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不完全な自分を受け入れ赦すこと(映画『インサイドヘッド2』の引用あり)~失敗から学んだ人の優しさ

最近、バタバタと趣味関連の予定が入り組んでおり(言い訳…)、1か月で2回も仕事のスケジュールミスをしてしまった。約束の時間に私が現れず、クライアントさまの貴重な時間を奪う、という大罪を犯したのだ。
しかも、短時間で繰り返している。
アリエナイ・・・

友達と会う約束に関しては、約10年前に1度だけダブルブッキングに気付かず迷惑をかけたことがあったが、仕事では毎日あちこちに移動し、どんなに予定が複雑化しようと、移動時間含めてスケジュールを間違えない自信があった。

そのため、表立って人を責め怒ることはないが、仕事でもプライベートでも時間管理の出来ない人を理解できなかったし、どこか本心では許せないでいた気がする。

各職場で私は絶対にミスをしない人として扱われており、安定感と信頼はあったと思うが、少し人間離れしたそのイメージに自分でプレッシャーも感じていた。


先日、映画『インサイドヘッド2』の2回目を観に行った。

前作も心に深く残っており大好きで、2もまた私のお気に入りの映画となった。心理描写中心の映画の中でも特に微細でリアルな感情の推移の描き方が琴線に触れたのだ。

主人公の女の子の性格や思考パターンにとても共感できる部分も多く、まるで自分のことを見ているように感じるシーンが多い。
(そして自分は年を重ねても一生思春期のままだなと思う)

【以下、ネタバレあり】

例えば、今回の映画のメインのテーマであるが、思春期に新たに出てきたシンパイ(心配)の感情が暴走し、あれこれ先のことを考えた挙句、不安になって、どうしても自分に厳しくなり追い込みすぎて自ら崩壊してしまうところなど。

根底にあるのは防御反応なのだろう。


その一面が好きではないし、それがバレないよう、結構気を遣ってはいるが、私は自分にも他人にも厳しいタイプなのだと思う。

他人に対しては責めたり非難しないよう最大限注意し、意識的に優しく振る舞い、その人が求めている対応をするよう心掛けているが、表現はしなくても根本的な部分では厳しい目で見てしまうこともあり、そんな自分がとても嫌だった。

そして、自分自身に対しては更にもっと厳しい。

そもそも厳しい人が苦手すぎて、そのような人が近くにいるとセンサーがビリビリっと発動して身が縮むし、なるべくなら近寄らないし関わらない。

だから、本当に私は自分の内側にある厳しさが大嫌いなのに、なぜ厳しくなってしまうのか。

おそらく防御反応と不安なのだろう。

自分で定めた厳しい基準をクリアすれば、世の中から批判されることは、まずない。

子ども時代の影響か、その頃から思い付く限り最大に厳しい人の基準をクリア出来るよう、先回りして慎重に生きていく習慣が身についてしまった。

怒られないために。批判されないために。


また、心配の感情(未来への不安がベース)が暴走することに関しても、映画にもあったように、ちょうど10歳前後の思春期の頃から思考の癖になっていたように思える。

それからずっと私の感情はシンパイさんが先導してきた。

根拠なく将来お金がなくなり困ることを心配し、小学生の頃からお金は使うより貯める方が好きな子どもだった。

ちゃんと勉強して周りの大人たちに認められないと見捨てられると思い、必死に頑張った時期が長かった。

大人になってからも、仕事への責任や重荷で平日は一日中緊張状態で過ごし、自律神経はめちゃくちゃになるし、不眠や鬱状態に長期間なっていたことがある。

これも原因は防御反応である。

以前の私は周りの人や友達がよく言っている「どうにかなる」や「案ずるより産むが易し」的なマインドを理解できず、無責任なことを聞くのが嫌で、その代わりに想定しうる最悪のシナリオを考えて念のため対処法を探しておくタイプだった。

しかし、ヨガや瞑想の実践、哲学や心理学の勉強をするうちに次第に癒されていき、これまで存在感の薄かったヨロコビ(喜び)の感情が少しずつ成長してきたように思える。

今は、あまり将来の不確定なことで頭を悩ませる時間がなくなり、代わりに「生きていることそれ自体が幸せ」という感覚が人生ではじめてしっくりくるようになった。

シンパイさんが主導をやめてヨロコビさんがリードする人生が始まった。
(だからミスが増えてしまった可能性もあると思う。最悪のシナリオは役立つことも事実であるし、まったく準備がないと普通に困ることになるので、必要な時にシンパイさんに働いてもらい、念のため軽く色んなシナリオを想像しておくのは悪くない。)


最近あったそのスケジュール連続ミス事件を経て、私は初めて時間で失敗してしまう人の気持ちが本当に深く理解できた。

そして、これまでずっとミスを避けるためにガチガチに緊張しており、「よく思われたい」というエゴで自分が固まっているということにも気付いた。

人に迷惑をかけたし辛い経験ではあったが、大きなミスをしたことにより、職場でもう完璧な人として扱われなくなり、少し気持ちが楽になったような気もする。(これは職場では言えない)

誰もミスした私を責めなかったし、これまで通りに受け入れてくれた懐の広さや思いやりに気付くことが出来た。
(映画の中でも、失敗をした後に親友の優しさや友情の深さにあらためて気が付くというシーンがあり、心底感動した。)

もちろんミスは良くないことではあるが、周囲の人たちがそんなに温かく優しい人たちだということをこれまで知らなかったから驚いた。

世の中というものは、自分が思っているよりも厳しい場所ではないのかもしれないと、固くなっていた心が柔らかくなった。

人間は不完全なままでもOKだと、ミスをしてしまう自分を丸ごと受け入れ、赦すという新しい段階に進めたような気がする。

そして、不完全な自分を受け入れて赦すことにより、同じように不完全でミスをする他の人たちのことも、本当の意味で受け入れ、赦すことが出来るようになったと感じる。

もう厳しさなんていらない。

完璧なんて目指さなくて良いのだ。

自分も他人も不完全。
その不完全さのままで大丈夫なのである。

映画の中では、これまでの楽しい成功体験だけでなく、辛い経験、苦い経験も含めてすべてが今の自分らしさを作っているというラストに大きく共感した。

みんなそれぞれが、不完全なそのままで完全なのだ。

なんでも1人で頑張ろうとせず、不完全な者同士で思いやりを持って助け合いながら、つながり合って生きていけば良いのかもしれない。



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