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雑感記録(365)

【1年≠365日(回)】


1年は365日だと言う。閏年を考慮すれば366日になる。僕等は普段生活していると「ああ、1日は早く過ぎて行くな」とか「もう12月!?早いな…」とか僕等の体感は事実365日分の時間を生きていない。だけれども、そんな感覚を置き去りにして365日という無機質なものは僕等の感情をまるで無視して、ただ刻々と進んで行く。

今日で僕の記録は365回目を迎える。「だからどうした?」と思っている反面、1年分の量を書くのに僕はおよそ2年の時間を費やした。1年は365日、そして言ってしまえば365回の1日を過ごしてきたとも言える。僕はnoteの記録を書くのに大体1日掛けることもあれば、半日だけで終わることもある。そして文章が乗れば2,30分で1本書き終わる。しかし、平均して1日に1回の記録を残すとすれば、僕の365回はおよそ2年である。そう考えてみると、変な気分がする。

「1年分の量がおよそ2年間で達成。」

なるほど。日本語って面倒くさいなって思う。1年は確かに365日で365回の1日を僕らは体験する。しかし、それは「1日」であって、誰しもに共通する「1日」なのだ。全員に与えられた「1日」という自然法則。これはどんな状況であれ全員に与えられる。どんなに苦しくても、どんなに劣悪な環境に身を置いていても、どんなに愉しくても、外的な「1日」は皆等しく「1日」である。つまり、僕のnoteの365回という数字はあくまで「僕の」数字であって、外面だけ見れば一瞬騙されそうになるけど、これは「僕の」数字である。

区切りというものがある。例えば何かをしていて、「それ一区切りついた?」と聞くし聞かれることもある。あるいは、これは言い方を変えるならば、節目も同じじゃないかな。何かの節目。季節の節目。まあ、なんでも良い。とにかく、何かに分節を入れる。時たまそういう断絶の間に埋まっていたいと思う瞬間がある。「あそび」が向うから僕を誘ってくる。「どうでも良いじゃない」と耳元でささやく瞬間がある。

区切り。区切るということは、いくつかに分裂することだ。その隙間を狙って僕は身体を細めてするりするりと這いつくばっていたい。結合?するかしないかはどうでも良くて。別にどっちがどっちであろうとも、それは結局どっちもどっちである。器。そう。これが僕には些か心許ない。もう少しあればなって心から思う時がある。

「余裕だ」と彼は言った。

僕はこの言葉を聞いた瞬間。どこかスンとした。腑に落ちるとは正しくこういう事なのだろうと今更ながらに知った。齢28にして。「余裕」と嘘でも言っておけば。そう容易くはないんだな。器。そう。これが僕には些か心許ない。「そこに愛はあるんか」。包容力。包み込むそういった何か。しかし、どういった場所からそれらは誕生するのだろうか。海から僕等と一緒に地上へ来たのか?恥じらいを知るアダムとイブ。

「愛」という言葉は何だかズルい。それで全てを包含しようとする壮大な試み。僕の好きな言葉。「渾然として一」になることが「愛」なんだろうか。SEXの表現で「溶け合う」「混ざり合う」という紋切型が跋扈している。今更だけれども少し分かるような気がするなあと思う。だけれども1つになることが「愛」だとしたら?「渾然」であること。これが肝心なんだときっとそう言うのではと思っている。

器。そこには綺麗なものは何1つない。混沌があるのみ。と中学2年生が言いそうな歯がゆいセリフを書いてみる。自分で恥ずかしがっては元も子もないだろうか。ただ、心に「闇鍋」を以て置くことは大切なのかもしれない。『四畳半神話大系』のアニメが僕の中で思い出される。

森見登美彦の小説はこれが最初で最後だった。今となっては何が面白かったか思い出せない。そのぐらいだ。記憶というものは曖昧だ。保持と加工はきっと不可分なんだろうなって思う。きちんと手入れをすること。でも手入れの仕方ってのは色々とあるよね。金継?って言うんだっけ?あれも1つの手入れだ。でも、元の形とは異なる訳だ。当初の形そのものは消えて、新しいものがあるのに、何故懐かしめるの?

と思ったことがあったが、しかし、僕等はそれをいつもしているじゃないか。思い違いや勘違い。それも記憶の手入れなのかなって。記憶ってどんどん手入れをしないといつか消えてしまう。物も人も(言い方は失礼だけど)手入れしないと雲散霧消。どこか消えてしまうんだね。でも、手入れの仕方を間違えちゃいけない。そうすると残滓を求める亡霊になる。ただ過去の栄光を彷徨するだけになってしまう。

道化師の朝の歌

それは在るのではないだろうか。何かなのではないだろうか。
誰も表現はしていないが、輪郭は明瞭だと思う。永遠にその位置を保つとは考えられないが、今は光を僅かに反射していると思う。影も落ちていると思う。それは無いはずがなく、何故か何かのようなのだ。
だがもし何かであるなら、たとえ誰にも使用されぬとしても、何でもいいとは思えないと思われる。何か何かであってほしいような気がする。何かではないはずはないのではないだろうか。何かでないとしたら、いったい何でありうるのか。何か以外に何もないではないかではないか。
ちっとも曖昧ではないのだから、やはり何かなのではないだろうかしら。
何かだとしたら何なのだろうかとは問えぬ何か、何でもないと答えることのできぬ何か、何か何ではない何かであっていいと思うのではないか。
貝、縄、眩暈などと言うのはたやすすぎるから、それは何か以外の何ものでもないほど、何かであれ。ごろんと、又はふわふわと。
(正直なところ、世界がそこで始まってくれるといい、或いは—終ってしまってもいいと思うのである)

谷川俊太郎「道化師の朝の歌」『定義』
(思潮社 1975年)P.16,17

「それは在るのではないだろうか」という問いかけ。「そこに愛はあるんか」という大地真央のセリフが頭の中を過る。愛というのは、結局これも「渾然として一」なのだ。僕には分からない。ただ、それを全て器の中で練り込み混ぜ込み…。きっと「愛」という個体は存在しない筈だ。形は無い。無機質な器に陳列された様々な経験の総体と個の感情の交わりである筈だと最近そんなことを思う。

懐と言う名の器。もし、これも物だとするならば手入れを怠ってはならない。「たとえ誰にも使用されぬとしても、何でもいいとは思えないと思われる」のだ。僕は自分の器を育てねばなるまい。ただ自分独りでどうにかなるのか?本か?美術か?芸術か?それのみが深くより深くするのか?どうなんだろう。それでも信奉している僕には頼る術はそこにしかないのだろうか?人。始まりはそこではないのだろうか。だって、「それは無いはずがなく、何故か何かのようなのだ」から。

昔、古代ギリシア。ディオゲネスという哲学者が居た。彼は通称「樽の中の哲人」と呼ばれていた。また、エリック・ホッファーは通称「沖仲士の哲学者」と呼ばれていた。僕もと思って公園ベンチで寝てみた。思惟するということは場を選ばない。自由なものである。しかし自由とは何だろうか?こうして枠の中に納まる僕は籠の中の鳥なのではにだろうか。地球と言う名の箱庭に放り出された1匹の人間。

ここに在るということは主体的に分かる。だがそれがいざ客体となると果たしてどうなのだろうか。人間も生き物である。優位性を持つのは「思考」を持つから?あるいは発展させてきたから?所詮箱庭の住人である。飼われる。飼育されているに過ぎない。大江健三郎の『飼育』が頭の中を過る。でも、結局僕は僕であるということが今、ここで保障されている。誰に?どうして僕は僕でいられようか。

関係性の総体。僕等には「個」と言うのすら怪しいのではないのだろうか。関係づけの中の1つの物として僕はここに「在る」のだ。全てのあらゆる事物がそれ単体で在るということ自体夢のまた夢である。特に今のこの現代に於いては。クローズドな世界が僕等の中ではオープンな世界として定立している。世界は狭い。広いのは広いと感じたいというただの人間の欲望なんだ思う。

言語を知ると世界が突如として開かれる。特に英語という言語がそうだ。しかし、何故「英語」なんだろうか。「日本語」だって良いじゃないか。言語の世界の広さと深さ。知らぬことの幸せ。パースペクティヴの広がり。言語を知る。差異の世界の広がり。元を正せば、全て差異に収斂するのではないか。ソシュール、パース、バルト…。ああ、彼らが眼前に現れて僕を馬鹿にする。盲目は罪か?どうなのだろう。

今、僕は幸せかい?そう自分に問うてみる。でも「幸せって何だろう」って考えてしまう自分が在る。差異の溢れるこの世界でただその甘味部分を抽出した薬物を吸っているんだろう。これもまた「渾然として一」。きっとそうだ。僕は関係性の総体。誰かの幸せは僕の幸せで、誰かの不幸は僕の不幸で、誰かの不幸は僕の幸せで、誰かの幸せは僕の不幸。いやいや。そんなくだらない話、懲り懲りだ。

ああ、二分され続ける世界。そして合間合間に浸かりたい。それはやはり「余裕」であるはずだ。「あそび」に生きたい。僕は毎日それを思う。僕は中間の空間にただ身を任せてゆらりのらりくらりと漂っていたい。実体を持ってしまったが故の苦悩なのかもしれない。でも、そういうことを考えることが幸せで、僕にとっては「愛」なんだなって。僕はこの世界をただ揺蕩っていたい。それだけに過ぎない。

1年≠365日だ。決められた空間に在ること。きっと、僕はここから抜け出したくて仕方がないんだろうって。僕は大きくはなれない。でも、僕の関係性の紐や網目の「あそび」は大切にしたい。きっとそこには様々な時間が流れているはずだ。タイムトラベラー。それも現在を揺蕩う。いっそのこと浮浪者にでも、放浪者にでもなろうか。

それでもいつか終りが来るんだろうと思う。生きとし生けるものが持つ宿命みたいなものだ。僕は遺せるものを遺したい人に遺したい。忘却の彼方に行ってしまうのは僕の身体だけで良い。いつか、誰かに僕のその関係性の網目が包んで巣のように守っていけるその日まで。僕は「愛」を持つために、大きな器を持ちたい。僕は「あそび」の住人になりたい。僕は僕に関わる人々の為に生きたい。

僕には365回では足りない。もっと時間を掛けて育むべき何かがある。そういった所信表明を込め、この記録を記す。

僕に関わるあらゆる全てのもの達へ、精一杯の愛を込めて。

 不動の謎の前に立ちつくす人間の姿に、ぼくは劇的なものを感ずる。人間と人間のあいだに現れる葛藤も、青空を負って生れた一人の人間にその源をもってるんじゃないか。ただ一人で生れ、ただ一人で死ぬと知っているのに、人間は一人では生きることができない。その矛盾も解くことができないな。
 解くことのできぬ謎と、解くことのできぬ矛盾、それが悲劇の本質だとぼくは思う。青空のもとに立つ人間には、言葉がない。言葉はないけれど、その現実ってものはあるんだよ。その人間がたとえ独白であれ言葉を発したら、そこにはもう他者が入ってくる。そこから現実が見え始める。

谷川俊太郎・和田誠「青空」『ナンセンス・カタログ』
(大和書房 1982年)P.79

よしなに。


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