雑感記録(208)
【古本への愛を語る】
僕は毎日、神保町に居る。
これは悪い冗談でも何でもなく、ただの事実である。僕の記録を読んでくださっている稀有な方はお分かりかもしれないが、勤務先が神保町にあるので居ざるを得ない。ただ、それだけのことである。しかし、神保町は僕にとってのオアシスであり、桃源郷である。毎日居ても飽きることはまず以てない。それは古本が好きという事がその中心を占めている訳で、それ以外には何もない。
しかし、毎日毎日本を買うというのはどうもいけない。
僕は本以外にはここ最近、全く以てお金を掛けていないので無際限に使ってしまう。メリハリがあっていいとは思うが、部屋が本だらけ、自身の職場のデスクも本だらけ…。中々整理が追っつかない。それに自宅の方なんかは本棚をそろそろ購入しなければ置き場所が無い。今はある程度どうにかこうにかして整頓しているが、置き切れない本については床に平積みである。だが、読みたい本があるのだから仕方がない。自分の居住スペースを狭めてでも読みたいものは読みたい。ただそれだけのことさ。
それで、再来週にこれまたビッグイベントがある。
3月6日~3月12日まで所沢古本祭りが開催される。これは行かねばなるまい。古本好きとしては行くべきである。しかし、行きは良いのだが如何せん帰りがしんどい。行きはリュックと手提げバッグは空っぽ。帰りはパンパン。それを持ちながら電車で揺られるのはしんどい。乗り換えがあるのが1番キツイところである。前回はそれで足腰やられてしまった。歳は取るもんじゃないと改めて思う。
だが、毎日神保町に居ると、大抵欲しいものは手にしている。
古本屋もそこまで頻繁にという訳ではないが、商品を変えたりしている訳だ。新しい作品が入荷すれば整理もするだろう。毎日居るとそのタイミングと言うか、棚が変わる都度都度そこにすぐに行けるので、個人的に激アツな本を入手しやすい。例えば、古井由吉の作品の大半はおかげで安く揃えることが出来たし、柄谷行人の『ダイアローグ』シリーズもいち早く手にすることが出来たのである。何とも有難いことである。
そのお陰で、何というか、神保町以外の古書店に行ったときにある程度自分自身をコントロールする事が可能になった。つまりは、「本当に今、この瞬間に欲しい作品」を購入できるようになったということである。いや、成長したな、我ながら。今までは無際限に購入していた。それは「今しかいられないから、買わないで後悔するよりも、買って後悔しよう」と思っていたからだ。今は転職してこちらに居るが、それ以前は地元に居たのだから毎日あるいは週1回ですら来ることが叶わなかった訳だから当然っちゃ当然である。
今は「ああ、昼休みにちょろちょろっと行ってみるか」という感覚で行けるのだ。そりゃその日に購入できなくても「また明日見に行くか。なければないで…他の古本屋行ってみるか」と切替えが出来る。それに事実、古本屋は東京だと探せばちょこちょこあったりするので、探すこと自体に苦労はしない。加えて散歩好きという僕の特性が相まってか、「何なら、無い方が遠くの古本屋まで散歩行けちゃうんじゃね?」ぐらいに思えてしまう。流石、東京と言った所だろう。文化資本が圧倒的桁外れである。
しかしだ。とはいえ、こういう祭り系は例外だ。
所沢古本祭りは1年に大体4,5回開催。神保町の古本祭りは年に2回ぐらいかな。正確には覚えていないんだけれども、実際回数自体は少ない。そうしてこういう祭りともなると、多くの古本屋が自身のご自慢の古本たちを引っ提げてくる。そこにシビれる!あこがれるゥ!訳なのだが、普段ではお目に掛かることのない貴重な本が数多く、しかも安価で並ぶ。これは買うことを躊躇っている時間が無駄である。「ピンときたら買う」これが鉄則である。
だが、前回の記録でも記した通り、中には「あれ、何か今日ピンとくるものが無いんだよな…」ということもある。前回の所沢古本祭りが僕にとってはそうだった訳だが、それでも色々買ってしまった。その時は本当に惰性で選んでる感があった。これは認めよう。だが、これを言ってしまうのは些か卑怯ではあるのだが、僕は本を蒐集して眺めるのも好きである。
当然、読むことが1番好きだ。しかし、本の装丁も好きだ。いや、本というその存在そのものが好きなのかもしれない。だから割と文庫本よりも単行本を僕は買いがちである。だからがさばって仕方がないのだが…。これがね…くぅぅ…辞められない。ちなみにだけど『帷子耀習作集成』の装丁は凄く好きだね。1度手に取ってみると良いかもしれない。それに帷子耀の詩は多分、今じゃこれ以外で読めないんじゃないかな…。さらにちなむと、僕の高校の大先輩でもある。
帷子耀についてはまた後日にでも書くことにしよう。まあ、とにかくこの装丁が僕は堪らなく好きなんだな。あとは何と言っても古井由吉の単行本の装丁はどれも最高なんだな。僕はね、個人的に『仮往生伝試文』の装丁が好きなんだな。装丁と言うよりか箱だよね。あれが格好いい。これも個人的激アツである。
装丁の話になってしまったが、一旦話を元に戻そう。
古本祭りでピンと来なくても買ってしまうというのは、惰性で購入している部分もあるかもしれないが、大きいところはやはり装丁であるという事だ。要するにね。あとは「将来的にこれを読みたいから予め購入しておこう」「手元に置いておいて、きっと何か読みたくなるだろう」という希望観測の下で購入する。所謂、積読である。
「積読」と言うと何だか聞こえが悪い。
何だか非常に無機質な感じがして、あまり好きではない言葉だ。かと言って良いネーミングがあるかと言われれば、それも思いつかない。ただ「積んである本」で「消化しきれていない本」というような認識をされかねないのである。しかし、まず以てその思考が危ない。そもそも、そんな「消化する」などとは…。ある意味で「消費する」と同じことではないか?人間も食事をし胃で消化する。それは食べ物を消費していることである。じゃあ、本も同じなのか。本は「消費する」ものであるのか。
これが、僕が再三に渡って何度も何度も何度も、粘着質ベタベタで書いていることである。本自体が消費されるものという考えは資本主義の成れの果てであるという事だ。つまりは本を数字でしか見ていない。積読は定量的に本が測れてしまう。だから「積読」と揶揄されることがムカつくのである。しかし、中には数にかまけて話題性重視で書いているような作家も少なくはない訳だが…。まあ、そんなことはどうでも良いんだ。読まなきゃいいだけの話さ。
「積読」は別に悪いことでは決してない。僕はむしろ良いことだと思う。溜め込んでまでも読みたいっていう熱情がそもそも凄い訳じゃない。加えてね、「それ全部読んでるのか?」と聞いてくる馬鹿どもが居る訳だが、ほっとけ!と言いたくなる。数で読んでるんじゃねえんだぞ、こっちは。まあ、この読書の数問題については過去に割と苦言を呈しているので、それを見てもらうのがいいだろう。とにかく、「積読っていうけど、それって全部読んでるの?」と聞いてくる人なぞ無視してしまえ。
恐らくだが、「積読」に対して疑義を抱いている人と言うのは、「読みもしないのに本を溜めてってどうするの?」という事なのだろう。これを言われると実は解答に窮する。先程の場合は「数字で読んでるんじゃねえぞ」と言えるのだけれども、「読みもしないのに本を溜めて」と言われると僕はぐうの音も出ない。こう、想像してさ、例えば家族が出来たとするじゃない。生活するじゃない。積読が転がっていて掃除が出来ない。本棚も沢山。この積読そういえば読んでいないな…。でも置き場所もないな…。家族の邪魔になるし…。でも、手元には置いておきたいし…。どうしよう…。
もう、こうなる将来しか僕には見えないけどね。家族が出来るかどうかは置いておけ。妄想だ。妄想。
これは悩ましい問題である。特に、先述した通り「ピンと来ないけど、将来的に読みそうだから買っておこう」みたいな本は真っ先にこの対象となってしまう訳だ。仕方がないと言えば仕方がない訳だが……と書いたがもう書くの辞めよう。多分、言い訳にしかならなさそう。僕は「積読」よくしちゃうんだよねっていう話。思考生活的には積読ほど有用なものはないけど、実生活となるとちょっと物理的に場所取っちゃって、あら困った!っていうことさ。
そんな訳で、今日も今日とて昼休みに神保町を徘徊。
僕はいつも行きつけの古本屋の2階で煙草を吸う。そこでスイッチを入れる。風が冷たい。空気も冷たい。でも煙は温かい。乾燥した空気で煙草を吸うのは美味い。それは視覚的に美味いということである。煙が目の前を綺麗に上がっていくと思った途端に横から風がピューと吹く。ジャガーは来ない。
東京に居ると、先にも少し書いたが文化資本が圧倒的であることを感じざるを得ない。
冷静に考えて、神保町というそこまで大きくはない街だが、古本屋が密集している。それも都心にだ。歩けばすぐ皇居だし、歩けばすぐ東京駅だし、頑張って皇居沿いに歩けば国会議事堂だってある。そんな大都会の中に忽然として現れる古書店街ってある意味で凄い事なのではないか。もしこれが都心から外れた所にあったとしたらどうなのだろう。いや、そもそも古本という媒体がどうなのだろう…。考えることは様々である。
僕が地元に居た頃は本当に文化資本に乏しすぎて辛かった。
歩けば山。歩いても歩いても何もない。あるのはありったけの自然ぐらいだ。僕は地元は好きだけれども、東京に近いにも関わらず文化資本に於いてここまでの隔たりがあることに違和感をずっと覚えていた。電車で1時間30分もあれば甲府から新宿に着ける。そんな近い場所にも関わらず隔たっているのは何故なのだろうか。今更行ったところでどうにかなる訳ではないが、しかし考えざるを得ない問題であるように思う。
地元に居ても真面な本屋なんてない。ジュンク堂が山梨に於ける文化資本の唯一の頼みの綱だったけど撤退するし。今度新しく駅に本屋が出来るって行ってみたは良いものの、申し訳ない物言いだが「所詮、エキナカの本屋だな」という品揃えだし。今考えるとそういった要因もあって転職に踏み切れたのかなとも思ってみたりする。今はインターネットで簡単に買える時代だけれども、古本などはやはり見て買いたいものである。これは状態を確認するためで、以前のようになりたくないからである。
僕にとって文化的豊かさと言うのは個人的に生きていくうえで重要なことである。地元に居るとどこかそこが1つのバッファとしてあるような気がしていた。断絶とでもいうのかな。それに僕の周りは皆悉く本に興味が無い。これはこれで別に構わない。だけれども、どこかどうか満たされない自分も居る訳だ。僕がそれを、言い方は些か恥ずかしいが、哲学的に考察したり、文学的にそれを考えて「こうじゃない?」と言ってみた所で、「???」となるのがオチだ。
別に常にそういう話をしたいって訳でもない。毎日毎日、哲学問答みたいなことをしたら当然に頭がおかしくなる。苦しくなる。だけれども、それでも満たされない何かがあったんだと思う。今思えばね。だからある意味で、実家で生活していた時も「孤独」だったのだと思う。そういう悶々とした気持ちを抱えていた。いや、違うな。ただの「贅沢野郎」だったのかもしれないな。
それでも僕には本と映画と美術しかなかった。
読めば気晴らしにはなった。それは事実だ。だけれども、読んでいくうちに興味関心は肥大化する。でも共有する人も居なければ、古本屋に行くことも新刊書店に行くこともままならなくて、ただ悶々と消化不良の中で日々を過ごしていたと思う。そんな中でもnoteを細々と続けてこられたのは、そういう鬱屈な気持ちが大きかったこともあったのだろう。僕が書くことの原点には勿論「書きながら考える」ということもあるだろうが、1番は「この鬱屈した気持ちをどうにかしたい」というのが原初的には大きいのかもしれない。
今では大分生活も変わり、毎日本当に好きなものに囲まれて生活出来ている。仕事も好きなことについて仕事に出来ているので、毎日が愉しい。人間関係は正直、まあ微妙っちゃ微妙だけれども、僕には神保町がある。古本がある。それだけで僕は幸せである。大変なことがあっても好きなことがある。それだけで心強いものはない。
古本は僕にとってお守りみたいなものだ。
それを見て回るのも愉しい、そしてそれを読むのも愉しい、眺めるのも愉しい。何だか古本があるだけで大丈夫な気がする。そこまで全幅の信頼を置いている訳では決してないが、しかし、そこら辺に転がっている安っぽい言葉なんかよりも重厚な言葉がそこには数多くある。僕はそれで十分だ。幸せである。神保町、バンザイ。
彼女も居たらもっと幸せなのかもね。
分かんないけど。
よしなに。