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僕の「才能」って、結局何だったの?

MMORPGが嫌いだった。最初のステータスの割り振りにいつも失敗するから。
大学で必要な単位を計算するのが苦手だった。でも、とにかく全力で頑張りさえすれば何とかなるものだと思ってた。考えなくても生きていけると思ってた。

 事実は小説より奇なりと言うけれど、僕の人生は本当にややこしいものだった。だから今まで、人に伝えようと思いもしなかった。それでも理解されたい思いは少しあって、それがずっと僕の苦しみになっていたんだ。
 僕は発達障害と性同一性障害がある。発達障害には才能があると言うけれど、じゃあ僕には一体何の才能があるの?



金持ちのクズ


 僕は都内の比較的裕福な家に生まれた。正確には収入は年相応なのだが、父が高齢(僕が0歳当時48歳)で、すでに出世していたし、すでに天狗になっていた時期だったし、一人っ子だったから、使えるお金がたくさんあったということだ。父もASDがありバツイチで、性格に難ありでなかなか結婚ができなかった。母もまた曲者なのだが、まあとりあえず置いといて。
 一人っ子、裕福、新居の一戸建てと言うことで、僕はかなり優雅な暮らしをしていたと思う。父、母、祖母、祖父という大人四人に対して愛すべき子供は僕一人という構図で、なんかゴスロリみたいな服を着せられて、庭にあったブランコでよく遊んでいた。子供部屋がなかったので、母の部屋をもらった。母はリビングで寝るのが当たり前になった。いつだって僕が最優先だった。特に母は過保護、過干渉だった(その代わり、我儘でもあった)。ほかの子のような、家族の軋轢、生活の問題や不満は何一つ感じないで育った。これが後に僕の大きなコンプレックスとなる。
小学時代
小学校に上がると、僕の「発達障害」は顕著になってきた。空気を読まない発言や不躾な態度、サイコパスと思われる言動はたちまち糾弾の的となった。だいたい僕は「発達障害」だと診断されていなかったので、それらを全て「自分が裕福なせい」と思い込んでいくようになった。今流行りの「悪役令嬢」と言うものがあるが、金持ちで、偉そうで、生意気で、嫌われ者だった。それは半分本当で、半分は発達障害から来ている誤解だったのだが。もっと言うと、発達障害から来たそういう言動が、周囲に「これだから金持ちは」と言われてしまうと言うことだ。まぁ「ですわ」とは言わないが。治すためには、金持ちであってはならないと思い込んでいった。発達障害だから、いつも親にやってもらっていた、甘えるのが、やってもらうのが当たり前みたいになっていたのもある。金持ちと思われる言動や傲慢な態度、自尊、怠け、甘え、それを連想させるものに過度な嫌悪を抱き、「謙虚」、「努力」をモットーに、過剰で異常な努力を始めた。「辛い」とか、「苦しい」という言葉は、言えば言うほど怒られるので、口にするのをやめた。それでもどうにもならない部分は、「わざとふざけているんだ」というアピールをして、できないという事を隠した。それがさらに教師の反感を買った。空気を読まない悪ガキだと思われていたので、自分でもそうなのだと思った。大人になってみれば、あんなに裕福で、何不自由なく育って、性格が悪いわけがないのだが、周りがそう言うから、自分は悪い子なんだろうと信じていた。周りの言う事に従ってしまうところがすでに、良い子なのに。でも、努力で変えられるものではない。気付けば怒られているのだから。だから悪いふりをするしかなかった。人を避けるしかなかった。出来る限り、怠けていないことをアピールするしかなかった。今考えればそれこそが、僕のプライドの高さを表している、つまり「金持ち」っぽい行動のように思う。他人の罵倒など、無視すればいいものを、「金持ちなのがいけないのなら、金持ちじゃなくなれば評価されるだろう」という、いかにもおぼっちゃま、褒められていなければ気が済まないという行動原理だったと思う。
 とくに教師に親の仇みたいに叱られていたので(まだ当時はドラえもんの世界のような「廊下に立っとれ」が存在していた)教師や権力者、大人たちに対して反抗心を持つのは難しいことではなかった。
 特に女子の発達障害は理解されにくい。少ないからだ。女子は早熟で早くから高度な会話術を駆使していく。当然「予知能力」のない僕にそのような事はできず、当時はなんとなく「自分は女子ではないのではないか」と思っていた。
 周りはそんな僕のことを分かっていたようで、よく、「バカと天才は紙一重」と励まされたり、「キミは大成功するか大失敗するかのどちらかだね」と言われたりした。丁度その時読んだ何かの本に、「本当に優れた人は、あらゆる可能性を考えているので動作が遅れることがある」と書いてあったのを読み、予想や予測ができずもたつく自分は天才なのではないかと勘違いしていった。父も、平凡でいてはならないと常々言っており、家族全体で「意識高め」と言うか、「我々は普通じゃないんだ、凄いんだ」みたいな風潮があった。言ってみれば、シャーロックホームズのようなものだ。変人だし、何をしているか理解されないけれど、本当は凄い実力のある人。そういう人になればいいと思った。辛くても、そのぶんいつか報われるのだからと、自分に言い聞かせた。何かできない事があっても、それを上回る「評価」があれば許されると思った。天才でいることで、変人でいることから許されようと思った。人生というものはそんなふうに、「平等に」出来上がっているのだと考えた。今思えばその「平等」は、ずいぶんと自分に甘い判定だったのだが。


スマートな人生


「謙虚で努力家」をモットーにしたキャラ作りは、まぁまぁ成功していたと思う。中学・高校・大学と僕は優等生だった。挙句の果てに、「もっと自信を持っていいのよ」などとトンチンカンな励ましをする先生までいた。発達障害から来る浮世離れした言動も良い感じに相まって、人の庇護欲のようなものをくすぐるのだろう。僕は割とみんなから愛されるマスコットのような存在だった。謙虚にさえしていれば愛されるのだと学んだ。もちろん、口癖は「うちは貧乏なので…」だ。実際、知能の面ではかなり貧弱な家庭だったので、あながち嘘ではないだろう。もう、媚び媚びだった。媚びれるだけ媚びた。当然、同級生にも敬語だ。幸い目立ったLD(学習障害)がなかったので、勉強にもそこまで支障はなかった。読字と文章理解と空間や地理把握に難があったが、理系を選択しておけば問題ない程度だった。「僕のような人間は高学歴に多い」「僕のような人間は大局的でグローバルで普遍的」「やはり学問こそ普遍であり永遠であり真理」「時代に囚われない恒久的な知識と知性を」「学問こそが人間の価値であり本質」…僕の青春時代はそんな感じだった。発達障害で功利的なことや流動的なことが分からないことは、まったく問題ではない、むしろ素晴らしいことだ、人類の進化した形だと信じて疑わなかった。自分は新人類であり、文化や空気にとらわれず、必ず真実に辿り着くことのできる稀有な人材だと思っていた。本心では、理系(計算好き)でも文系(チャラい)でもない、ただひたすらに学者であり、導き出した真実は社会においても通用すると思っていた。こういった教えは、主に父の影響であると思う。父は「時代を変える人間」となることにただならぬ価値を置いていたし、最も敬愛する人物はニュートンだった。僕もまさにそれに倣い、時代と真理を見つめ、社会や短絡的な情勢にとらわれない本質的な視点と生き方を身につけたいと常々思っていた。むしろ、健常者の言う「想像」とは、論拠と確証の伴わない凡人の「妄想」だと一笑に付していた。自分の特性以上に、ますます発達障害然としたものを追い求めるようになる。発達障害に憧れる発達障害だったのだ。そのため、語用論的な言語手法を、「できない」というより、「嫌う」ようになっていった。むしろ、辞書的な使い方をするほうが正しいのだと思い込んでいた。今思えば父の影響もあるが、学校の影響もかなりあったと思う。僕は中学から私立の理系の学校に進んだ。僕自身は公立でいいと思ったが、母が「公立に行ったら絶対にいじめられる」と言うので従った(これに関しては、母が正解だったと思う)。その学校は、まず、制服にズボンがあって、出席番号が男女で分かれていなかった。プールなどは自主参加だし、そもそも「休む」ことに対して叱ることがなかった。怠けでも、できなくても、嫌だという子を無理にやらせたり絶対しなかった。国語の授業が少なかった。コミュニケーションが必要な授業、つまり、班行動などの共同作業の授業が少なかった。これは、いじめ防止や、そういうことが苦手な生徒に対する配慮だったのか、そういう生徒をターゲットにしていたのか、単に学校側が力を入れていなかっただけなのかは分からないが、中高の6年間で1回あるかないかだったと思う。正直、本当に過ごしやすくて、小学校との落差に驚き、何度も感謝した。だからこそ、発達障害者のような人を「障害」と捉えることの意味が今でも分からないときがある。あの頃は大丈夫だったのに、と。今思えば、あの学校が合わなくて、中退した子も数人いた。その子は、とても感受性が強くて、小説が好きで、世の中で言う「普通の子」だったんだと思う。だから、うちのような、環境に良いからというだけの理由でレポート用紙に裏紙を使うような学校とは、相容れなかったのではないだろうか(のちに大学で裏紙でレポートを出して名指しで叱られた。この差よ…)。
 漫画も、なるべく完璧な作品を追求した。もちろん限界が来たらその時は諦める所存だったが、限界まではなるべく良い物を作りたいと思った。「大人の事情」でクオリティの低い作品を作るような大人には死んでもなりたくなかった。当時は自分もいつか、「大人の事情」が分かるようになるのだろう、分かったうえで戦う人になるのだろう、と思っていた。だけど、まさか、「大人の事情が分からない障害」と言われるとは、そんなモノがあるとは露ほども思っていなかった。
 恋はしたと思う。男子(異性)にだ。かっこいい男子とかと話すときにドキドキすることは確かにあった。そう、この時はまだ性同一性障害ではなかったと言うか、少なくとも同性愛者ではなかった。かっこいい女子や、頭のいい女子と話すときに少しどぎまぎする事はあったが、ドキドキすることはなかった。まだ、指向が定まっていなかったとも言える。


将来設計


 発達障害は「予測」することに障害があるので、将来設計のようなものは一切立てていなかった。けれども、仕事はしなければならない。僕にとって仕事をする上で大切なのは、
・人と話さなくても良いこと(最低限のやり取りしかしなくて良い)
・対面ではないこと(性別を隠せる仕事)
以上の中から弾き出したのが、アフィリエイター、漫画家、建築家の三つだった。取り敢えず建築系の学校に行き、出来れば漫画家になって、複業でアフィリエイターをしよう、と考えた。もちろん専門学校の方が行きたかったのだが、父親が学歴主義だったので大学に行かなければならなかったし、「どうしても専門学校に行きたいなら大学に行った後行かせてやる」と言われたので別にいいか、と思った。父が学歴主義なのは、ASDだからだと思う。うまく社会に適応できなくても、学歴さえあれば認めてもらえる。むしろ、学歴と言うものは、発達障害が上手く生き抜く唯一の手段だと、父は無意識に分かっていたのだと思う。発達障害は勉強だけは得意なのだから。それでも僕は、どうしてもやりたいわけでもない勉強をするくらいなら、専門学校に行った方が良いと思ったが。専門学校に行って資格を取るなり、手に職をつけるのだって、発達障害の良い生き方だと思う。ベストなのは、自分で漫画をweb公開し広告収入で稼ぐこと(当時、セルフ出版サービスはまだなかった)。それなら編集者と話す必要すらなくなる。今となっては普通のことなのだが、当時個人でそんな事をしている人はおらず、そんな夢を持っているなんて、しかもその理由が「人と話したくないから」なんて誰にも絶対に理解されないので、誰にも相談することはなかった。それに漫画家は「天才」である僕が世の中を啓蒙したり評価されるツールとして最適だ、と考えた。それどころか、天才は漫画家になる義務がある、とまで考えていた。「バカ」が「天才」のふりをするための、壮絶な努力が幕を開けた。漫画家として生きるために、とにかく「天才」らしいものや、尖ったもの、目新しい物、新鮮なものばかり追い求めていき、すでに「無意識の変人」は「意図した変人」へと変貌していた。「何もできない」ことを、「特別なことが出来る」と勘違いして、僕の人生は進んでいった。
でもそれは、仕方のないことだ。だって誰も僕を「発達障害」だと言ってくれなかったのだから。


オタクたちとのかかわり


 僕は正直言って、オタクではない。何か好きなものがあるでもなし、そもそも、ゲームや漫画やアニメにはさして興味がなかった。ポケモンの「サトシ」は、冨岡淳広という脚本家のお陰で、わりと発達障害っぽいキャラクターだったので、共感してはいたが、それは「好き」という概念ではなかった。でも、「発達障害」として、漫画でコミュニケーションを取るのは便利だったし、漫画は人と喋らなくても描けるし、自分が「変人」であることを忘れられるし、漫画には「鈍感なのになぜか好かれる主人公」がいるし、ゲームの中ではコミュニケーションで悩まなくて済むし、アニメならタダで観れるので、どんどんアニメを吸収していった。絵をきっかけに、オタク達とも友達になり、彼らのお勧めを借りたり、描いた漫画を読んでもらったりした。けれど決して、自分がオタクになることはなかった。僕にとって漫画は、現実から目を背けるための道具であり、収入を得るための「進路」でしかなかった。発達障害が苦手な「予測」を、使わなくていい世界だったに過ぎない。陰キャでも、陽キャでもない。そんなズレを、無意識に感じながらも、うまく言語化できずに、孤独感を強めていった。そしてその孤独感を振り切るために、また創作に没頭していった。
その頃の僕はすでに、口を開けば「冗談」しか言えなくなっていた。天邪鬼と言うのだろうか。本音を言うことを極度に恐れていた。創作の話か、ごっこ遊びしかできなくなっていた。人生はゲームだと、ふざけて語った。周りは冗談だと思っただろうが、僕にとってはその「冗談」が人生そのものだった。身の上を考えることは、僕の中で禁忌だった。男になれば、漫画家になれば生まれ変わって幸せに生きられると信じていた。言い聞かせていた。皆の言う「冗談」を地で行くしか、生きる道がわからなかった。だからこそ、余計に努力に身をやつした。


家庭環境


 僕の目下の悩みは「性別違和」だった。発達障害については理系を選択し、人一倍の努力をしていれば特に問題がなかったのであまり重要視していなかった。子供を産むとか育てるなんて論外だし、生理は不要だし、つらいし、男の方が考えなくても生きられるし、男のほうが「変人」が珍しくないし、性転換をするにしても、とにかく一度精神科に行こうと思い、親に内緒でジェンダー外来を受診した。僕の母は僕の行動を根掘り葉掘り聞いてくる人なので、また性転換は母に大反対されていたので、そのためだけに地方の大学を受験し、一人暮らしも始めたのだ。しかも国立大学しか駄目だと言うので、とにかく猛勉強した。僕は結局性転換するために猛勉強するという、独特な青春時代を送った。大学進学で家を離れるとき、「もう、二度とこの家には帰らないだろう」と思った。僕はこれから男になり、親に勘当され、建築関係ないし漫画家として一人で生きていかねばならない。やれるかどうかではない。それしかないのだと。エンジンを全開にして息巻いていた。受験に成功したことで、ハイになっていたかもしれない。家を出たのは、母の問題もある。母は過干渉で、それでいて身勝手で、おそらくADHDもあったんじゃないだろうか。そして、かなりヒステリーで、知能がそもそも低い方だった。生きていけないことはないレベルで知的問題があったのと、大きな学習障害があった。時計が読めず、地理が分からない、三段論法が分からないといった、学習障害の特徴がたくさんあった。よく、「私ってサザエさんみたい」と言っていた。但し、口だけは上手かった。人が欲しがる言葉を咄嗟に差し出す力を持っていた。恐らくそれと、母の生育環境(詳しくは割愛するが、男尊女卑の強い福岡の工場だった)が原因で、かなり強いパーソナリティの歪みがあったと思う。ものすごく、媚びる人だった。父に、世間に、他人に。いつも人の目を気にしていた。軋轢を恐れていた。創価学会の強い信者だった。そのうえ、僕を、子供を、自分の作品であると捉えていた。もちろん、子供は親の作品である。しかしその創作過程は、産んで、ある程度育てれば、あとはそう、「ガチャ」のように、どう転ぶかはお楽しみである。しかし母の場合は違う。母の望む子供以外であることは許されないのだ。もちろんその過程では、母は「こんな子になるのだろうな」という思いはあるのだろうが、一度そう決定すれば、それに従わなければならないのだ。「あなたは絵描きになるのよ」と言われれば、ハイと絵の勉強をするしかない。僕も僕で、ずっと母に流されっぱなしだった。自分でやりたい事も特になかった。いや、考えるいとまがなかった。発達障害の自他境界から来ていたのかもしれない。そして僕が褒められることで、母は自分の心のナニカを満たして生きていた。母の事を相談することは誰にもなかった。小学生の時に行った精神科では、少し話したかもしれない。僕は覚えていないが、母によると、その医者は僕には「好きなことをして遊べばいいんだよ」と言い、母に薬を処方したらしい。母は怒って、その病院には二度と行かなかった。今考えれば、あの病院が最も正しい診断をしたのではないだろうか。もしあそこで、今のように、「そんなのは甘えだ」とか、「発達障害だ」とか、「どの親もそんなもんだ」なんて言われていたら、きっと適応障害になっていただろう。なまじ、世の中が、母親に対して寛容なばかりに、僕の母親のヒステリーも、更年期障害の延長のようなものとして軽く捉えられてしまい、誰にも相談できなくなっていた(今思えば母は更年期障害のときのほうがよっぽど大人しくて、僕は気楽だった)。「この家にいたら生殺しにされる」と思い、僕は家を出たのだ。
 二十歳までじっと待ち、手術費も貯め、親とも離れ、準備万端、やっとたどり着けた精神科で「発達障害」と診断されて、納得したと同時に、怒りが沸いた。


挫折


 今までずっと、怒られてきた。甘えていると、怠け者だと罵られ、自分でもそうなんだと思っていた。だからこそ、努力で治せるものだと思っていた。ずっと、耐え抜いてきた。人の何倍も努力すれば、普通にやっていけると思っていた。確かに苦手なことはあるけど、そのぶん才能もあるのだからと。やり方によっては、じゅうぶん出世できると。元が金持ちだったので、やはり金持ちになりたかった。いつか報われる、そう信じていたからやってこれた。
 でもそうではなく、僕は最初から普通より劣った人間だったのだ。
 僕はそのとき、全ての努力の意味をなくしたような気がした。努力しても、普通になれないのだと言われたようで。今まで怒られた苦しみは何だったと言うのか。つまり僕は結局、褒められたいだけだったんだ。発達障害なら、いくら頑張ったって、褒められるようにはなれないと悟った時、生きる意味がわからなくなった。
 22歳になろうとしていた。漫画に勉強にネタ探し。発達障害だから、非効率的な努力しかできない。睡眠時間は一日二、三時間を切ることもざらだった。取材と称し、ADHD特有の多動であちこちに出掛け、チラシやパンフレットをしこたまもらって担いで帰った。交通費節約のため、どんなときも自転車や徒歩だった。時には何時間もそれで移動した。発達障害だから、多少の体調不良では行動を変えられなかった。料理もろくにした事のない僕が一人暮らしなどできるはずもなく、毎日お菓子ばかり食べて暮らしていた。そもそもADHDは糖分を欲しがる性質がある。僕は子供の頃からお菓子ばかり食べている。もちろん太ったらダメなので、お菓子以外は食べないようになっていく。性転換のために貯金して、食事をかなり抑えていたのもある。僕は軽い糖尿病(中医学的に言うと、水毒)になってしまっていた。
死ぬよりつらいこと
 思えば、水毒の傾向は幼少期からあった。小学三年生の頃、痰がからみすぎる感じがして嚥下恐怖症になり、拒食症になったことがあった。レントゲンは異常なし。「精神的なもの」と言われた。思えばあれが僕の精神科デビューだった。その頃の僕は太りたいだけ太っていたが、それを機に標準体型には戻った。しかし寒がりな体質は変わらず、夏でもコートを着ていた。「自分は人と違うから」という一言で片づけていたし、周りも「あいつは変人だから」で済ませていた。
そして今。毎日、わけのわからない低血糖発作と戦いながら、自分の人生を呪うだけ呪い続けた。「眠らない」のではなく、眠れなくなった。例え発達障害でも、体さえ動けばゴリ押しで何とかなった。男に性転換すれば万事うまく行く計画も、精神科医に「親を連れて来ないと同意書は書けない」と言われパアになった。親に、何て言えばいい? 「性転換するために親の同伴が要るから来て」? そんなことを言ったらまた子離れできない母が「最大の親不孝」とか言ってヒステリーを起こすだけだ。それが嫌だから家を出たと言うのに。父は自分と関係のないことでは動かない。金は出すがほかの事はしない。相談したって「関係ない」の一点張りに決まっているし、父は母に全て報告するから父にだけ相談することはできない。とにかく母のヒステリーにはもううんざりだった。だから性転換はできない。僕のティーンエイジはほぼそのことで埋まっていたのだから、青春時代が全部ドブに捨てられたのと同じだった。性転換してから取ろうと思っていたコミュニケーション系の必須授業の単位は取れぬまま、たとえ再来年性転換したとしても、四年で卒業するのは無理だと確定した。努力すれば何とかなるのも間違いだった。人より努力すれば、そのぶん人より早く体を壊すだけ。寝食を犠牲に努力できるのは、子供時代だけ。でも家事なんてしていたら、働く余裕なんてない。そんなに器用なことは発達障害にはできない。
 努力すれば何にでもなれるという自分の神話のすべてが同時に壊れた。社会を見返すこともできず、体調不良だけが残った。発達障害だから、ミスや無駄遣いが多いし、出来ないことをほかの人にカバーしてもらうためにも、人よりお金が必要だった。別に手塚治虫や尾田栄一郎のような著名人になりたいわけじゃなかった。ただ、自分の好きな家を建てて、最期は老人ホームでのんびり死ねるような、そんな「割と幸せな人生」を望んでいただけだ。性転換できないのではという発想がなかったため、完全に目の前が真っ暗になった。おまけに、その精神科医の性格と口が悪く、今まで愛されキャラだった僕には強い衝撃だった。世界全てに見放されたような気持ちになり、このまま死ぬのではないかというパニック発作に何度も襲われ、僕の生活そのものがまさにパニックだった。強迫性障害も発症してたと思う。部屋が燃えるのが怖くて、家から出られないなどの強迫性障害と、神経症発作が続いた。生理痛もバカバカしいほどに辛かった。子宮内膜症と診断された。子宮さえ取っていればこんな苦しむこともなかったのにと思うと、悲しみを通り越して笑うしかなかった。ホルモンバランスや自律神経の乱れからくる吐き気、片頭痛、腰痛、頻脈などに見舞われ、悔しさ、憤り、虚しさ、そして極めつけは、「無趣味」だった。


生きる意味


 僕は無趣味だった。
 今までずっと、努力して人生で勝ち組になることだけを考えて生きていたので、趣味に費やす時間がなかった。「社会に対する怒りと、過剰な自信」だけが原動力だった。すべてを未来に投資していたのだ。
 大学も、好きなことと言うよりは、自分にできそうな事(理系)といった感じだったので、極限まで疲弊した精神のなかで続けるだけのモチベーションにはならなかった。
 描いてきた漫画にも、愛や執着なんてどこにも無かった。ただ自分がいかに前衛的で優れているかを見せつけるようなものばかりだった。もちろん、過剰で異常な努力で身につけた技術でそれらは上手く隠しているつもりだったが、冷静に見れば一目瞭然だった。
 小学校でいじめられたときも、中学からキャラを作り始めたときも、性別に悩んだ時も、家を出ると決めたときも、漫画家になると決意したときも、ずっとずっとずっと、僕はひとりだった。相談など、誰にもしてこなかった。僕の人生は、僕一人しか知らなかった。悲しみも、苦しみも、何がしたいかも、何を望んでいるかも、何が悔しいかも、誰一人分かるはずがなかった。一人ぼっちのアパートで、僕は思った。
「今まで何をしてきたんだろう」って。
精神科のたらい回し
 大学を辞めて(正確には、親が持ってきた退学届にサインして)、母親が無理矢理行かせた専門学校も半年で中退したりして(母は僕の体調不良を知らない)、追い打ちを掛けるように潰瘍性大腸炎になった。
 人生で成功するはずが、もう使い物にならないくらい体がバカになってしまっていた。睡眠もろくに取れず、思考もままならず、行き場のない怒りを持て余し、社会や周囲に当たり散らす日々だった。もっと早くに分かっていれば、誰でも良いから理解者がいればと泣き暮らし、それがさらにストレスとなって神経症を悪化させた。精神科は僕のこの複雑な(自分では複雑とは思っていないが)心理を理解できず、病名が二転三転し、薬もコロコロ変わり、それが余計社会不信を悪化させていった。
 まずは発達障害は間違いで、統合失調症だったと診断された。僕が幼い頃から謙虚に生きて、勉強も真剣にやっていたせいで、学校で目立った発達障害の特性を隠すことに成功してしまっていたのだ。その代わり、ひたすらに漫画を描いたり創作したりして、現実離れした言動が、統合失調症ではないかと言う事だ(これは、自閉的な面もあったと思うが、一番の理由は、発達障害である自分から逃げるために、一心不乱に漫画を描いていたのだ。それが今度はADHDの影響で没頭していき、余計自分を忘れ、とらわれていく。キャラクターたちのことだけ考えていられれば、僕はとりあえず安心できた。脳内に住むキャラクターたちのことを冗談交じりに話す僕を、統合失調症だと思ったのだろう)。処方された薬はまったく合わず、あわや救急車を呼ぶところだった。やっと予約の取れた東京の発達障害の専門外来では、パーソナリティ障害、性同一性障害と診断された。性同一性障害のことは僕にだけ伝えられていたが、僕はそのことを知らず、母にバレたと思って焦った。ジェンダー外来であることを母に伏せて紹介してくれた病院も、母にバレるのが怖くて行かなかった(この時の、母の怒りようと言ったら…)。次の病院では、パニック障害と診断された。最終的に一人で向かったジェンダー外来では、パーソナリティ障害はなく、不安神経症と診断された。確かに一時期、強迫性障害のようになっていたことはあるし、基本的に神経質だ(と言うか、そうしなくては生きられなかった)。さまざまな投薬をされたが、これも副作用が強くてやめた。そして、やっぱり発達障害だろうという診断になった。発達障害の特性で、不安が強まり、発作が起きるのだろうと。その後、低血糖症、多嚢胞性卵巣症候群、子宮内膜症からくるパニック発作だとわかった。もうヘトヘトになった。
 そもそも、精神科のテストに、僕は違和感を持っていた。「素直に」または「深く考えずに」と言われても、今までの生活の「こじれ」と言うものがある。例えばWEIS-Ⅱ知能検査では、言葉の定義についての質問があるが、これは恐らく語用論的な回答が正解なのだろうが、「言葉」には語用論とは別の、そのままの意味もある。例えば「劣性遺伝」は、ただの生物用語だが、現実に使用した場合、罵倒と受け取られる場合がある。これは「劣性」というものが、相手を傷つける言葉と捉えられるからだ。だから、健常者は、分かっていても、誤解を招く恐れがあるので使わない。発達障害の場合は人によるかも知れない。僕の場合は、「誤解を招くと分かっていても」使う。相手が傷つくのは、相手が勝手に誤解しているだけの相手の問題であるし、僕を悪意のある人間だと勘違いして怒るさまは、すこし滑稽なのだ。そして、僕自身は使い方を間違えているわけではないので、責められる謂れはない。「分かる人には分かる」という状況に、自己の価値、つまり「常識に囚われず、真実を見つめる人間であること」を見出し安堵する。もちろん、相手を貶めようという悪意もない。劣性だろうが、優性だろうが、人の価値は変わらない。そんな事実もわからず、罵られたと怒るのはこっけいだ。僕のこういう心理には、そもそも、「僕が”劣”性だ」という意識もあるのだ。いつもいつもバカだバカだと言われているので、「バカ」という言葉、それを連想させる単語は、僕「側」の言葉である。自分の謙遜と自己卑下を、相手にも強要することで、相手の器の狭さ、自己愛があるかどうか、謙遜のできる人か、僕の感情を理解してくれる人か、そして、僕のことを罵る人か、物事を大局的に見る人かどうかどうかを判断するのだ。つまり、無知な人から見ればただ罵っているだけなのである。そうやって、わざと「空気を読まない」「常識を無視した」言動をするくせが僕にはある。わざと発達障害になると言うのだろうか。それとも、大局的アピール、つまり「謙遜」の一環なのだろうか。それとも、僕の可愛い「SOS」なのだろうか。それに、直接的に、「自分には何でもできると思うことはありますか」などと聞いてくる医者もいる。それに素直に「はい」と答えるバカがどこにいる? バカ正直にそんなことを言えば、当然「そんなわけないだろ」と叱られるだけだ。要はどれだけ努力するかで夢が叶うかどうかは決まる。そこはどれだけ息巻いていても、「まさか、僕ごときが」と答えるに決まっているだろう。そうなると、精神科医は正常な判断ができないのだろうか? その程度、織り込み済みの質問だろう? そんなふうに、精神科のテストというものは、まだ未熟であるというのを何度も感じたまま、テストを繰り返させられた。病院によっては、ご丁寧に「患者を叱ることもあります」と書いてある。医者だからって、素直にしたらこっちがバカを見るだけだ。母は母で被害妄想的なふしがある(母方の祖母も「嫉妬妄想」という恐らく統合失調症だったと聞いている)し、自分からしていること(断ると、「せっかくしてあげてるのに」と怒るのが母という生き物なのだ。まあ、してもらえるものはもらおうと思うのは事実だ。それが勿体ない精神、神経質ということなのか?)を、させられたかのように言う。すると僕が悪者のように扱われるわけだ。
 はっきり言って、ゴミ以下だった。
 そもそも、生まれたときからゴミ以下だったのだ。
 悲しんでも、苦しんでも、誰も見向きもしない。その事実がさらに僕を苦しめた。
 かつての友人も僕の本性に気付き、すっかり僕に嫌気がさしていて、何を送ってもなしのつぶてだった。正直、これが一番つらかった。一人また一人と切られたり無視されるたびに、自分は返信する価値もない人間だと判断されたことがつらかった。友達だと思っていた人たちに裏切られるのがつらかった。一方的に友達だと思っていただけなんだと思い知らされた。優等生ぶっていたから、実は嫌われていたのかもしれない。もしかしたら、発達障害だから、友達が要らないように見えるのかもしれない。必要な時以外の雑談に意味が見出せないから。僕が言語IQが低いせいもある。「謙虚」のせいで、本当に確実なことしか口に出さないタイプ——つまり無口だったせいもあるだろう。
 そして過去をうらやみ、なつかしみ、また憎んだ。
 そして過去のイキっていた自分に対する恥ずかしさで、また死にたくなるのだ。
 その頃には、男性も女性もどうでも良くなっていた。そもそも別の人種だと感じていたし、それでもやっぱり二次元の女の子は可愛いと思った。


性的嗜好


 確かに、男子にときめいた頃もあった。でも同時に自分の性器に嫌悪感は感じていたし、風呂の鏡に映る乳房が憎くて鏡をガムテープで塞いだこともあった(※賃貸)。もしかしたらそれは性別そのものではなく、ちっぽけでブサイクでただ親の金に守られてるだけの自分を天才だと勘違いしている「ゴミのような女」としての自分に対する嫌悪だったのかもしれない。男になりたいというのはただ、そんな哀れな自分を隠したかっただけなのかもしれない。それでもいつの間にか、女性にときめきを感じるようになった。男性に対しては嫌悪感と、嫉妬のようなものを感じる方が多くなっていった。それは思い込みとか、願望の一種かもしれない。けど実際にそうなったのだ。
 僕は最初は性同一性障害ではなかったのかもしれない。けど、性同一性障害は後からなる事もあるのだと思う。
 結局今の僕は女性が好きだし、性転換は諦めていない。もしかしたら性同一性障害じゃないかもしれないし、唯一の慰めなのかも知れないが、ほっといて欲しい。今更ほかの女性と並びたくはないし、恋愛するなら女性とがいい。そして自分は男がいい。


未来のこと


 とにかく僕は、自分探しが足りな過ぎた。ずっと、怒られないように、評価されるために、見返すために、逆転するために、そんなことばかり考えて場当たり的に生きてきたので、結局何も「大切なもの」や「自分の芯」を持っていなかったことに気が付いた。残り少ないかもしれないが、「自分の人生」を生きようと思った。
 今思えばすべて徹頭徹尾「発達障害」に振り回された人生だった。最後の数年くらいは、自分のために生きよう。もしそれで、収入が得られれば、そして病気が許せば、生きてみよう。そんな感覚だ。
 今は特に、自分の人生に悔しさはない。幼少期に、じゅうぶんな衣食住があったことで、おそらく一生分の幸運を使い果たしたんだろう。確かに、いい親ではなかった。父は頑固で我儘だったけど、そのぶんお金だけは使わせてくれた。父の取り柄はそれしかないくらいだが。それに、父は、決して母や僕に手を上げなかった。とても我慢強い人で、いつも僕らに合わせてくれた。母はメンヘラでヒステリーで疑り深くて知性が低くて屁理屈ばかりで人間性が最悪の悪女で、僕を「愛して」くれる事はついぞ無かったし、歯磨きの仕方も箸の持ち方も料理の仕方も洗濯物の畳み方も何一つ教えてくれない母親としては今一つな人だったけど、世間体を気にして家事だけはやる人だったから、家や服はいつも清潔だった。風呂だって洗ってくれたし、布団だって敷いてくれた。朝、僕がぼんやり着替えてる間に、いつの間にか髪を漉いてくれた。母のそういう努力のおかげで、僕はそこまで強くいじめられなかったのだろうと今は思う。確かにそんな幸せよりは、「普通」の幸せが欲しかった。普通に友達と、なんの齟齬もなく語り合える人生を送ってみたかった。誰かに、社会に必要とされたかった。自分で自炊して、自活して、一人前の大人として生きたかった。恋だってしたかった。失恋してもいいから、みんなの恋愛話に混ざりたかった。「存在してもいい」という保証が欲しかった。この(・・)世界(・・)に(・)認められたかった(・・・・・・・・)。でも、無いものねだりをしても仕方がないことだ。
 これから大人になる人は、今一度自分が何のために生きているかを考えて欲しい。そして、発達障害があるならさっさと診断してもらって、それを受け入れて、無理をしないでほしい。無理矢理自分を納得させないでほしい。ちゃんと自分を見つめてほしい。人生をドブに捨てたゴミだけど、そのくらいなら言えるから。

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