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#340 「わびさび」は枯れていない。むしろ「熱くたぎる動の気配」である。
「わびさび」。枯れた様が思い浮かぶと思います。ある本を読んで、実は枯れていない、という捉え方もあるのだ、ということを学んだので、メモ。
1、「わびさび」とは何なのか?
お茶を習っています。とはいえこの状況なので1年以上お稽古はできていません。
その間、茶道関係の本などを読んだりしています。
改めて本を読むと、「あぁ、先生がおっしゃっていたのはこのことかぁ」とか、「あのお点前にはこういう意味があったのかぁ」など、色々と気付くことがあります(単にしっかり聞けてなかっただけ、という話もありますが…)。
そんな中で、裏千家の先代のお家元である千玄室大宗匠が「わびさび」について書かれた文章を読んで、「えっ!そうなの!?」ことがありました。
まず、「わび」について。
千利休の師にあたる武野紹鴎は、「わび」とは「正直に慎み深く、おごらぬさま」であると言っています。人に認められよう、褒められようと思うのではなく、己を省みて慢心しない姿勢ことがわびであり、茶の湯の心だと定義づけたのです。
次に、「さび」について。
一方、「さび」は「寂び」と書きます。枯れた渋い趣や古びて味わいのあるさまを、美しいと感じる心。それが「さび」です。
いかがでしょう?
「わびさび」は、景色や建物、お茶碗といった「枯れた風情のモノ」と漠然と捉えていました。
しかし、実際は、「姿勢」であり「心」、だというのです。
特に、「わび」が「おごらぬさま」「己を省みて慢心しない姿勢」という意味があるのは恥ずかしながら全く知りませんでした。
さらに大宗匠は「わび」について以下のようにも述べています。
また、「わび」は「詫びる」に通じます。片意地を張っていたらいつまでたっても詫びることはできません。謝る素直さもまた「わび」の境地といえます。
全く知りませんでした…
2、「わびさび」は熱くたぎる「動」の気配がある。
さらにさらに、私の「わびさび」の概念を新たにする記述がありました。
利休は、静けさの中にも自然の力強さが感じされる藤原家隆の次の歌を「わび」であると言っています。
花のみを待つらん人に山里の
雪間の草の春を見せばや
(花の開花のみを心待ちにしている人に、雪の間から芽生える草の姿にこそ、本当の春があるのだということを見せたい)
枯れ果てているように見えて、その実、燃えるような生命力を秘している。熱くたぎる「動」の気配がある。自然とはそういうものであり、自分が追い求めるわび茶の精神も同じである、と。
3、まとめ(所感)
いかがでしたでしょうか?
分かったつもりでいた「わびさび」。
慢心しない心の美しさが「わび」
古びた味わいに美を見出すのが「さび」
そして、枯れ果てているように見えてもその内に熱くたぎる「動」の気配がある様も「わび」
これらが合わさったものが「わびさび」という美の精神なのです。
大宗匠は端的にこうおっしゃっています。
静けさの中にも、「動」の気配を感じさせてこそ茶の奥義。
最後までお読みいただきありがとうございました。
久しぶりに道具を引っ張り出してお茶を立てしまいました。
やっぱりお抹茶は美味しいですね。
奥義までは程遠いですが…