雑感記録(370)
【文学フリマ探訪日記】
東京ビッグサイトにて文学フリマ東京39が開催された。
文学フリマ前日、僕は休日出勤をした。銀行員時代なんかはもはや「休日出勤」などという言葉が形骸化する程どこかで常習的なものとなっていて、あまり意識したことなど無かったのだけれども、新しい(と言っても入社して1年は立つ訳で)会社では殆どそういう事が無いので新鮮である。それに「何かに追われている」という抑圧みたいなものが一切なく、大変であることに変わりはないのだが、心のどこかで休日出勤を愉しんでいる節があったように思う。
殆どの人が居ないオフィスの中で黙々と仕事をする。これはこれで集中できるから良いのだが、如何せん僕は話したがり屋だから困る。一緒に出社していた上司に色々と話しかけた。これと言って実のある話をしたかと言われるとそんなことは決してない。そもそも、誰かと話す時に「常に実のある会話」なんてしていたら精神が持たない。他愛の無い話が出来る環境というのは大切にした方が良い。自身の心の拠り所になるからだ。
その中で僕は「明日、○○さんと△△さんと文学フリマに行ってくるんですよ」と言った。この○○さんと△△さんは僕の会社の先輩であり、僕の上司の同僚(?)のようなものである。すると上司は僕に向かって「え、明日も休日出勤みたいな感じなの?」と聞かれた。確かにうちの会社はプライベートでの個々人との関りというのが殆どない。せいぜいあっても仕事終わりに飲みに行くか食事に行くぐらいなものである。だから上司も驚かれたのだろうし、僕が休日は1人で過ごしていることは知っているから尚のこと驚かれたのだろうと思う。
「ええ、まあ、そんなとこです。でも僕は完全な趣味で行きますけどね。だから休日出勤だなんて感覚は無いですよ~。」と自分でも訳の分からぬ、不要なフォロー的文言を最後に付け加えてしまった。余計な一言というものは厄介である。自分が意識しているしていないに関わらず、どうもペラペラと口から零れてしまう。きっとこういう事が様々な不和に繋がって行ってしまうのだろうかなと自分を少し顧みる。誰かの言葉か忘れたが、「魂は細部に宿る」らしい。
ところで、どうして文学フリマに行くことになったか少しばかし語っておく必要が(自分にとって)ある。
実は2018年の群馬は前橋で開かれた文学フリマに大学3年生当時、出展した過去を僕は持っている。だからと言って何かがある訳でもなく、ただ「出た」というだけの話で別に大した話ではない。だが、あの時に友達と集まって皆で何かを創作するということに面白さを見出したのはあれが初めてだったと思う。僕はそこで詩を何篇か書かせてもらったのだが、僕にとってあれがこうして今ではnoteという媒体へと変化したのである。そう考えると、あの時の「何かを創作する」というのはこうして僕がnoteを書き続けられる1つの原点なのではないかとさえ思えてくる。
ちなみに、一緒に創作した友人たちは彼らである。
それからすぐに本格的に就活や卒論に追われ忙しくなり、結局創作から僕は離れてしまった。そこからはもう読む専、見る専みたいな形で只管に読み続けて、それが溜まりに溜まってnoteを始めた訳だ。彼是noteを付け始めて2年?3年?ぐらい経過する訳だが、自分でもよくもまあこんなに続けられるもんだなと感心してしまう。我ながら凄いというのは正しくこのことである。
さて、そういった何かを創作すること(noteは創作というよりも僕の頭の中整理が主なものだから別に創作とまで偉そうなことを言えたものではない)から離れてから数年。久々に「文学フリマ」という言葉を聞いたのである。しかし、それはあくまで友人から「おい!文学フリマがあるぞ!出してみないか?」というある種の戸惑いと期待と興奮と…そういったものを纏ったものでは決してなく、どこかで割り切られたような、熱情が冷めきったものだった。
「うちの会社も出店出来る可能性はあるのだろうか。」
確かに出店出来ればそれはそれで顧客の獲得には繋がるだろうし、僕としても会社の商品のガチの1ファンとしては広まると良いなと思うし、使って欲しいと思う。だが、その反面で、そもそも「文学フリマ」というものが出版業界を中心とした企業が出ないことに意義があるのではないかとも思う。ああいう個人でやっている人から原石を探すというのが企業の役目であるような、ないような…。冷静に考えて、もともとネームバリューがある企業が出展したらそら注目が集まるに決まってるし、売上なんかも馬鹿にならないだろう。でも、うちの商品を届けたいなとも思うし…。
僕は悩ましい立場にいる。所謂「宙吊り状態」である。
そういう訳で、「市場調査」という形で僕は人生で2度目の、およそ6年ぶりの文学フリマへ一般来場者として向かうことになったのである。
会場へ着くと既に多くの人が並んでおり、長蛇の列であった。開場するのが12時ということもあり11時半に集合し余裕を持って行ったのだが、それでも長く続く列には驚きを隠せないものである。僕は元来、人混みが嫌いである(というか、誰しも人混みは嫌いなのかもしれないな)。あまりこういうイベントごとは正直避けたい人間ではあるのだが、今日はそれなりに大義名分がある訳だ。敵前逃亡は許されない。
それに、欲しい本も目星はあらかじめ付けていたのでその本を買いに行くという目的もあった。何だか僕は仕事なんだか趣味なんだか分からない感情であった。ただ、不思議なもので「仕事」で「趣味」のことが出来るのは嬉しいのに、「趣味」が「仕事」になるとちょっとした‟しこり”みたいなものが発生するのは何なのだろうか。一時期、「好きなことを仕事に」みたいな形でYouTuberが取沙汰され、それが今では逆だ。「好きなことを仕事にするとしんどい」という触れ込みをするじゃないか。
そんなことはさておき、列に並びながら開場するのを待つ。
思いの外、列は順調に前に進んで行く。こういう時、案外嬉しくなるものなんだなと感じた。そもそも出不精である僕がこういう長蛇の列に並ぶこと自体が珍しい(と自分で言うのは些か恥ずかしいが…)訳である。と書いてみたが、そう言えばサンリオピューロランドに行ってきた時には朝から長蛇の列に並んで荷物検査を受けたことを思い出した。しかし、精神的にどちらが来るかと言われると、やはりサンリオピューロランドの方が断然精神力を削られた。
前に進みいよいよ会場に入る。やはり東京ビッグサイトは広い。その会場に所狭しと並ぶ個々のブース。圧巻である。僕等が出店したころを本当に狭い会場に少ない人数で参加していた記憶がある。何だかそれとは打って変わってあまりにも規模が違い過ぎる。これは東京かそれ以外で開催されることによる違いから来るものなのか、あるいは時代性の問題か。2018年と2024年の違いか。あるいはそのどちらも含めたものか。いずれにしろ、僕が知るところの文学フリマでは無かった。
まずは、少し皆でプラプラ歩くことにした。気になったブースに寄っていくというスタイルを取った。まず僕は思潮社のブースに立ち止まる。何故なら詩集が売っていたからだ。しかも谷川俊太郎の。谷川俊太郎についてはこの間書いたので、それはそれで読んでもらうとして。とにかく、こんな所で買えるとは思ってもみなかったのですぐさま購入した。
そこで貰ったしおりというか、これは…何だろうな。ま、しおりか。これが個人的に物凄く良かった。というよりも、あまりにも偶然というか。恐らくだが歴代の『現代詩手帖』の表紙を印字し、その裏に誰かの詩を掲載するというものなのだろうが、そこに書かれていたのが何と帷子耀だったのである。これには驚いたし、感動したものだ。
帷子耀についてはかつて僕の記録でちょろっと出てきている。あまり詳細には書いていないはずだ。懐かしい名前を見たなと思って僕は嬉しくなった。家に帰った後に久々に『帷子耀集成』を本棚から引っ張り出し読みだした。同じ高校に年代は全く以て離れているが、こういう先輩が居たというのは何だか個人的には嬉しいものである。あまり知られていないというのが残念な所ではある。
帷子耀についてはまた時間がある時にでもnoteに記録を付けよう。
いずれにしろ、まず思潮社のブースで詩集を1冊買った。しかし、よくよく考えれば、この詩集は「文学フリマ」でのみ買えるのか?というとそういう訳でもない。たまたま僕の眼に止まって、たまたまそこに在ったから購入したのであって、「何が何でもこれが」という訳ではない。つまり言ってしまえば、これってズルいなと思った。その反面で商売上手いなと思わされる自分も居て胸中は複雑であった。
そこから歩いて見て回っていると、なんと!なんと!法政大学出版局が出店していたのである!これには思わず興奮してしまったものである。
些か話は脱線するが、ここで少し法政大学出版局、叢書・ウニベルシタスについて語りたい。叢書・ウニベルシタスは本好きな人間、とりわけ社会学や哲学などに興味関心のある人間ならば避けては通れない作品群である。恐らく1度は必ず通るであろう大きな存在である。僕は何度救われてきたか分からない人間である。哲学を志すものは必ず通ると僕は信じて疑わない。
僕と法政大学出版局、叢書・ウニベルシタスの出会いは言ってしまえば必然だった。僕は大学生の頃から日本文学を専攻していたにも関わらず、哲学に現を抜かし、様々な著作を読んでいた時のことだ。図書館に行けば『○○全集』という名のものが数多く並びそこから読みたい作品をピックアップしていきながら読む訳だが、全集が2冊に渡っての著作もある訳だ。僕はいつもこれが1冊だったらいいのになと思うことが多かった。
それが偶然にも叢書・ウニベルシタスでは1冊で読めるではないか!しかも、今これが読みたいというタイミングで必然的に現れるのはいつも叢書・ウニベルシタスであった。特にデリダなどは本当に助かった。更に、ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』が読めたのは本当に有難かった。過去に僕はニーチェとシミュラークルの関係性についてあれこれ考えていた時に本当にお世話になった本である。何故か自宅に同じものが3冊ある。
これも話が些か脱線するが、僕は毎日神保町に居る訳だが、よく行く澤口書店には沢山の叢書・ウニベルシタスが並んでいる。僕はあの空間が好きで、あそこに居るだけで何故か頭が良くなるような気がしている(と言うと何だか語弊があるような気がする。が、叢書・ウニベルシタスにはそういう力がきっとあるのだ!)。あそこはタイトルを見ているだけでも飽きない何かがある。僕はそのぐらい好きである作品群である。
一緒に行った先輩も法政大学出版局、叢書・ウニベルシタスのファンであり、「ウニベルシタスTシャツがあれば買うよね」というぐらいに意気投合する程のファンである。僕と先輩はウキウキ気分でブースに行き、そして気分は最高潮だった(文学フリマはこれで大満足と思えるぐらいに個人的には愉しい空間だった)。
そもそも、法政大学出版局、叢書・ウニベルシタスを作成している方々の顔というか、そういったものが無いので凄く新鮮だった。ある意味で僕と先輩の中では、言ってしまえば「神秘」そのものであった訳だ。それから出店されている方と軽くお話をしていた時、凸版があった。そう!これが!また!思わず2人で興奮してしまった。話を聞くところによれば、今までは凸版を利用して印刷していたらしいのだが、デジタル化に合わせて凸版が不要になったとのことで販売することにしたらしい。
僕はそのラインアップを見て興奮冷めやらぬという感じであった。僕はそこでトドロフとドゥルーズの作品の凸版を購入した。先輩と2人で興奮しながら購入した。自宅に帰って凸版を見て、「おお!これこれ!」と興奮しながら開封した。文学フリマである意味でこういうレア度の高いものを売るというのも面白いなと思いつつ、やはりそういう部分で大手の企業は上手だなと思う。これが一般の参加者、つまりは出版もしたことない、言い方は物凄く失礼で申し訳なくなるが所謂「素人」には出来ない芸当であるからだ。
だが、僕としては物凄く嬉しかったのである。
法政大学出版局を後にして、様々にブースを歩いた。
それぞれ見たいものに着いて行く感じだった。僕はお目当てのものが書肆侃侃房から出される町屋良平の本だった。取り急ぎこれを購入すればもう僕は満足であった。これを購入して僕は満足した。そこから会社関係でお世話になった人が出店しているので挨拶も兼ねて本を購入し、その後解散となった。僕は大学の友人が文学フリマに来ているとのことだったので、解散後連絡を取り一緒に周ることにした。
合流するまでの間、のんびり歩いて見て回ったのだが、中々面白いものが多いなと思った。個人的にタイトルで惹かれたのは『フリースタイルな僧侶たち』という雑誌である。フリーペーパーがあるとのことで僕は貰ったのだが、中身を開いてみると凄く面白かった。仏教に興味関心があまりない僕でも最初のページで心を惹かれた。自宅に帰ってから読み込んでいる作品の1つである。
色々なスタイルの様々な本が並んで面白いなと思う反面、やはり企業で出店している所に殆どの人が集中し、個人でやっている所は「閑散としている」というとかなり語弊があり、出店者の方に大変失礼がある訳だが、賑わっている感じでは無かったりする。こういう時に何だか僕は6年前の文学フリマを思い出す。確かあの時は20部刷って、売れたのは4冊だった。しかも、その会場で仲良くなった(というか見知った)人が購入してくれたもので、嬉しいけど何だか複雑な気分だったことを思い出す。
それが東京という大きな都市で開催となると顕著になる。そんなことを友人の待つ場所へ向かいながら感じてしまう。だから、僕は何だか歯がゆい気持ちでというか、少しのうしろめたさを持ちながら歩いていた。人混みにやられるのは勿論のことながら、そういう今自分がここに居る理由から来るある種の傲慢さに圧し潰されそうになる。愉しんでいることには愉しんでいるが、僕の60%で愉しんでいる感じだ。「仕事」と「趣味(ライフワーク)」を分けるのは肝心であるとヒシヒシと感じる。
友人と合流し、とりあえず行きたいところを巡る。
開場で配られるパンフレットをサーっと見ていると「おや、佐々木敦って…あるじゃない!?」と半信半疑の視線をその文字面に向けるのだが、だからと言ってそれがどうにかなる訳でもない。とりあえず友人と一緒に向かった。遠目から見て「あ、授業の人だ!」という感じで何だかそれも違和感があった。雲の上の人が下界に居るぞ!という感覚が僕には拭い去ることが出来なかった。
僕は佐々木敦の『新しい小説のために』と『批評王』がめちゃくちゃ好きである。特に前者はYouTubeでの対談(誰との対談であるかというのは敢えて伏せておく)が掲載されていてその印象が強い。後者に関しては社会人になって東京に出て間もない頃に池袋のジュンク堂で見繕ってからというもの、何遍も読み返している本である。あれは本当に面白い。ユーモアのある文章が書けることは本当に羨ましいと思う。
それでブースに向かい購入して少し話をすることが出来た。「何で来たの?」と言われたので僕は正直に「いや、会社として今度出店するかどうかの…市場調査みたいな感じです。」と言ったら「ほらっ!出たよ出たよ」と仰った。その反応に対して僕自身も凄く分かる(と言ったら物凄く烏滸がましいことこの上ないんだけれども…)なあと思った。僕も企業として出店することに懐疑的な人間で、だけれども会社としては出したいなとも思うし。「仕事」と「趣味」で板挟みである。
それから人が後ろに並んでいるのを見て退散した。何だか僕は今のこの気持ちでここに居るのは場違いなんだよなと思いつつ、それでもしがみつきたいという厭らしさを兼ね備えたハイブリッドになっていた。2つの間で行き来するまでには程遠く、でもこの気持ちにこそ何かがあるのではないかと僕は考える。しかし、それもこの人の波にさらわれて雲散霧消した。
それから一旦会場を出て、お昼休憩を挟み、再び会場に入る。
14:00から16:00の間でどうやら町田良平が来てサイン会をするらしいとのことだった。僕は正直、町田良平の作品に触れたことが無くて、なんならこの日に購入した本が「あ、初めまして」な訳だ。だからサインを貰うこと自体が何だかこれまた申し訳なさがある。町屋良平に対して。だが、あの人混みの中でそれを避ける勇気が僕には無かった。「いや、僕は大丈夫です」と言える余力が僕には無かった。
友人の後ろに並び、皆色々な話をしている。こういうのがサイン会とかの醍醐味なんだよなと思いつつ、僕は何も話すことが無いじゃないかと、話すことが何もないことについて考えを巡らせた。しかし、早々に順番が来る。「今日はありがとうございます」と言ってくれる町屋良平に対して「申し訳ないな…」と思いながらサインを貰う。名前は…となったので、僕は咄嗟に名刺を出した。「これでお願いします」とぶっきらぼうにお願いしてしまった。
サインを貰えたは良いが、しかし僕は何も出来ていないじゃないかと思い、咄嗟に「この名刺と本を交換で」と何をとち狂ったか知らぬが、自分の名刺を渡した。後々、今こうして書きながら赤面している。どうしてこうも恥ずかしいことやら悔しいことやらと言うのは遅延してやって来るのだろうか。その瞬間は麻酔が掛かってるけれども、麻酔が切れると大きな痛みとして自覚される。突っぱねられるかなとも思ったが、凄く良い人で「じゃあ、これと交換で」と仰った。
だが、よくよく考えれば名刺なんか貰ったところでいい迷惑でしかない。僕は先に「自分の趣味で行くんです」と前日に上司に言い放った言葉が思い出される。名刺というのはそもそも「仕事」の中に組み込まれる慣習みたいなものである。名刺を渡すということは、暗に「僕は仕事で来ているんです」ということを示していることになる。しかも、それを作家に渡すなどとあるまじき…と今更ながらに猛省している。
その後、友人の彼女さんが気になるところを一緒に周って、会場を後にした。
その後、電車に揺られて帰った。
電車の中で早速読もうと思って袋の中から本を取り出した。しかし、気が付くと僕は寝てしまっていた。降りる駅を乗り過ごし、幸運にもその1つ先の駅で降りることが出来た。僕はその駅で降り、歩いて自宅に向かうことにした。陽が落ちるのが早くなり、歩くごとにどんどん気温が下がっているような感じがする。神田川沿いに咲く桜は見事に紅葉し、綺麗な姿を川に映し出していた。
何だか疲れたなと思いながら歩き始める。
そんなことは関係なく、僕の外界では小さな子どもたちが駆け巡り、40代ぐらいと思しきランナーが僕の横をすり抜ける。一瞬香る加齢臭的な汗の匂い。後ろから聞こえてくる異国の言葉。何を言っているかサッパリ分からない。前からは老人が杖を突きながらこちらへ向かってくる。腰が曲がっていると大変である。90代の祖母の姿を思い出す。生きているんだなと何だか訳も分からず感傷的になる。気持ち悪い、おセンチである。
複雑な感情を抱えたまま、今日この記録を書くまで過ごしている。書けば自分の中でどうにかなるかという一縷の望みに託してみたが、どうもモヤモヤが増えるばかりである。何だか心なしか体調も優れないような気がしている。「病は気から」という。果たして本当なのだろうか。
よく分からぬ感情のままこの記録を締める。
例え綺麗な終りでなくても、「終り」と思ったらそれでおしまい。それでいいじゃない。そのぐらい楽に生きたいと思う今日この頃。
よしなに。