雑感記録(289)
【始まりそうで始まらない瞬間】
朝、目覚まし時計の音で目が覚める。
普段僕は目覚ましを朝の5:30にセットしている。その後目覚ましを止め2度寝。そして朝の7:00に起床している。平日はそんな感じである。しかし、仕事がない日はゆっくり目覚めたいものである。そこで僕は土日は目覚ましが鳴らないように金曜日にセットするのだが、どうやら昨日はそれを怠ってしまったらしい。
それで平日と同じように5:30に1度目覚め、時計を止め、そして7:00に起床した。カーテンを開ける。朝日が眩しい。気持ちの良い朝だなと、しばらく窓の前にパンツ一丁で仁王立ちしていた。テーブルに置いてあるタバコを手に取り、一服する。何だかんだでこの時間が僕は好きなのかもしれない。太陽の力は凄いなと思い知らされる。自然というのはやはりどこに居ても偉大な存在である。
しかし、例え外から僕の部屋が見えなくても、パンツ一丁で窓際に立ち、タバコを蒸かしているだなんて怪しいにも程がある。1本を吸い終え、僕はそそくさと服に着替える。今日は既に行くところを決めていたので、あとは家を出る時間をどうするかだけの話である。だが、場所は逃げない。そこに在るのだから。天変地異が突然起こらない限りは。用意が済んだらすぐに出掛けることにした。
ロケットスタートで1日が始まる。
今日の目的地は浅草寺と東京スカイツリーだ。
いや、厳密にはUNIQLOが目的地である。本当ならば高田馬場のBIGBOX内にある所へ直接行けば良いだけの話なのだが、それでは詰まらない。それにこんなに天気が良いのに散歩をしないなんてもったいない。だからとにかく遠まわりして高田馬場まで行こうと決めた。しかし、高田馬場方面については学生時代からよく通っていたこともあるので、何となくそちら方面は避けたかった。敢えて逆の方向に向かって進んでみようと思った。
それで、ふと「そう言えば、東京タワー周辺はゆっくり散歩したことあるけれども、東京スカイツリー周辺はゆっくり散歩したこと無いな」と思った。また、墨田区方面は東京の下町感が残っていると聞いていたので、どういう場所なのかなと思った。それで今日のルートは決まった。行程を示すと、まず電車で浅草駅で降りて浅草寺を見る。その後歩いて東京スカイツリー周辺、隅田川周辺を散歩、そしてそのまま歩いて高田馬場まで向かうことにした。
僕は散歩をする時には必ず音楽を聞く。
以前の記録で「PVごっこ」の話をしたり、直近の記録で言えば風の『22才の別れ』を聞きながら神田川沿いを散歩するのが好きであるということを書いた。僕にとって散歩をする時の音楽というのは本と同様に重要な散歩アイテムの1つである。
だが、今日は暑いことが予想され、ヘッドホンを付けながらの散歩は厳しいのではないかと思った。それでヘッドホンではなく、イヤーカフタイプのイヤホンを装着して行くことに決めた。しかし、やはり人間というのは贅沢を知ってしまうと良くない。どうもそのイヤーカフタイプの音質が良くなく、音漏れが尋常ではない。これはよろしくないなと、出発寸前に悩み始めてしまった。暑さを取るか、音質を取るか…。
しかし、僕はこういう時にわりと極端な方に走ってしまう。「じゃあ、いっそのこと音楽聞かずに散歩しよう」と決めた。
些か唐突ではあるが、ここ最近の僕の問題意識というか、考えていることが2つある。1つはここ数日に渡って何度も何度も書いている「あそび」の問題。そしてもう1つが「積極的に手放すこと」である。これについては先日の記録で「小説を積極的に読むことを辞めた」ということに関係してくる。
何か自分の中で固執している物事について1度距離を置くということは、それを別の観点から改めて見ることが出来る。大概、それに回帰してしまうものだが、一旦距離を置くと今まで「当たり前」としてあったことについてより省察することが出来る……と僕は信じている。というよりも、信じたいのである。
そういう期待も込めて、玄関にイヤホンを置き自宅を後にする。
最寄駅から日本橋で降り、都営浅草線への乗換えで5駅。
音楽がないと少し不安だ。だが、思いのほか静かだなと思った。東京はどうも騒がしいとは思っていたけれども、自分が想像していたよりも騒がしくはなかった。しかし、今日は休日で人の乗り降りも少ないうえに、新宿や渋谷といった人が前提として沢山いる所ではないのだから、そこから比すれば全く以て騒がしくはない訳だ。
電車の中で読書をする。今日は3冊程見繕った。鈴木大拙『東洋的な見方』、東浩紀『動物化するポストモダン』、大澤真幸『近代日本思想の肖像』である。とりあえず僕は鈴木大拙を読み始めたのだが、面白い。だが難しい部分が多い。やっぱり読書はこうでなくてはと僕のマゾヒスト精神が湧きたって来る。些か気持ちの悪い物言いではあるのだが。
電車の中では走る音が聞こえる。いつぶりにゴウゴウと音を鳴らす電車に乗ったのだろうか。毎日毎日、通勤時には音楽を聞いているからあまり意識したことは無かった。こんなに音がするんだなと思い、それをBGMにしながら読書を進める。これはこれで良いものだなと思った。
それで無事に浅草駅まで着いた訳だが、ホームに着いて驚く。「ここは外国なのか?」と思うくらいにキャリーケースを持った外国人しかいない。これは喜ぶべきか、はたまた憂うべきなのか。僕にはよく分からない。それにしても邪魔である。別に居ること自体は構わないのだが、そこに止まるのは辞めてくれという感じであった。
1番驚いたのは、地上行きの階段の途中でどこの人たちだか知らないが、階段に座って何か食べていた。思わず僕は「どこ座ってんだよ」と独り言を言ってしまった。人間、本心がポロリと出てしまう時というのは自分自身でも驚くものである。それにしても邪魔だった。
浅草寺、つまりは雷門の前に着いた。そして一瞥して後にした。
というのも簡単な話で、まだ朝の9:00前だというのに山のように人が居る。しかも外国人だらけである。別に人が居ることはどうでもいい。そんなことは最初から分かりきっていたことだ。だが、先にも書いたようにここは日本ではなくて外国だった。何だかそれが僕には耐えられなかった。「ああ、ここが雷門ね」で終わった。
さて、スカイツリーに向かって歩いて行こう。
僕の散歩ルールではスマホの地図は使用しない。道にある標識や避難地図を頼りに歩いて行く。こういう時僕はワクワクしてしまう。これから僕はどう目的地に向かっても良いのだ。誰にも怒られはしない。「東京スカイツリーに行くには…」と地図を見るのだが、いや待て待て。ここからもスカイツリーが見えるということは、当たり前のことだがその見えている方向に向かって歩けば良いだけの話である。
僕はスカイツリーまで地図を使わず歩いた。
それにしても良い天気だ。陽ざしが眩しい。歩くと本当に昔ながらの家屋がビル群の間を縫うようにして建っているのが分かる。それに思っているよりも車の通行もない。観光スポット付近であるというのに不思議だなと思ったが、しかしそんなのは至極単純な話である。それは高速道路が走っているからである。観光スポット近くで高速を降りて、ちょこっと下道を通るのだから、下道を通る車は少ないのはある意味で当然かもしれない。
隅田川を渡る。今まで川というとまず以て真っ先に思い浮かぶのは笛吹川である。地元にある川であり、深沢七郎の小説の舞台でもある。あの川は何と言うか、整備されているようで整備されていない。詰まるところ、対比で表現するならば自然ママ7:人間加工3ぐらいな感じで、川には木が生い繁っている。ところが、隅田川はそうではなかった。
見渡せども見渡せども、きちっと真っすぐ整備された川である。人間の凄さというか、技術力の高さを感じる訳だけれども何だか寂しさも感じる。川を見下ろしているのはビルだ。高速道路だ。川は整備されているから側を歩けるようになっている。川を近くに感じることが出来るのは面白いことだとは思うが、やはりどうも慣れない。
橋から緑色の濁る隅田川を眺めながら歩いた。
橋を渡ってしばらく歩くともうすぐ側にスカイツリーだ。だが感動はない。「ああ、でっけえな」とそれ以外の感情が出なかった。そして「何で人間というのはとかく高い建物を建てたがるのだろう」と疑問に感じた。しばしば東京では地価が高いから上に伸ばさざるを得なかったと聞く。確かにそうなんだろうと思う。だが、外国とかも同じなのかなと思ってみたりもする。「建物の高さ」というのはある意味で権力誇示の一種なのではないかと勘繰ってしまう。東京スカイツリーの場合は一応「電波塔」という大義名分がある。しかし、他の高層ビルはどうだろうか。
例えば東京駅に乱立するビル群。あれには何かしらの大義名分みたいなものがあるのだろうか。ただ「地価が高いから高くしている」というだけでは説明のつかない部分もあるのではないだろうか。高さというのはやはり権力の象徴なんだなということを考えてしまう。僕等のイメージとして都会=高層ビル群が並ぶという印象がある。確かに東京は日本の中心ではある訳で、外国の都市群、例えばニューヨークなんかがいい例だろう。
高さと権力というのは関係が深いのだろう。映画でも王様が出て来る映画なんかは、基本的に王様が上に座り、平民などは下に居る訳で、その高低差によって権力を示すという構図は昔からずっとあるんだなと改めて考えさせられる。
スカイツリー側まで来て、こちらも素通りした。
よし、高田馬場まで歩くぞと気合を入れ歩く。
だが、歩けども歩けども近づいている気がしない。というよりも、地図を見ると聞いたことも無いような地名ばかりで不安になる。だが、僕はスマホの地図を使えない。とにかく歩くしかない。ただ僕は黙々と歩き続ける。
そして、1時間程だったろうか。道路標識にやっと知っている地名が現れる。「三ノ輪」だ。僕は都電荒川線を時たま利用するので、終点が「三ノ輪橋駅」であるということは知っていた。とりあえずここに向かって歩いて仕切り直そうと思った。加えて、このうだるような暑さの中で高田馬場まで歩ける自信が無くなっていたので、三ノ輪橋駅から都電で面影橋駅で降りて高田馬場まで歩こうと決めた。
だが、その地名が見えてからが物凄い長い時間だった。
歩いても歩いても「三ノ輪」という文字は至る所に散見されるのに、全然近づかない。だが、同時に愉しさもある。自分が知らない場所を見て回るのはやはり愉しいかもしれない。というよりも、本当にその街のことを知りたければ、その街を代表するスポットよりもこういう日常生活溢れる場所をただ何となく歩く方が良いのかもしれないと思ってみる。
しかし…暑い。暑すぎる…。
歩いていると再び僕は隅田川の橋を渡ることになる。「あれ?」と僕は思った。そう、そうなのだ。僕は滅茶苦茶に遠まわりをしていたことがその橋を渡って初めて気が付く。スカイツリーからそのまま来た道を引き返せば簡単に歩けたものを僕は余計に大回りして歩いてしまったのである。だが、不思議と僕はそれが嬉しかった。「そうか、僕は遠まわりできたんだな」と。
最近の読書の傾向としてもそうだけれども、皆が答えを早急に求めすぎているような、そんな印象を受ける。近道、効率化、タイパ、コスパ…。これは今の社会が要請しているものである。僕は個人的にだけれども、その遠まわりこそが逆に今必要なのではないかと思うのだ。特にこういう自分のみで完結できる行為について。楽をしたい。その気持ちは物凄く分かる。僕も楽してお金を稼ぎたいし、毎日何のしがらみもなく楽して生活したい。それを日々求めているからこそ、遠まわりすることが肝心なのではないかと思われて仕方がない。
とにかく、僕は滅茶苦茶な遠まわりをして無事に三ノ輪橋駅に着くことが出来、都電で面影橋に向かう。
面影橋駅から歩き高田馬場へ行き買い物を済ませる。
こう天気が良いとお昼からお酒が飲みたくなってしまう。僕はコンビニに立ち寄りビールを1缶購入し、お酒片手に自宅へ戻る。高田馬場は先程とは打って変わって有象無象だらけである。人が多く、ビル群とアパートやらが並ぶ。何だかこの差が凄く面白いなと思いながら歩く。
お酒を飲むとタバコが吸いたくなって仕方がない。
そこで僕は母校の大学の喫煙所によってタバコを吸うことにした。ここの喫煙所も色々と想い出がある訳だが、今日は省くことにしよう。図書館の真横にあり、あまり人が居ない。これが良いところで、ゆったりと吸うことが出来るのである。これが堪らなく良いのだ。木漏れ日が眩しい。
タバコを吸っていると、1人、物凄く可愛らしい外国の女性が僕の隣に来た。僕は不思議に思った。かなりスペースがあるのにも関わらず、わざわざ僕の隣に来てタバコを吸うなんて。その女性は鞄をゴソゴソいじっていた。あまりジロジロ見るのもご時世的に良くないなと思い、眼を逸らしながら音で何をしているか判断してみようと思い、目を閉じ音に集中する。
結論から言うと、どうやら紙巻タバコを自身で巻いていたらしい。別にこれが珍しいという訳ではない。僕も知り合いに自分でタバコを巻いて吸っている人は何人かいる訳だ。「そうか、この女性は今ここで巻いているんだ」と。すると、いきなり肩をポンポンと叩かれた。思わずビックリして、ビクッとなってしまった。
彼女はカタコトな日本語で「スミマセン、ヒヲカシテ…」と言うのだ。僕は思わずビックリしてしまったが、なるほどわざわざ僕の隣に来た意味がここでようやく分かった。それで僕は「あ、いいですよ」と言ってライターをそのまま貸そうと思ったが、せっかく慣れない日本語で話しかけてくれたのだ。僕はそのまま彼女が咥えていたタバコに直接火を付けてあげた。
これは僕のどうも良くない所なのだが、美しい女性を見るとどうもまごついてしまう。ドギマギしてしまって、つっけんどんな態度で接してしまう。緊張してしまって、斜に構えてしまう。これは小さい頃から変わっていないなとも思う。だが、こうして書いているが、もっと単純化して言うならば「カッコつけてしまう」というそれだけのことである。僕は「ああ、またやってしまった」と思いながら2本目のタバコを吸う。
僕が吸い終わって行こうと思った時、彼女はもう1本吸おうとしていたのか、再びタバコを巻き始めていた。しかし、今ここには僕と彼女しかいない訳で、僕が去ってしまったら彼女はタバコが吸えないと思った。タバコを吸う身としては、吸いたいときに吸えないことが何より辛い。特に吸うことが許されている場所で吸えないという状況はたまったものではない。
僕は自身の持っていたライターを彼女に渡した。「これ、使って」と。彼女はこれまたカタコトな日本語で「イイ、イイ」と連呼するが、その手には巻きたてのタバコを1本持っていた。だから僕は彼女の手にライターを握らせた。そしたら「アリガトー」とこれまたカタコトな日本語でお礼を言われたが、僕はこれまたぶっきらぼうに「いえいえ」と言ってその場を去った。
その後、歩きながら色々と考えてしまった。
もしかしたら、彼女はライターを本当は持っていたけど、巻くことに集中してライターを出すのが面倒くさくて僕に火を貸してくれと言ったのではなかったのではないか。わりと「イイ、イイ」の感じが語気が強かったのでもしかしたらそうなのかも…と勘繰ってしまった。そう考えると僕は全く以て余計なお世話をした人間である。恥ずかしい。
それに滅茶苦茶つっけんどんな態度を取ってしまって、それも何だか恥ずかしかった。恥ずかしさというのは言葉の事後性と似ていて、後から効いてくる。それに僕は余計なお世話をしてしまった訳で…。と頭の中がぐちゃぐちゃになったまま歩き続ける。
だが、心のどこかで、何かが始まる瞬間だったんじゃないかと後悔もしていた。僕がそこでもっとスマートに対応できていたら、何かが始まっていたのではないかという期待を恐れ多くも抱いてしまった訳だ。しかし、そんなことを終わってからしばらくして思ったところで遅い。彼女とはこれっきりなのだから。人と人の出会いは一期一会である。もう少し大事にすれば良かったなと思い、僕は僕の手で何かが始まる瞬間を、始まらないものへとしてしまったのである。
人と人の出会いは大切にしよう。
そう心に誓いながら暑い日差しの中歩いた。
そんな1日。
よしなに。
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