🈲⚠️安楽死反対❗️「障害者が医者になって思う」

「死ぬ権利」というやつには、どうしても反論する理由がある。それは、私が長期人工呼吸器装着を必要とした闘病から生還し、医者になったからだ。

障碍や病気があっても、実に様々なことができる。社会貢献も可能だし、一人前に稼ぐことも可能だ。こういう状態は無惨というのは誤解もあるだろう。第一、あなたも友人や家族、同じ学校や職場で頑張っている誰かと一緒に歩む日々は輝いてはいないだろうか? 元気を分けてもらえることもあるかもしれない。何か学べることもあるかもしれない。その大切な人が眼鏡をかけていようが、きっとその人の尊さは変わらない。昔は眼鏡も一大事だったらしい。すると、社会の受け止め方が変わっただけで、昔は大きなハードルだったことが、今はそうではなくなった。他の障碍や病気に対しての考えも、今一度立ち止まって考えてみないかい?

皆さん、「若いから」とか「治る病気だから」とかで色々と「あなたは安楽死が合法でも、殺される対象じゃないわよ」と慰めの言葉をかけてくれる。

しかし、私には、とてもそんなに単純な話には思えない。

だって、今も若いよ。けど、極々稀に、「死にたくならないの?」とか「なんで死なないの?」と尋ねる医療関係者もいる。

私は小児期に凄い生還と回復ができたし、闘病の環境にも凄く恵まれていた。

スタッフ全員が、治って元気にやりたいことができる未来だけを一心に追い続けてくれたから、私は元気にスキップして復学できた。(そう。当時は病気の典型例以外に病名すらついていなかったし、治療法が確立されていなかったのに、皆が快復のために明るく奮闘して、奇跡を起こしてくれた。)

その後、大学生活も謳歌できた。

大袈裟ではなく、私も医師として、誰かの命を守り、人生を好転させる手助けまでできたとも思っている。

私が発病した当時の医療が「改善を願う」ものだったらからこそ、命のリレーは繋がれた。

もしも、「死ぬ権利」などというものを、人工呼吸器装着中に誰かに問いかけられたとしたならば、私の心は折れていたかもしれない。完治する未来しか想像していなかったのも事実。けれども、何が起きても亡くなった私自身の家族や友人達よりも自分の状況の方が、生きているだけでマシだと思えたし、何が起きても完全回復だけを信じて前進し続けられた。(亡き兄弟に心の中で「お姉ちゃん頑張ってるからね」と話しかけたり、小学生で亡くなったあの子を思い出し、「私は彼女よりもずっとマシに違いない」と言い聞かせた。)

即ち、もしも「安楽死」などという可能性などが提示され、その方が頑張って生きるよりも良いなどと言われてしまったら、私と同じような境遇の治ると信じて頑張っている子供たちに不必要な精神的な苦しみを強いるだろう。切れかかった命綱を精神力だけで繋ぎ止め、必死に回復する状況もある。「安楽死」というオプションの提示や美化は、そのような過酷ながらも快復できる状態において、彼らの命を奪い、しいては彼らが築き上げる素晴らしい未来をも絶たれることを意味するかもしれない。これは、何も彼らだけにとって素晴らしいという意味ではない。健康な人にとっても、その誰かが居てくれるおかげで改善する未来。

そもそも、この世に死を斡旋する概念が推し進められること自体、不快でしかたがない。

延命治療を受けるか否かの決断は、全員が若いうちから話し合うべきだと思う。しかし、いかなる状況においても、自殺幇助はやはり殺人の延長であると思う。

尊厳ある生の延長線上に、安らかで自然な死があることを肯定するのと、意図的に命を選別するのは違う。

前者は肯定しても、後者は殺人を肯定した上での、選別方法や命の奪い方の議論なのだ。

この違いは、やはり言葉尻の違いだけではなく、意識や態度、行動の違いに反映されるのではないだろうか?

オーバーメディケーションを肯定する意図ではなく、不用意な縮命や命の選別を抑止する意図で、あたかも「死」に権利などがあるような誤解を招く表現には強く抗議したい。

自殺したいのならば、静かに一人で、勝手に自殺をするのもしょうがないかもしれない。しかし、自分が自殺できないからといって、他者にその意見や行為の強要はしないで欲しい。(第一、自殺したくなくなる、明るく希望ある世界の方が、自殺しやすい世界よりも生きていて快適だろう。そちらを切に願いたい。)

尊厳死というのは、自殺幇助(安楽死)とは明確に違う。
(私はこれを尊厳生と呼びたい。これは、別の記事で)

緩和の結果の命の短縮は、積極的に死を選ぶのと目的が違う。

ご高齢な方々への、本人の意思に反する延命治療の強要は良くないと思うよ。

でも、だからと言って、無闇矢鱈に死を斡旋するのも、極めて危険だと思う。

人間は歴史に学ぶ?
何年も何十年もかけて、知識人から安楽死や墮胎があたかも尊厳を肯定することだという考えを植え付け、ジワジワと一般人に浸透させた国があるよ。そう。まさに、ナチスのマインシャフトがそれだった。

今の日本の思考の方向に、一旦疑問を投げかけて、議論を促した方がいいと思うよ。

第一、もしも「死」が権利なのだとしたら、必ずそこには「不死」という権利も存在しなければおかしい。YESとNOがあって、初めてそれは権利となる。だから、そもそも永遠に生き続ける方法とそうする権利がなければ、そもそも「死ぬ権利」というのはコンセプトとしても、言語としてもおかしい。

ちょっと、止まって考えようよ。

そして、何が辛くて、何がどう改善できたらもっと生きている今この瞬間が快適になるかも議論しない?

今この瞬間は今しかない。

この瞬間、あなたは何を感じ、何を思い、どうしたい?

今を大切に生きよう!

いいなと思ったら応援しよう!

KG
ぜひサポートよろしくお願いします。 ・治療費 ・学費 等 に使用し、より良い未来の構築に全力で取り組みます。