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【H】21世紀のための『経産省宣言』(?)—中野剛志『入門 シュンペーター』を読む(後)

この記事は以下の記事の続きで、『入門 シュンペーター』の読書録である。


2、本書の内容―21世紀のための『経産省宣言』(?)

さて、本書の内容を見ていこう。

前回の記事で私は、本書は『経産省宣言』として位置付けられるといった。

その意味は、この数十年間、財務省の緊縮財政論と主流派経済学が共鳴するなかで、他の各省庁は予算面で抑圧されるとともに、その果たすべき役割においても過小評価されるようになってきたのだが、本書は、そのようなイデオロギー的・現実的な状況に対して、産業政策を所管する立場にある経産省側からなされた反撃であるということである。

2-1、シュンペーターをこちら側に取り戻すということ

その反撃はいかにしてなされるのか。それはなんとなく「あちら側」、すなわち、財務省・主流派経済学側に属しているように思われているシュンペーターを「こちら側」に取り戻すことによってである。中野氏によれば、シュンペーターの真意はまさに財務省・主流派経済学の共鳴関係とは正反対の位置にあるのである。

シュンペーターは一般に「イノベーション」や「創造的破壊」という語で知られる。私たちはこれを「なんとなく」主流派経済学流の市場中心主義に親和的なものだと解釈している。

主流派経済学によれば、市場では価格メカニズムによって需要と供給の一致としての均衡が達成される。そして、独占的な供給者がいて価格が高止まりするのではなく、複数の供給者が互いに激しく競争をしていくなかで決定される価格での均衡においてこそ、供給者と需要者の全体にとってある仕方で最適な効用が実現される。それは資源が最適に配分されていることを意味する。

このような仕方で主流派経済学は市場の意義を述べるわけだが、私たちはこれを「なんとなく」「イノベーション」や「創造的破壊」と結びつけて解釈する。

すなわち、市場の競争のなかでこそ、イノベーションが生まれてくるというわけだ。日本でイノベーションが生まれないのは、市場競争に対する国家の規制が厳しすぎるからであり、国家にぶら下がる利権屋が多すぎるからであり、国家の福祉にお世話になる怠け者が多すぎるからであり、大企業のような独占的な既得権益が新規参入者を潰して回っているからである…。こういった既得権益の岩盤を「創造的破壊」によってぶち壊し、市場競争を全面化すること。そのなかに「イノベーション」が生まれてくるはずだ、というわけである。

この主流派経済学の反国家主義が、均衡財政を達成するために緊縮財政路線をとりたい財務省の路線と結びつく。というのも、この反国家主義は政府予算の縮小を正当化してくれるからだ。その考えによれば、国家の支出は、市場の競争にさらされない利権的な所得を生み出し、競争を阻害してイノベーションが生まれない環境を作り出すとされるからである。

さて、こういうわけだから、本書のシュンペーターを取り戻す試みは、この「イノベーション」と「市場の競争」との連想を断ち切り、既得権益めいており、鈍重で「イノベーション」を起こせそうにないとされている「大企業」をこそ「イノベーション」の場として再評価する。

そして、その「大企業」の機能が「株主資本主義」によって損なわれている現状を憂いた上で、残る希望を「国家」に見出す。そこでは国家による「産業政策」こそが「イノベーション」の源泉として見出されることになる。本書が実質的には『経産省宣言』である所以である。

この理路をもう少し詳しく追っておこう。

2-2、本書の内容の簡潔なまとめ

2-2-1、イノベーションの理論は「反」市場均衡の理論

中野氏が本書の冒頭近くで取り上げるのが、シュンペーターによる「静態的」な経済と「動態的」な経済の二分法、そして、「快楽主義的」な人と「精力的」な人の二分法である。

このうち「静態的」な経済と「快楽主義的」な人は、主流派経済学の語る市場均衡の経済に対応する。快楽主義的な人とは合理的に効用を最大化する経済人のことであり、こういう人たちの集合的な行為の結果として、市場では均衡価格における需要と供給との一致が実現され、最適な資源配分が達成される。

だが、「精力的」な人は、このような過程に満足しない。そのような人は、創造の喜びや地位獲得の欲求に突き動かされて、何か新しいものを生み出そうとする。その人が「新結合」によって「イノベーション」を達成するとき、市場の均衡は破られ、経済は「動態的」になるというわけである。

ポイントは、主流派経済学風の市場競争とイノベーションを結びつける通俗的なイメージとは反対に、シュンペーターはイノベーションの理論を、主流派的な市場競争と市場均衡では捉えられない経済の現実を捉えるものとして構築していたということである。

2-2-2、「信用創造」が資本主義の定義を構成する

次の話題として、シュンペーターが主流派経済学で通説とされる商品貨幣論ではなく、昨今ではMMT派貨幣論などで広く知られるようになった信用貨幣論の立場をとっていたことが論じられる。

現代においては、銀行が貸出を通じた信用創造によって無から貨幣を創造しており、だから借金がなければ貨幣はほぼ存在しない。これを理解すれば、財務省流の緊縮財政論がいかに馬鹿げているかがすぐに分かる。

主流派経済学流の商品貨幣論では、貨幣はゴールドのようなモノ、有限な量のモノと考えられる。政府の国債発行は、この有限なモノを借り入れることであり、借金だから返さなければならないと考える。国の借金が1000兆円もあって大変だ、というわけである。

だが、金本位制が終わった今、この商品貨幣論にはなんらの妥当性もない。現代のシステムの描写として正しいのは信用貨幣論である。信用貨幣論の立場からすれば、借金がなければお金が存在しない。経済規模に応じてお金が増えるべきである以上、借金も増えていかなければならない。民間が借金を十分にしないなら、政府が借金を増やさなければならない。だから、政府の借金の増大は単に必然でしかない。

さて、この辺りはMMT派貨幣論を理解している人からすればお馴染みの議論であるわけだが、興味深いのは中野氏によると、シュンペーターが信用創造の存在をイノベーションと固く結びつけ、そうすることで信用創造をまさに資本主義の要件そのものに数え入れているということである。

資本主義の本質はイノベーションにあり、イノベーションが実現するためには余剰資金が必要なのであって、それが迅速に確保できるためには貨幣が無から創造される信用創造の力が必要であるというわけである。

2-2-3、大企業の時代と「株主資本主義」によるその終焉

さて、初期のシュンペーターは、一般のイメージの通り「イノベーション」は現代でいうところのスタートアップ企業ないし起業家的な人々によって生み出されるという風に考えていたのだが、後期には大企業組織をイノベーションの担い手として重視するようになったという。

それには独占的な大企業が台頭し、にもかかわらず、さまざまなイノベーションによって人々の生活が豊かになっていったという20世紀前半の時代経験が反映されていた。

シュンペーターによれば、企業が繰り広げる競争は、完全競争ではなく独占的競争であり、そこでは企業は他の企業との差別化を通じて、自分だけの小さな独占市場を構築しようと試みている。競争は独占の反対語ではない。企業は独占をするための競争をしているのだ。

このような独占市場が確保する競争の制限こそが企業に余裕をもたらし、企業を強くする。大規模かつ長期的な研究開発や設備投資が必要となる現代においては、イノベーションを生み出すには、この余裕が不可欠である。だからこそ、大企業がイノベーションの源泉として重要なのだという。

だが、中野氏いわく、このイノベーションの源泉としての大企業の役割は、1980年代以降に「株主資本主義」の時代が到来することによって終焉を迎える。その事態を理論化しているのがウィリアム・ラゾニックだという。

その議論を簡単にまとめてしまえば以下のようなことになる。すなわち、「株主資本主義」以前の企業は独占的地位で得られた資金を内部留保として貯めて、それを過度に貯め込むのではなく長期的な研究開発や設備投資に充てていた。それがイノベーションの源泉となった。

経営者たちは、長期的な企業の発展を目標にして行動し、労働者たちを長期雇用することで、労働者の能力を高めていた。それもイノベーションの基盤となった。

しかし、市場を重視する主流派経済学の影響で、株式市場こそが企業の価値を正しく評価できるとされるようになり、企業の目的は株主価値の最大化だとされるなかで、このような古き良き企業文化は変質していった。

経営者たちは、自分たち自身が株式で報酬をもらうようになるなかで、短期的な株価上昇を至上目標とするようになった。

株価、すなわち、株主にとっての価値を高めるには労働者に払う賃金はコストである。だから、労働者の賃金は引き下げられ、雇用は短期化されて、労働者の能力は下がった。

さらに株価を上げるチート技のような自社株買いも解禁されて、長期的な研究開発や設備投資ではなく、利益は株主への利益配分である配当と、株価を上げるための自社株買いに使い込まれるようになった。

このような「株主資本主義」への変質によって、大企業はイノベーションの担い手としての機能を失っていったというのである。

2-2-4、イノベーションの源泉としての国家

中野氏の見立てでは、かつて日本的経営と呼ばれたものは、シュンペーターが論じたような、イノベーションを可能にする理想的な大企業の経営だったのだが、日本は「株主資本主義」に転換することで、その良さを失ってしまった。

しかるに、他方、「株主資本主義」の本場であるアメリカではGAFAのようなイノベーションが起きている。これはどうしてか。

ここで言えることは二つある。一つはそれらの企業が、はじめは違うにしても、基本的には典型的に独占的な地位を確立した大企業であり、圧倒的な余裕を持っているということである。これはシュンペーターの議論に反さない。

そして、もう一つが、こちらがより重要なのだが、アメリカにおいて国家が果たした役割である。

この国家の役割を追求したのが、中野氏によれば、マリアナ・マッツカートである。

そもそも、長期的な視点での研究開発や設備投資がイノベーションを生み出すのだとすれば、その余力をもっとも持っているのは、(政府の借金を問題視する誤解を取り除けば)大企業ではなく国家である。だから、国家の評価は大企業の評価の延長線上にある。

そして、実際、半導体にしても、コンピューターにしても、インターネットにしても、もっとも決定的で基盤的なイノベーションといえるものは、アメリカ政府が中心となって推進した宇宙開発や軍事研究の副産物の側面が濃厚なのだ。シリコン・バレーはもともと軍需用の半導体の製造会社の集積地だったのだという。

中野氏によれば、マッツカートはのちにMMTを受け入れることになる。MMTはシュンペーターの貨幣論を継承するものであり、マッツカートはシュンペーターのイノベーション論と企業論を継承している。シュンペーターから発したこの二つが合流するのは当然ということになろう。

こうして議論は、財務省的な緊縮財政論を信用貨幣論でもって無効化したうえで、主流派経済学の市場競争論では捉えられないイノベーションの担い手として国家を認識することへ向かう。

それは、すなわち、国家の産業政策の意義の再評価に他ならない。本書が実質的に『経産省宣言』だといえる所以である。

3、いくつかの感想ないし論点

いくつか、感想というか論点というか、今後考えたいことを述べておきたい。

一つは、「競争」の評価をめぐる問題である。本書が説得的に述べているように、イノベーションは主流派経済学のいう市場競争とは少し異なっており、同じモノをめぐって同じ市場で価格競争をするのではなく、むしろ差異化によって小さな独占市場を作り出そうという競争である。そして独占が生み出す余裕こそが、長期的な研究開発や設備投資によるイノベーションを引き起こすということも確かだろう。

ただ、だからといって、主流派経済学流の競争も意義がないわけではないようにも思う。主流派経済学流の競争が働き、そこでは利潤が得られなくなっていくからこそ、イノベーションによる独占的競争が駆動されるという側面は否定できないように思われる。その意味では、主流派経済学流の競争を防いでしまう国家による規制や介入などはない方が望ましいという可能性はあるように思う。

要するに、真実は中庸にあるように思うのである。過度の市場競争は企業に余裕を失わせ、積極的なイノベーションを起こす体力を失わせる。他方で、市場競争の不在は現状に甘んじる誘因となり、こちらはイノベーションを起こそうという気概を失わせる。

問題は、この点をどのように考えるかである。適切で適度な競争環境はいかなるものであり、それはいかにして制度的に担保されうるのだろうか。

もう一つは、保守と経済思想の関係という問題である。中野氏の立場は、この語を私は悪い意味で使うつもりはないのだが、ある程度まで「国家社会主義」的に見える。

中野氏自身も、経済に占める国家の役割が大きくなっていくという意味での社会主義化の長期的な傾向をシュンペーターの議論から引き出す中で、「社会主義=左翼」という批判を意識しているようである。その流れで「社会主義=左翼」の反対側にある「新自由主義=保守」とする認識を批判し返している。

社会主義は左翼で、その反対に新自由主義が保守だという認識には、私自身も違和感を持つ。それこそ左翼のマルクスが言ったことではないかと言われればその通りであるが、資本主義ないし市場経済とは既存の一切の秩序を流動化させていく力であり、どう考えても保守的ではない。

ハイエク流に市場経済は自生的秩序だから保守だなどといわれても、私にはピンとこないのである。この言説には「歴史的に市場経済は本当に自生的か」「規制改革で市場競争を生み出すというのはもはや自生的でない」等、いろいろと問題があると思うが、ここで指摘したい論点は、自生的秩序だから保守だというの言説の背後にある、保守を反設計主義とする前提が正しいかどうかである。

既存の秩序を破壊するものは設計主義だけではないように思うのだ。秩序破壊的な運動が自生的に生じることもあるのであって、資本主義とはその一例であるように思われるのである。とすれば、一定の設計性は伴うにしても、自生的秩序ならぬ、自生的秩序破壊である資本主義を適切に制約する制度を設計することこそが秩序を保守することにもつながるように思うのだ。

このように考えていくとき、なぜ保守と新自由主義が結び付けられて考えられるようになったのか、そしてそれはどこまで妥当なのか、もう少し自分なりに考えてみたいと思うのである。

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