見出し画像

雑感記録(148)

【古本巡りはスポーツだ!】


昨日、大学の友人と古本祭りに行ってきた。九段下あたりから神田方面に所狭しと並んだ書棚。数多くの人々の群れの中を掻き分け掻き分け、そして書棚をまさぐっていく。しかし、休日ということもあり人が多すぎる。本を手に取ろうにも中々届かない。古本巡りはある種のスポーツである。

10月29日戦利品

僕の記録を見ていらっしゃる稀有な方は分かるだろうが、ここ数日僕はあまりにも本を購入しすぎている。これは紛れもない事実である。読んでいる途中の本が沢山あるにも関わらず、それでも読みたい本がありすぎて購入せずにはいられないのである。本好きの人は分かる感覚であると信じたいところだが、読みたい本がありすぎる!

先日購入した本と昨日購入した本を読み進めているのだが、やはり様々な発見があって面白い。昨日は後藤明生をメインに据えて購入しまくった。僕は元々、後藤明生の作品が好きで予てより読んでいるのだが、もっと読みたいという欲に勝てず大量に購入してしまった。

少しここで文学的な話をしておくと、後藤明生は所謂「内向の世代」と呼ばれる作家群の中の1人である。その「内向の世代」の代表作家というと古井由吉であったり、小川国夫、黒井千次、阿部昭などなど居る訳だ。僕はあまり「内向の世代」をしっかり読んできた訳ではないが、古井由吉と後藤明生は好きである。小説の面白さは勿論だが、この2人の作家は小説が言葉から始まるというところが非常に面白い。

 夢かたりといっても夢を書こうというのではない。漱石の「夢十夜」は「こんな夢を見た」ではじまる。そしてなんの説明もなく、見た夢がはっきり書いてある。そこが面白いが、それにしてもまことにはっきりした夢ばかりだ。人物も、人物たちが話す言葉も、実にはっきりしている。男も女もはっきりしている。パナマをかぶった伊達男の庄太郎が女からさんざんな目に会わされるのは、第十夜だった。崖から谷底へととび降りるか、さもなければ豚に顔を舐められるか。二つに一つだと女はいう。意地の悪い女は、もう一人出て来る。夜明け前に鶏の啼き真似をして恋の邪魔をする、第五夜の「天探女」である。

後藤明生「夢かたり」『夢かたり』(中央公論社 1976年)
P.7より引用

 この夜、凶なきか。日の暮れに鳥の叫ぶ、数声殷きあり。深更に魘さるるか。あやふきことあるか。
 独り言がほのかにも韻文がかった日には、それこそ用心したほうがよい。降り降った世でも、あれは呪や縛やの方面を含むものらしい。相手は尋常の者と限らぬとか。そんな物にあずかる了見もない徒だろうと、仮りにも呪文めいたものを口に唱えれば、応答はなくても、身が身から離れる。人は言葉から漸次、狂うおそれはある。

古井由吉「眉雨」『古井由吉自選短編集 木犀の日』
(講談社文芸文庫 1998年)P.113より引用

両者それぞれ形態は異なるが、言葉が言葉を生んでいくという印象が分かる。後藤明生の場合は夏目漱石の『夢十夜』の「こんな夢を見た」という言葉から徐々に手繰り寄せながら話が展開していく。また古井由吉の場合は説明するまでも無いだろうが、独り言という言葉の連なりから物語が展開していく。これはどちらにも共通している。

ちなみに、この両者の引用は作品の冒頭部である。ここも僕は個人的に面白い部分であると思う。小説の始まりでしばしば誰かの作品を引用して、そこから物語がスタートすることがある。しかし、そういう場合というのは結局最初に引用された言葉を読み進めるうちに忘れてしまうことが多い。加えて、何か作品自体がその引用と関わらざるを得ないように我々読者に方向づけするのである。

ところが、この両者の始まりは他人の言葉から始まるとは言えども、何というかそういった"嫌らしさ"がない。無論、最初に他人の言葉を引用してから始めることにはそれなりの意味があってのことである。それを蔑ろにしていけないことは重々承知しているが、どこか作家の傲慢さを感じざるを言えなくて僕は好きではなかった。しかし、この両者にはそういった"嫌らしさ"が微塵もない。というより、余りにも自然に作品に馴染む。いや、他人の言葉でさえも自分の言葉にしてしまうという技術がそこにはあるように思われて仕方がない。

他人の言葉から始まる小説は僕は個人的に好きである。それは何かしらの作品からの影響であったりするのは誰しも必然なことである。我々は生活している以上、言葉に触れないということは不可能である。つまりは僕等は何某か誰かの言葉に影響されている。常に自分以外の言語に晒されながら生きている。ということは、他人の言葉に影響されるという現象は至極当たり前のことである。

皆さんも経験あるのではないだろうか。誰かに何かを言われて気分が落ちたとか、励みになったとか。そういった経験がない方がむしろ怖いぐらいなのだが…。その人の性格がどうだとかは全く以て関係なく、無意識のうちにでも誰かしらの言葉に影響される。それが多分だけれども「生きる」ということなのだと思う。

つまり、2人の作品を読んでいると「生きる」ということを感じる。今ここで2人の小説を読むと生きていることを実感する。これは大袈裟でも何でもなく。言葉から言葉が生まれ、僕らの生が紡がれていく。彼らの作品はそういう作品が多いのである。ぜひオススメをしたい。とりわけエッセーは重厚なものがある。


生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

谷川俊太郎「生きる」『うつむく青年』
(サンリオ 1989年)P.117~120より引用

僕たちが生を実感する時とはどんな時だろうか。僕は古井由吉と後藤明生の作品を読むときに「生きている」ということを痛感する。というよりも、小説というフィクションの世界に於いて現実がそこに存在している。僕は過去の記録でもはや耳、眼が腐るほど書いているが「生活」を直に感じられる作品は大好きである。

彼ら2人の作品は「言葉」というものをフィルターとしてそこに現実をフィクションという矛盾した形で現出させてくれるのである。僕らがあくまで生きているのは現実であり、本の中ではなく、そして言葉の渦の中でだけ生きている訳では決してない。ありとあらゆる複雑なものが絡み合って世界は存在しているのである。

谷川俊太郎の場合は言葉ではなく、そこにある眼に見える当たり前の光景を敢えて言葉に閉じ込めることで「生きるということ」を現出させようとしているのである。彼は純粋に言葉だけでそれを表現しようとしているのである。これは詩人である特権というと些か、いやかなり変な表現にはなってしまうのだが、詩人にしかできない方法である。

だからと言って詩人が純粋であるとか、より現実を捉えているということを決して言いたい訳ではない。ただ純粋に方法が異なるだけの話である。これは映画でもそうだし絵画でもそうだし、やり方は様々に存在するということだけの話である。それは創作する人の捉え方や表現方法の違いだけの話である。

これを受け取る側はあくまで読者である。読者はそこに書かれた言葉を読者の言葉を以てして汲み取るだけの話である。僕は少なくともこの小説と詩に於いて「生きる」ということを感じたまでの話だ。

そう言えば、谷川俊太郎自身がこの「生きる」という詩について語っている記事があるので、そちらもぜひ参照されたい。これが結構面白い。谷川俊太郎自身はこの「生きる」という詩はあまりいい出来のものではないと語っている所がまた面白い。以下リンク。


そう言えば、この「生きる」という詩が収録されている『うつむく青年』というのは株式会社サンリオから出版されている。サンリオというとキティちゃんで有名なあのサンリオである。ちなみに初版はサンリオの前身会社である株式会社山梨シルクセンターから出版されている。 

何とも偶然というか、不思議な感覚だった。「そうか、この「生きる」という詩は僕と同郷なのか…」と何とも変な事を思ってしまった。別にたまたま出版されたのがサンリオからであって、たまたまサンリオが山梨県発の会社であってという本当に偶然が重なったそれに尽きるのである。

古本を漁り、良い本に出会えるのも偶然の連続である。僕はたまたま谷川俊太郎の「生きる」という詩が読みたくて詩集を探していて、人の群がる書棚で見つけた詩集を見てみたら偶然そこに載っていて購入し、調べて見たら偶然出版社が同郷で…という何とも大した話ではないのだけれども。

先に書いたが、古本巡りはスポーツである。スポーツも偶然が重なりあうことで良い方向に進んで行くことはある(と思う)。あらゆる状況や事象が重なり合うことで良い方向へ進んで行くこともあれば、もしかしたら悪い方向へ進んで行ってしまうこともある。それはそれで仕方がないのかもしれないが、とにかく言いたいことは古本巡りに偶然はつきものである。むしろ偶然の折り重ねなのである。

昨日、友人と澤口書店に入店した。店内を歩いている際に、彼はプルーストの『失われた時を求めて』の全巻セットを見つけた。表示価格は易々と手が届く金額ではなかったが、セールで割引がきくという。そうすると手が届く範囲の金額になる。彼は非常に煩悶としながら「どうしようかな、どうしようかな」と店内を歩き回っていた。

「もう1度考える」という結果となり、書店を出て他の店舗を見て回ったがあまり彼の表情が晴れているような感じではない。すると「やっぱ、買うわ!」と言ってすぐさま澤口書店に戻り『失われた時を求めて』の全巻セットを購入した。その時の喜ぶ表情を見て僕も何だか嬉しくなってしまった。彼は偶然を大切にしたのである。いや、もっと言ってしまえば「いま生きるということ」を大切にしたのである。

これを「欲に眼が眩んで…」という奴がいたら僕はそいつをぶん殴る。この偶然の素晴らしさを分からない奴がいてもぶん殴る。この出会いというのは偶然だ。この偶然を愛せない奴は「生きる」ということを放棄している。仮に彼が迷いに迷ってこの『失われた時を求めて』を購入しなっかったとしても、そこに迷いや苦しみ、そういったことを感じ偶然と、「生きる」とうことに真摯に向き合っているのだ。僕は四の五の絶対に言わせない。


しばしば、「偶然が何回も重なれば、それはもはや必然である」という奴が居る。僕はそういうことを平然と言ってのける人間が嫌いだ。それはその瞬間瞬間の出会いを必然という1つの時間軸に集約しようとする人間の傲慢さそのもののような気がしてならない。

古井由吉や後藤明生の作品を好きな点はこの点にもあるような気がしている。他人の言葉というのは、いやそもそも言葉というのは瞬間的なものであると僕は思っている。言葉も偶然なのである。これが今こうして文字という媒体を通して伝えられてしまうから、言葉という偶然性を文字という必然性に置き換えなければならない。そうしたくなくても、そうしなければ伝わらないという何とももどかしい中に、矛盾の中に僕等は生きている。

だから、彼らは他人の言葉と出会ったという偶然性から話が始まり、そこから我々読者に更なる偶然性を与えてくれる。つまりは、彼らの原体験がフィクションを通じて僕らの眼前に現れてくるのである。彼らの小説の魅力は偶然性に基づいた現実がそこに在るからなのではないかと変なことを考えてみる。

いや、むしろそういった文字という必然性というのを分かっているからこそその必然性に抗うために敢えて他人の言葉から始めているのではないか?偶然性を現出するための必然性。それを言葉と文字を駆使して表現しているというところに素晴らしさがあるような気がしてならない。

奥泉 ぼくはそれはぜんぜんかまわないという立場です。たとえばひとの小説を読んだりしますよね。「いいな、これ」と思って自分の小説に戻ると、どうしても影響を受けてしまう。
いとう ぜったい受けますよ。
奥泉 小説を書き始めた頃は、「それはまずいだろう」と思ったんです。影響を受けない方がいいんじゃないかと。
いとう 「偶然に支配されてどうするんだ」と思うじゃないですか。
奥泉 「ひとつの小説を書きついでいるとき、なにを読んでいるか」は偶然ですよね。たまたま読んだものに影響を受けて、それを自分の作品に投影させていく―あるときから、それはそれでかまわないと開きなおったんです。
いとう ばんばん気分どおりいく。
奥泉 「もうなんでも来い」。気分が変わったら変わったでOK、それでダメなものしか出てこないんだったら、どっちみちダメだということです。
いとう なんでも受けいれることで、左官屋で言えば「どんどん壁を厚くしてやれ」とね。ひとつの作品だけを参照してたら、壁は薄くなって、ちょっと殴ったら割れちゃうぞ、と。そういうこと?
奥泉 そうですね。どんどん影響を受けるから、どんどん直したくなるんですよね。「読む作業」と「直す作業」と「先を書いていく作業」、この三つを並行して行うのが、「小説を書く」作業の内容ですね。

いとうせいこう・奥泉光『小説の聖典』
(河出文庫 2012年)P.56より引用

少しずれてしまうような引用をしてしまったが、作家自身でさえ作品を書くにあたり偶然性を大切にしている訳である。というよりも、これは作家がどうこうという話以前に、人間の存在そのものとして常に偶然に支配されているのである。それを無理矢理に必然にする必要性など微塵もないと僕は少なくとも感じているし、古井由吉と後藤明生の作品には他の作家の作品に比べ偶然性を大切にしているような気がしているというだけの話だ。

「生きる」ということは僕にとっては偶然に支配されるということなのかもしれない。

古井由吉と後藤明生、そして谷川俊太郎に、友人に「生きる」ということを改めて教えて貰った気がする。最高の古本祭りであった。11月3日までまだあるので昼休みにまた堪能したい。

よしなに。




                    



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?