、最高の君は存在するのだから。 もはやそれは君なのだろうか。僕が見え

      • 今今今

        今年から独立して、いろんなものづくりをする仕事をはじめる。 なので昨年はその準備で大忙しで、お世話になった先生方やすでに東京で活躍されてる先輩方へ挨拶にまわったりした。 ある飲み会の席で、お世話になってる先輩が、私のことを「彼は現役のクリエイティブなんで」と紹介してくださった。 文法があっているかはさておき、素敵な肩書きだ。 その先輩だって、その飲み会にいた他の大勢も現役でクリエイティブな人たちだが、その場では誰よりも「現役のクリエイティブ」の名は自分にハマっていたと、ず

        • 竹、ハリボー、モスコミュール。

          誰にだって忘れることができない人がいるだろう。それは恋かもしれないし、ショッキングだったからかもしれないし、得体の知れない何かかもしれない。私にもそんな人がいる。 先日、ドイツの芸術大学から10名ほどの学生が来校し、共同でデザインワークショップを行った。我々は英語での拙いコミュニケーションながら、お互いのデザインを尊重し、助け合いながら作品の制作に励んだ。 夜は街へ行き、彼女らと酒を飲む。話は弾み、お互いの国の音楽を教えあったりした。MetallicaやNirvanaについて

          22.8.30

          今日俺はバイト先に向かう途中、乗っていた原付がスリップし吹っ飛び、全身ズタズタになってしまった。 両膝両肘傷だらけでバイト先の事務所に入ると、パートのおばさんが顔色変えて、大量の備品の絆創膏を持ってきてくれた。ぺたぺたと身体中に粘着し、パッチワークのようになる俺。歩くのがこたえるほどの身体で、これから5時間労働することを考えるとうんざりしたが、他人による無償の優しさが染み、なんとか働こうという気が湧いた。 働いていると膝の皿に違和感を感じ、俺がぎゃーぎゃー騒ぎ出すと、同僚

          君について

           愛する人が、ヘルメットを被り自転車を漕ぐ姿を見たことがない。愛する人が、25mプールをクロールで泳ぎ切るところを見たことがない。愛する人が、給食を食べているところを見たことがない。  たしかに存在したであろう君の姿を、僕の頭の中でその動きをする他人の顔を君にすり替え、補うことでしか感じられない。  君はランドセルの中身を、君なりの決まった順番で詰めていたかもしれないし、学校から家に帰るなりチョコを一粒食べるのが習慣だったかもしれない。僕がこの目で見たいのは、そういったデ

          君について

          コロナ患者、愛のポエム、幽霊。

           2年も一緒に過ごすと、その存在は僕の中であまりにも多くのスペースを占拠するようになってしまった。もしそれを失ってしまったら、ぽっかりと空いた穴を、どうやって埋め立てれば良いのだろう。その穴に元々収まっていたのは、きっと愛だの思い出だのきらきらしたものばかりではない。怒りや憎しみ、苦悩だってたんまり含まれている。だからこそタチが悪い。愛だけなら簡単に立て替えられるだろうが、特別な負の感情はそうはいかない。カジュアルな恋なら、すぐにインスタントな愛へ到達できる。故にその過程には

          コロナ患者、愛のポエム、幽霊。

          記憶は氷

          だんだんと薄れていくとても大切な記憶。これを「手に握りしめた氷」と例えた人がいる。 無くさないように強く握れば握るほど、それはだんだんと形を失っていく。 私が思うに、誰もが人生の最初に握りしめる「氷」は、きっと「初恋」だろう。初恋というものは大抵叶わない。初恋をする頃に、そもそも恋という概念を知らないし、そんな僕達は名前のない感情とただ格闘することしかできなかった。それが自分の初恋だったと気づく頃には、その氷はすでに手の中で溶けつつあるのだ。 そうして人々は日々たくさんの

          記憶は氷

          bloodthirsty butchersが大好きだ。

          私はbloodthirsty butchersが大好きだ。 私は日本のロックの最高到達点にタッチしたのはブッチャーズだと確信している。 彼らは、人間というものを音楽という鏡に映している。本人らにはまったくそんな気はなかったろうが、それ故に何処までもありのままで嘘が無いのだ。 坊主の強面の男には不釣り合いな細い声で、触れると滲んでしまいそうな世界を歌い、ときには叫び、鳴き声のようなギターは、爆発したかとおもえば儚げに響いている。 彼らの表現の全てが、奇跡のバランスで偶然ロック

          bloodthirsty butchersが大好きだ。

          「珍棒」が繋ぐ、ハリウッドザコシショウとポストモダン

          珍棒。この言葉を耳にした時、芸人・ハリウッドザコシショウの顔が浮かぶ。彼が各所で使う この言葉はもはや彼の代名詞になりつつあるが、その起源を知る人はそう多くは無いと思われる。 調べると、珍棒とは静岡などの方言で「男性器」を表す言葉であり、静岡出身のザコシがこの言葉を使うのはごく自然である。 それとはまた別の話で、ポストモダン作家の高橋源一郎著『ジョンレノン対火星人』に「珍棒」は登場する。もちろん男性器の意味で。 しかし彼は広島出身であり、珍棒という方言を知っていて使ったの

          「珍棒」が繋ぐ、ハリウッドザコシショウとポストモダン

          夢の中で本気で恋をした話

          僕は夢の中で「WirelessGirls」という日系トルコ人4姉妹からなるガールズバンドの、三女(中学2年生)に本気で恋をした。僕自身まだ学生なので中学2年生という点はギリセーフだと思いたい。 出会いは高速バスの中だ。彼女らが生まれである神戸へ帰省中に乗り込んだバスに僕も乗り合わせており、たまたま僕の隣に彼女が座った。一目惚れした僕は、彼女に話しかけずにはいられず、気がつくと意気投合していた。まんまるで澄んだ瞳にすらっとした高い鼻、折れそうなほどか弱い腕や透き通るような白い

          夢の中で本気で恋をした話

          被写体の僕たち

          最近、彼女とデートする時は必ずポケットにデジカメを忍ばせておき、ことある事に写真を撮っている。被写体は彼女であり、僕であり、それらを取り込む風景だ。 お互い特別にポーズを撮ることは無い。逆に撮影者側が、何か良い瞬間を切り取ってやろうとファインダーを覗き続けることもしばしばある。獲物を狙う猛禽類のような鋭さや、縁側で空を見つめる老人のような優しさで。 そうして撮れた写真は、なにか写真的に優れていたりするわけではないのだが、限りなく自然で、僕たちのことを等身大に写してくれている

          被写体の僕たち

          父、亀仙人、JackNicolson

          私の父は仕事柄、年に2回ほど海外へ出張していた。あるとき、父がベトナム土産に亀仙人の大きなフィギュアを買ってきた。 当時小学2年生くらいだった私は、半べそで父にキレたのを覚えている。 なんで亀仙人なんだよ。そこは悟空か、せめてベジータだろ。というふうに。 小学生2年生にベトナムのフォーや民族織物みたいなのをお土産に買っても喜ばないだろうから、とにかくベトナムで買えるもので息子を喜ばせようとしたその不器用さ、今思えば可愛らしい。 とにかく、当時の私にとってその亀仙人は意味不明だ

          父、亀仙人、JackNicolson

          まるさんかくしかくばつ

          僕が以前付き合っていた女性は、いま僕の正面に座っている。たこ焼きを食べ終え、テーブルの上に置かれていたもともと三角柱だったであろう厚紙製の広告の筒をいじくっている。 「ぐちゃぐちゃだね。もう戻らんね。」とつぶやいているが、君も共犯だろう。こんな風にいろんな人に特に理由もなく触られ、無残な姿になった元・三角柱に同情した。 彼女はかなり変わっている。発言も行動も突拍子がないし、裏も表もわからない。漫画から飛び出してきたようなおてんば具合だ。ただ僕は、彼女をとても面白い人間だと心の

          まるさんかくしかくばつ

          お子様ランチ

          「ままー、お子様ランチのお皿がくるまのかたちだよ」 「ほんとだね、いいね。」 僕は、美術館に併設されたレストランでランチを食べている。隣のテーブルでは上品な雰囲気の女性が、4歳くらいと思われるその息子、そしてまだベビーカーに乗っている赤ちゃんの面倒を見ながら忙しく昼食をとっている。 「ままー、あの絵さっきみたやつだよね」 「そうだね、初めて日本に来たんだって。」 店内に貼られた『ナショナル・ギャラリー展』 のポスターに描かれたゴッホの『ひまわり』を指さしながら息子が

          お子様ランチ