『小説への序章』現代において小説とは、小説の意義とは?
発行年/1968年
まず結論として、本書から理解し得たことを述べてみました。
評論『小説への序章』について、辻邦生さんは「あとがき」でこう書かれています。
その言葉どおり、本書は辻邦生さんによる海外文学の研究・分析論であり、それによって導き出された、「小説を書くことの指針の書」なのです。なので、辻邦生さんの小説が読みたい、あるいは今読んでいる、という方はもちろん、これから小説を書こうと考えている人にもぜひ参考にしていただきたい、これはそんな評論です。
1.本書で取り上げられた作家・作品
本書で辻邦生さんが取り上げられた作家・作品は主に以下の通りです。
他にもボードレールのいくつかの詩篇やシェークスピアの断章、『ヘミングウェイ論』からのヘミングウェイの言葉やスタンダールの『赤と黒』など、論旨を補完するために数々の抜粋が使われていますが、テーマの展開のために分析・使用されたのは主として上記の7人の作家たちです。
ただ、本書は書き下ろしという形で一度期に書かれたものではありません。「結論にかえて」までを含めると全部で9章になりますが、各章は何年かのあいだにいくつかの雑誌に発表されたものです。それらを時系列に並べることによって、(主としてヨーロッパ文学における)小説の意味的変遷を辿るものになったわけですが、第7章のディケンズ研究によって、それまでの論旨がリアリティを持って完結された感があります。
2.現代小説の問題定義と論旨の展開
①現代小説における問題点
本著作ではまず現代小説の問題定義がなされます。それはサマセット・モームが「小説家はストーリーで考える」と言ったことに対する、現代の作家たちのあり方についてです。
さらに「第6章 小説空間の意識」ではより具体的に、現代小説の問題が提示されます。
つまり現代小説が抱える問題は、物語という形を取りながら、それが新聞や論文などと同じ細部の分析・伝達になってしまっているという点だと、1960年代後半の頃に既に辻さんは言っておられるのです。
ではまず、物語とは何なのか⎯⎯
②ナラシオン(物語るという行為)から小説へ
例えば古代の神話や中世の叙事詩は、「物語」ではあっても「小説」ではない、というところから本論は始まります。どういうことかというと、
古代や中世においてはこの「共同体の中の現実」こそが疑うべくのない「真実」であり、そこに個人が介在する余地はありません。なので、
ということになります。「物語る」という行為は神の事蹟や勇者の歴史的行為を語り継ぐことを意味し、仮にそこに感動があったとしてもそれは信仰としてのそれであるか、共同体を維持するために必要な感情への訴えかけにすぎません。つまり、「感動」が目的ではないということです。
やがて、信仰を意識した共同体が崩壊し市民階級が成熟するとともに、「私」という意識が現れるようになります。「私」は共同体(集団)の呪縛から解き放たれて「自らの意志で現実を見る」ことになるわけですが、しかしそのとき目にした現実は真の現実ではなく、「私が目にした現実」ということになります。
この、今見ている現実は客観的現実ではない、という事実、それに突き当たったとき、芽生え始めた近代的自我は大いに苦悩するわけですが、それを「私のヴィジョン」として転回させたのがルソーであり、これが近代小説への変化の特質となる、と、辻邦生さんは語られます。
③「ナラシオン」の、古代から近代への転回
本書ではここから「私のヴィジョン」について検証するのですが、ここはかなりわかりにくい部分です。僕が理解したところでできる限り簡単に言うと、
ここでは現実の「私」を「小さな私」と呼んで「ヴィジョン」としての「私」と区別します。そして、「小さな私」が見る世界は「私対外界」という対立軸にあるのに対し、「ヴィジョン」としての「私」が見る世界は「私」が内包する「全体的世界」であって、小説家がどんなに詳細に町や森や山々や、あるいはそこに暮らす人々を語ったとしても、それは小説家によって創造されたものである、というのが本書の論旨です。つまり、
というわけです。
④バルザックの主体的リアリズム、フローベールの写実、そしてトーマス・マンへ
「私的ヴィジョン」によって見られた世界は「観念的現実」であり、それがどれだけリアリティに富んでいようともそこにはロマン的心情がある、本書ではそう述べられています。
そしてバルザックの『哲学ノート』の詳細な観察メモを引きつつ、それは彼の客観的認識態度による観察ではなく、対象に感情移入した結果実体と同化した末に書かれたもの、ということになります。つまり、見られたものは客体ではなく、「ヴィジョン」としての「私」(あるいは大いなる自己)による創造的主体なのです。
その際のロマン的心情を否定したのがフローベールで、彼は、
の故に徹底的に否定した、とされます。主観が否定されるということは、それによって意味があったさまざまの創造的なものがすべて失われることを意味し、そののちに現出するのは過去から未来へ連綿と続く現実⎯⎯いわゆる「写実主義」が掲げる美学を支える現実です。
ということになります。ただその結果、
ということになるのです。
こうした「美的閉塞化」に対して戦いの狼煙を上げたのがトーマス・マンであるとして、辻邦生さんはマンの代表的な著作『ブッデンブローク家の人びと』・『トニオ・クレーゲル』・『トリスタン』・『ヴェニスに死す』を引いてその根拠を展開します。
しかし、トーマス・マンが挑んだ「美的閉塞化」の克服は現代芸術においてもいまだその傾向が見られるままか、あるいは「現実」からの疎外感の中で個々の感覚のままに分離・拡散してゆくかどちらかである、と、辻さんは問題定義しておられます。
⑤プルーストの反発と象徴的全体性の把握
上記で述べたような知性はただ認識されるものであって、認識されるべき対象と「私」とのあいだに何らの関係性もないという意味で、この知的認識は無限に拡散してゆく、と本書は語ります。その無限に拡散してゆく知性に反発を試みたのがプルーストの『失われた時を求めて』だ、というわけです。
拡散する知的認識を全体として捉えるには、主体(私)の認識に対する関わり方が必要になります。それは、
であり、それはつまり客体としての山ではなく、主体(私)の認識によるということです。
プルーストの「失われた時」は、過去から未来までの時間を総体として⎯⎯時間の象徴として描こうとしたもので、そうした主体の認識による象徴としての現実を、本書では「内在的現実」と名づけています。すなわち、
ということになります。芸術家が描くべきはこの「内在的現実」=象徴、であり、それこそが①の問題定義への回答である、というわけです。
3.ディケンズの著作に見られること
ディケンズは生前から現代に至るまでその人気は衰えることがないけれども、小説そのものの評価は低い、ディケンズについてはまずこのように書き起こされます。それはディケンズが流行作家、大衆作家であり、読者に迎合しようとしてさまざまの試みを行ったこと⎯⎯読者の要望に答えてストーリーを変更したり、ハッピーエンドにしたり、新作の朗読会を開催したり⎯⎯に対する偏見、中傷でもあった、と辻邦生さんはおっしゃいます。
しかし、例えばディケンズが行った、登場人物や情景などの定型化・単純化は、確かに作品そのもののリアリティを失わせることにはなったけれども、ディケンズはその「型」を意識的に繰り返すことによって、「象徴的観念」と化した「型」を写実における具体物と同等のものに感じさせようとした、というのが辻邦生さんの考えです。
辻さんは写実主義による現実認識を遠近法的全体認識と呼び、正確さを企するという意味で一定の評価をしてはいますが、その遠近法を引いてディケンズの作品について次のように語ります。
引用が長くなりましたが、これ以外にも小説の中の対話などを取り上げて、辻さんはディケンズの方法を語ります。そして、ディケンズの作品に見られる「物語性」を明示したのち、それは「情緒」を抜きにしては考えられないことから、ディケンズの作品全体を<「感情を響かせる」空間>と名づけるのです。
辻邦生さんはご専門がフランス文学でしたが、ディケンズからも影響を受けておられました。上記のようなディケンズ分析論を読むと、辻さんの作品を読むたびに僕が映画的印象を抱くのもあながち間違いではない、そうおもいます。
4.小説と現実との関係性
最初に提示した結論における<終わりのない「終末期」>とは、辻さんによる聖書の黙示録からの転用です。
現実は客観的なものであり、対して主観は自由です。芸術は主観によって成立するわけですが、その自由さの故にいつかは崩壊への一途を辿ることになります。そのとき、主観が保護を求めるのが現実的客観性なのですが、そこに矛盾が生じます。その矛盾を回避するために必要なのは、
です。例えば客観的な視点で言うと、時間は過去から未来へ、少しの歪みもなく流れてゆくものです。この流れを見るとき、「終末期」には終わりがありません。芸術家は、客観的な時間を主観的に、<象徴として>全体認識するのです。
現実を抜きにして小説はあり得ませんが、小説家が描くのは「芸術の真実」です。客観的現実の中の真実は象徴的なものであり、それを提示することによって、小説家はそこに「よろこばしき生」を現出させるのです。逆に言えば、読者は小説を読むことによって、現実の世界をもう一度象徴的に生きるのだと、本論はそう提示して幕を閉じます。
5.最後に/ヨーロッパ的文学史観
辻邦生さんはフランス文学を専攻されていたことから、ここに書かれているのは主としてヨーロッパ的文学史観です。例えば2-④でバルザックの『哲学ノート』に触れましたが、東洋的視点から言うと、バルザックの言う人間界は、法華経の第二「方便品」の中の「諸法実相」に他なりません。バルザックが表す遥か昔に、東洋では既に「三千大千世界」という形でこの世を表現していました。そうしたことを考え合わせるとき、例えば、では『源氏物語』は本論の中ではどのような位置付けになるだろうかと想像すると、また違った視点が拓けてくるのではとおもいました。
そうしたこととは別に、当然のことながら、ここには辻邦生さんの小説に対する考え方が網羅されています。ご本人が「筆者の小説創作のための見取り図」と書かれているように、僕も今後の辻作品読解の指針としたいとおもいます。
*本文中の出典名のない引用枠は僕の要約による部分です
【今回のことば】
『小説への序章』
なお、こちらを読まれる方はおそらくこう思われるだろうとおもいます。なので、先回りして。
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