雑感記録(83)
【中心への抵抗と苦難】
ここ1週間、僕は毎日残業している。残業することについて僕自身、悪いことではないと思っている。必要な残業ならばするべきだと思うし、自分が納得が行くまで仕事をするということは大事であると考える人間だ。しかし、こういった残業が常態化してしまうことに対しては些かの疑義を感じている。慣れるところと慣れてはいけないところの線引きというのは肝心であると思う。
これまでの記録で僕はひたすら労働や仕事のことについて書いている。非常に良くない傾向だなと自分自身で思う。僕が元々noteを始めたのは、好きなことを好きなように書くためであったはずだ。それなのにそこから遠ざかり、ブログのような様相を呈している。仕事の愚痴やら今自分が仕事に対してどう感じているかなどそういったものが中心になりつつある。本来の目的というか、最初のあの時の気持ちというか、純粋に「これが好きなんだ!俺は!」という気持ちが負けている。そんな気がしてならない。
書き始めた時の熱狂。文学や映画や美術に対する熱情が日に日に薄れていってしまっている気がしてならない。僕の心の豊かさは衰退の一途を辿っている。愛して止まないものを純粋に愛せないこの葛藤。作品に純粋に向き合えていたあの頃、大学時代へ僕は戻りたいと思いを馳せてしまう。戻る訳もないのに。何とも未練がましい人間であることか!
こうなってしまった原因は何となく分かっている。それは「労働」が今の自分の中心に据えられているからである。物理的にも精神的にもそうである。これは誰しもが必ず通る、というか当たり前になりすぎて疑わないことである。社会人になるということ、働くということは恐らく自身の今まで傾けていた熱狂のシフトチェンジなのだろう。
今まで自分の中心にあったもののすり替え、置き換え。代替されるということ。何だか夏目漱石を思い出してしまう。
これを知ったのは柄谷行人の著作であったが、何であったかは忘れてしまった。とにかくここで重要なのはここで「選別」と「排除」というところだ。選別すると同時に常に排除が行われている。これを緩和するための代理、代行=Representationがある訳なのだが、あとで少し触れる。
僕らは常に何かを「選別」し「排除」しながら生きている。それが当たり前になりすぎていて、意識されていないかもしれない。今僕はクレヨンしんちゃんの映画を流しながら書いている訳だが、「書く」ことか「見る」ことのどちらかを僕は選択しなければならない。この両方が共存することは不可能に近い。両方ともこなそうとすれば、どちらかがおざなりになってしまうだろう。人間そう上手くは出来ていないものだ。あれもやって、これもやる。
僕は現に「書く」ことを選択している訳であり、目の前にはパソコンの画面が広がり、映画の音だけが耳に入ってくる。実際映画の内容はあまり頭に入ってこない。もはやBGM程度のものでしかなくなっている。人の意識というものは上手に出来ていないなと改めて思う。
これはあくまでミクロな場面で、些細な場面での話である。ただ、これを今の現状に置き換えても差し支えないのではないかと思われて仕方がない。つまり、僕の中で今まで「文学」「芸術」「映画」というものが場所を占有していたが、それが仕事というものに置き換えられた。「選別」され「排除」されてしまったのだ。
しかし、難しいところが完全に「排除」しきれていないというところがある。そもそも僕自身が「排除」するつもりが毛頭ないというのもある。僕はやはりあの頃の熱情や熱狂を未だ捨て去ることが出来ないでいる。僕は我儘なのだろうか。欲張りなのだろうか。
何と言うか、仕事や労働は人生の大半に影響を与える。人生の半分以上の時間を仕事や労働に捧げる。それは必然的に自身の中心に据えられていたものが、僕らの気づかないうちに「選別」され「排除」されているのである。
さらには、先の代行・代理という概念でその「選別」と「排除」が覆い隠される。つまり、「甲でもあり乙でもある」ということだ。僕の中の中心が「文学」「芸術」「映画」というものでもあり仕事、労働でもあるということだ。恐らく僕はここに憤りというか、気持ち悪さを感じているが為に連日愚痴愚痴した話を記録してしまっているのだと思う。
加えて言うならば、僕は「選別」したくて、「排除」したくてしている訳ではない。ある意味で社会の要請?とでも言うのだろうか、"流される"という言葉が妥当なのかもしれないな。僕らは大学3年生から就活を始め、大学4年生の6~8月くらいで内定が出て、卒業したら就職して…。というように既に一定のレールが敷かれている。「排除」させられているというのが至極真っ当な表現だろう。
しかし、中にはそうやって「排除」させられている中でも自身の熱情や熱狂を保持しつつ上手に向き合える人も一定数いる。これは紛れもない事実だ。そういう人は本当に凄いと思うし、何よりも羨ましいと、そして自分の浅ましさを常々感じてしまう。「俺の熱情、熱狂は所詮こんなもんなのか…」と自分自身に落胆するばかりだ。
人間性を引き合いに出すのは些か卑怯だが、僕は何かあらゆることに対して同じ程度の熱情や熱狂を割くことは出来ない。1つに集中してしまうと、他のものに中々目が行かない。自分でも治したいと常々感じているが難しい。僕は器用な人間ではない。あらゆるものに対して熱情や熱狂を注ぐことはできない。
僕はこの苦難を乗り越えようと最近色々と考えている。そのキッカケが転職活動でもあるように思う。もし仮に仕事にもっと興味関心が持てたのなら、「選別」「排除」が気にならないくらいの熱情や熱狂を持つことが出来るのなら、それはそれでいいのではないのかと。
でも、それでも、やはり僕は「文学」「美術」「映画」と言った文化的なものを捨て去りたいとは微塵も思わない。もし捨て去ったなら多分、僕は僕で無くなるような気がしてならない。やはり僕は仕事、労働よりもこういったものの方に心惹かれるし、人生の大半を共にするのなら彼等との方がいい。
ただ、これは前にも書いたが仕事や労働というのは僕らが生きていく上で必要不可欠であるという点がまた厄介だ。そもそも、「文学」「美術」「映画」に触れるのだって学ぶのだってそれなりに資金は必要になる。他のものと比較したら安価なのかもしれないが、それでも資金は必要だ。それを生み出すのは悔しいが仕事、労働なのである。
僕は欲張りな人間だ。だったら仕事、労働も全力で愉しんで、自身の好きなことも全力で熱情を熱狂を注ぎたいと思う。「選別」と「排除」なんて面倒だ。いっそのこと、すべてに熱情や熱狂を注げられるようにした方が手っ取り早い。
自身の好きを追求するのは難しい。でも諦めない。僕はこの勝手に、自然に据えられた中心である仕事、労働に抵抗し続けたい。あの頃の熱情と熱狂をもう1度呼び醒ましたい。
心血注いでやりたいこと探究したいことは絶対あきらめるな。
よしなに。
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