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雑感記録(157)

【言葉に我を埋める】


ここ最近、小説や批評、哲学の作品を読むことよりも僕の中で詩を読むことの優先順位が上がっている。別に何か特別な理由があってとかいう訳ではない。強いて言うならば、過去の記録に残してあるが「単純に小説を読むのがしんどくなった」ということである。

昨日。天気が悪かったせいもあり1日ずっと家に籠って居た。午前中にnoteを記録して、食事を済ませ昼寝し、寝るまで黙々と読書をしていた。僕は乱読するタイプの人間なので、読んでは別の作品へ、読んでは別の作品へ…と移っていくのでそれなりに作品に触れる機会は多いのである。触れる機会は多いが読んでいる量自体は恐らく少ないはずだ。

しかし、詩集の比重が大きいので思いの他、サクサク読めて逆に張り合いがない。何を言ってるんだかという話である。第一、小説が読めないと言っているのに小説を欲するとは矛盾しているにも程があるだろう。ただ、そう感じてしまったのから仕方がない。僕は読書の時と書く時ぐらいはせめて自分の欲望の赴くままに読み書きすると心に決めているので、僕は僕の諸力に従うことにしたまでの話である。

それでいて、僕は中井英夫の『虚無への供物』とか読み始めちゃった訳ね。でも初手で何だかあまり面白さを感じられない。他の本を読もうと思って、今度はベケットの『ワット』を読む。戯曲っぽいセリフ回しで、それを文字で追おうとすると骨が折れた。ただ、『虚無への供物』よりかは幾分面白い。キリが付くまで読み進め、『ワット』の下に積まれていたル・クレジオの『逃亡の書』を読む。これが…言うまでもなく…最高だった。


なぜぼくはこんなふうに書きつづけるのだろう?ちょっとヘンじゃないだろうか?今日、この瞬間、外では天気がよく、風が吹き、空には雲があり、海には波がよせ、樹々に葉が繁っている。街路のさまざまな音、軋み、唸り、呼ぶ声ぜんぶが聞える。だがぼくの名前は一度も呼ばれない。でもそのほうがいい。もし突然、女の金切り声が窓の下でぼくの名前を呼んだら、ぼくは窓から身をのりだし、声をかぎりに話をするだろう。だが一度もぼくをめあての音はない。哀れな小さいクラクションもない。だからこそぼくはこの小説を書いているのだ。
(中略)
なぜぼくはこんなふうに書きつづけるのだろう?なんの意味もないし、だれもおもしろがらせることはできないだろう。要するに文学なんてものは、提供されたゲームの最後の可能性、逃亡の最後のチャンスみたいなものにちがいない。
(中略)
なにもせず、黙っていることだってできたろう。土をいれた罐詰から芽を出した隠元豆を見つめていることだってできたろう。歯を磨き、唾を吐きだすことだってできたろう。それも同じことだったろう。なんてすばらしいことではないだろうか?だっていい匂いのする歯ブラシの中にも小説があり、詩があり、理性の末端から震動しながら、一秒ごとにはみでようとしている。すでに用意された句があるのだから。書いているボールペンの中にも小説があるのだから。それでは、本のなかになぜないのだろう?なぜ本の中には、水のはいったコップや、歯ブラシや、郵便切手や、ボールペンがないのだろう?

望月芳郎訳 ル・クレジオ
『逃亡の書』(新潮社 1971年)
P.39,40より引用

これは『逃亡の書』の途中途中で挟まれる「自己批判」と題された章で書かれている文章である。実はこれ以外にも他の「自己批判」も物凄く興味深いのだが、引用するには長いので辞めた。しかし、この次の「自己批判」は小説、詩、そして文学そのものというのは実にくだらないものであり、先人たちの残した文学(例示されているものだと、プルーストやジッド)は馬鹿だと痛烈に語っている。詳細についてはぜひ読まれたし。

何と言うか、僕はこういうル・クレジオの姿勢が凄く好きである。自分は小説を書いているくせに、小説を悉く馬鹿にしているというアイロニカルな表現が凄く好きである。上記引用の最終部なんかは正しくそれを突いているような気がしてならない。つまりは、現実に勝るものなど無いのに、何故言葉というものを使用して表現するのか?ということである。(この部分が後の「自己批判」に繋がってくるのでそこも読みどころの1つである!)

とここまで書いて、何だか勿体つけるのもあれなので、長いけれどもル・クレジオの次の「自己批判」なる所を引用しよう。

 はたしてこれは、こんなふうに書く価値があるだろうか?どこにこの本の書かれねばならぬ必要性、火急を要する必然性があるのか、とぼくはいいたい。たぶん何年か、黙って考えこみ、待っていたほうがよかったであろう!小説!小説がなんだ!みすぼらしい、とるにたらぬお話、からくり、冗長、ぼくは本気でそれらを憎みだしている。小説がなんだというのだ?冒険、それがなんだ。冒険なんてありっこない!この配列の努力、機械仕掛—この芝居—もう一つ話(レシ)をつくりだすためというわけだな。
(中略)
スタンダール、ドストエフスキイ、ジョイス、etc.!嘘つき、みんな嘘つきだ!それからアンドレ・ジィド!プルースト!教養と自己満足に充ち、生きている自分を眺め、くどくど自分の物語を話している弱々しい小天才!だれもかれも悩みを愛し、それを話すことができ、自分自身であることを幸福に思っている。《私は未来の世代のために書いている》。なんという茶番劇!未来の世代なんて、どこにいるのだ?高等中学校(リセエ)の陰鬱な教室で、開いた本を前に夢想にふけったり、《女》とか《愛情》なんて言葉がでてくるたびに肘をつつきあってくすくす笑う世代がそれなのか!
 現実を創造せよだって?現実を作りだせだって?まるでそれが可能みたいだよ!価値ある本のなかから教養を蓄積した蟻の群れ!ペテン師一味に相当する猿の群れ!ますます滑稽さ。だが、ちがう。まじめなことだ。ものすごい熱心さ、ものすごい瞑想とともにそれは行われているのだ。それはたぶん、音楽や絶叫をまったく手にいれそこなった人間たちの言語だろう。白い紙を手にし、論理の名にそこに物語を書こうなんて決心した有害な虫けらみたいな奴がいることは確かだ。他人に気ばらしをさせるためだって?遠くに逃亡するためだって?世界にへばりつく、というより自分の鳥もちで世界をくっつけるためだって?いかにもそのとおり、自分の皮膚、ちっぽけなくだらぬ人生を救済すればいいってわけだな。他人のことなんか知らないとさ!

望月芳郎訳 ル・クレジオ
『逃亡の書』(新潮社 1971年)
P.52,53より引用

まあ、なんとも痛烈な…。でも考えさせられてしまう点も少なからずある訳だ。とりわけ、僕には「音楽や絶叫をまったく手にいれそこなった人間たちの言語だろう」という部分がこうグサッと抉られるような感じがしてしまった。ここの部分を読んでいるとル・クレジオは小説とか詩とか何か社会に直接的にコミットすることを望んでいるような気がしなくもない。しかし、ル・クレジオの文章は何と言うか、言語とかそういったあらゆるものを寄せ付けない感じがするのだ。

つまり、ル・クレジオは小説が詩的なのだ。いや、小説ではない。散文詩なのだ。言葉が連なっているものの、それが前後の文脈では把握できず、何故かその言葉の連なり単体としてそこに屹立しているのである。ル・クレジオの小説、いやエッセーも全てが詩のような気がして僕には堪らない。だからある意味でル・クレジオは読み易い。何を言っているかは正直3割ぐらいしか分からないけれど、詩と同じような感覚で読める。何よりそういう文章群に突如としてエッジの効いた文章が重なり、何と言うか作品全体のダイナミズムというか、それを体感するのが至極愉しいのである。


この詩とも呼べるル・クレジオ『逃亡の書』をキリの良い所まで読み進め、いよいよ詩に舞い戻ってくる。ル・クレジオの作品はそもそもフランス語で書かれており、翻訳された少し硬い文章であったので日本語が恋しくなってしまった。しかし、また中井英夫に戻るのは無理だなと思う訳で。それで読み途中だった田村隆一の『腐敗性物質』を読むことにした。

これがまた良かった。僕の好みというか、表現がちょこちょこ好きなところがあった。ル・クレジオは美しさを感じるのだけれども、何だか田村隆一の詩は泥臭さを感じて凄く好感が持てる詩だ。西脇順三郎の詩とは大違い!(ちなみに僕は西脇順三郎の詩が得意ではない。)

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きてたら
 どんなによかったか

 あなたが美しい言葉に復讐されても
 そいつは ぼくとは無関係だ
 きみが静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ

 あなたのやさしい眼のなかにある涙
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

田村隆一「帰途」『腐敗性物質』
(講談社文芸文庫 2020年)
P.83,84より引用

僕は最初の1連に心奪われてしまった。「意味が意味にならない世界に生きてたら/どんなによかったか」というのは中々考えさせられてしまうなと思った訳だ。確かに僕等は今、生きているということは嫌でも言葉の渦に巻き込まれてしまうということである。そうして、そもそも僕等は物事を考える時には必ず言葉というものを使って考えるのが当たり前である。

しかし、そうすると何も意味がないもの、つまりはそこに既に存在しているものに何かしらの存在意義やら意味を見出してしまうのである。言葉に置き換えるという作業は、意味のないものに意味を付与してしまう行為そのものである。これは絵画を鑑賞する時を考えて貰えれば結構分かりやすいのではないのかなと思う。

例えば美術館に行ってとある絵画を眼にしたとしよう。そこにある絵画を見る際、まず以てどういう感情やあるいはその絵画に対してどのような感覚を感じることが出来るだろうか。それを「この絵はこの技法が使われて云々…」とか「よく分かんないな」とか「何となくこの色合いが良いよな」
と感じることは人それぞれであると思う。

恐らくだけれども、「よく分かんないな」とか美術館が詰まらないと感じる人は無理矢理、自分の言語でそれを表現しようとしているからそう感じるのではないかなと思う訳だ。つまりは、言葉を持ってしまったからこそそこに落とし込まないと自分の腑に落ちないというような感覚だ。感じるよりもまず言語が先立ってしまうのだと思われる。

そう言えば最近、横尾忠則の人生相談的な記事を見かけた。これと全く同じとは言えないが、似たようなことを書いていた。

いずれにしろ、これは過去の記録でも散々書いているのだが、僕らの思考や感じるものは言語に落とし込んでしまうことで陳腐になってしまう。というよりも、僕らがまず以て考えるには物事を感じるには言語というものがいつも先立っているのである。これが難しい所である。だからこそ、僕は保坂和志が「何でもかんでも言語にする、言葉で表現することは良くない」ということがよく分かる。

僕らが見ている自然は言語に出来るのか?山は言語化できるのか?無論、山の説明は出来るだろうが、山の生の存在そのものは表現し得ない。加えて、僕は今「山」という言葉で表現してしまっている訳だが、そもそもそれにも妥当性があるのか?mountain、berg、montagne、monte…これらにも妥当性はあるのか?

それで、先のル・クレジオの引用に戻って来る訳だけれども、「現実を創造せよだって?現実を作りだせだって?まるでそれが可能みたいだよ!」と言いたくなる気持ちも分からなくもない。

そこにある現実、そこに存在するものを言葉で作り出そうとすること等愚の骨頂な訳だ。だってそれを直接見た方が言葉で語るよりも多くのことを教えてくれるからだ。しかし、ここで考えなければいけないのは、それを知り得ながらもどうして我々は言語化せずにはいられないのか?我々は言語化しないと考えられない生き物だからか?

でも事実そうなのだ。悲しいことに。言語を持ってしまったが故に、それで考えなければならなくなってしまっている。言わば、我々人間は言語の奴隷でしかない。言語を貨幣と考えるとするならば、僕等の存在が商品になり得るのではないのか。言語も人々の間で交換されるものだとすれば、僕等の存在は何なのだろうか。難しい問題なような気がする。でも言葉に僕等は突き動かされて動く訳だ。……まあこれはまたの機会に。

いずれにせよ、この詩が示唆に富んでいるということは言うまでもない。そもそも意味のない言葉というのは存在しなくて、言葉そのものが意味を持っていて…。うーん…難しい…。


言語の意味を持たない形というのはどういう形態をしているのか。これを考える時にやはり考えさせられるのが、吉増剛造の『怪物君』という詩集である。というよりも、最近の(?)吉増剛造の詩はそういった言語の意味ということを考える上では非常に重要な作品である。

実際にどういう詩かを引用したいのだが、引用すらできない程の言葉の羅列。そう!言葉の「羅列」なのである。文章ではない。もはや意味を持つ事すら拒むような印象ですらある。気になる人が居ればぜひ読んで欲しい。というよりも、あまり強く言いたくはないが、読むべきであると思う。

言語が意味を持たなくする、意味を無効化するにはやはりその言語の配置や形式を変えるということ以外に現状は方法が無いように思える。加えて、そこにこそ自由があるような気がする。言語の自由、ひいては僕らの存在の自由がそこに在るような気がしてならない。

言語の持つ意味から解き放たれるためには言語を捨てるか?いや、そんなことは不可能だ。生まれてから僕等は自然に(かどうかは定かではないが)言語を覚え、それを使用して生きることが当たり前のこととして刷り込まれてしまっているのである。つまりは安易に言語を捨て去るということが今を生きる我々には決してできない。

ではどうするのか?

奇しくも、ル・クレジオが『逃亡の書』と題名を冠したように、その言語の意味から逃れるしか方法はない。そしてその方法とは、言語の形式を変えることに他ならないと僕には思われて仕方がない。それは言語そのものを変えることではなく、言語の表示形式、配列を変形させることである。ル・クレジオが痛烈に小説について語っていることも何となくだが分かるような気がするし、ル・クレジオの書く小説がどこか詩的である、散文詩であることが納得できるような気がしなくもない。

畢竟するに、詩というのはそういった意味(!?)で、形式を追求し言葉そのものを瓦解させるような試みをしている。どちらに優位性があるかないかとかは関係なく、僕が詩に魅力を感じるのはそういったこともあるからなのだと田村隆一の詩を読んで感じた。


そう言えば、吉増剛造の『怪物君』を読んだ時、僕は勝手にギョーム・アポリネールの詩が思い浮かぶ。

カリグラフ

ある意味で、詩の紋切型を排除しているという点では先進的である訳だが、しかし結局これもその「形式」、つまりは言葉で描かれた女性像という意味を持ってしまう。二重で意味を以てそこに現れるのである。つまりは、言葉を読んでも、その言葉で表現された女性像を見ても意味が看取されてしまうということである。「形式」の広がりという可能性を発見したという意味では重要であるが、これが果たして「言語の自由」と言えるかどうかはまた別の問題であるような気がしてならない。

まあ、これはその当時のダダイズムの流れもあったりするからな…。


はてさて、そんなこんなで色々と考えてしまったという訳だ。だから最近は小説よりも実は詩に僕は可能性を感じている。その文学がどうだこうだっていうことに関して。これも奇しくも、芥川龍之介が晩年言っていた「詩的精神」なるものがもしかしたら小説には必要なのかもしれない。(しかし、僕は谷崎の「構造的美観」の立場を取りたい人間なのだが。)

今は色々と小説読んだり、批評読んだり、哲学書読んだり、そして詩を読んだりしている訳なのだが。最近は専ら詩にご執心であるというここ最近の僕の話でした。

よしなに。

昼休みに買ってきました。




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