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『小説への序章』現代において小説とは、小説の意義とは?

発行年/1968年

現代(1960年代後半当時)は<終わりのない「終末期」である>と認識される。そんな現代を、小説家が過去から未来の最終末まで見通したとき、そこに現れるのは「嘆き」でしかない。しかし、小説家は小説によって「嘆き」を「よろこばしい生」へと転回させる。そこにあるのは「感動」であり、「感動」こそが小説の意義である。

まず結論として、本書から理解し得たことを述べてみました。
評論『小説への序章』について、辻邦生さんは「あとがき」でこう書かれています。

本書は小説研究であるとともに、筆者の小説創作のための見取り図であり、方向探知のためのノートであり、書くことの根拠についての確認である。

『小説への序章』 河出書房新社/あとがき より

その言葉どおり、本書は辻邦生さんによる海外文学の研究・分析論であり、それによって導き出された、「小説を書くことの指針の書」なのです。なので、辻邦生さんの小説が読みたい、あるいは今読んでいる、という方はもちろん、これから小説を書こうと考えている人にもぜひ参考にしていただきたい、これはそんな評論です。




1.本書で取り上げられた作家・作品

本書で辻邦生さんが取り上げられた作家・作品は主に以下の通りです。

●オノレ・ド・バルザック『セラフィータ』『人間喜劇』など
●ハイデッガー『哲学とは何か』など
●マルセル・プルースト『失われた時を求めて』など
●ジャン・ジャック・ルソー『告白』
●フローベール『ボヴァリー夫人』など
●ディケンズ『骨董店』『二都物語』など
●トーマス・マン『ファウスト博士』『ブッデンブローク家の人びと』など

他にもボードレールのいくつかの詩篇やシェークスピアの断章、『ヘミングウェイ論』からのヘミングウェイの言葉やスタンダールの『赤と黒』など、論旨を補完するために数々の抜粋が使われていますが、テーマの展開のために分析・使用されたのは主として上記の7人の作家たちです。

ただ、本書は書き下ろしという形で一度期に書かれたものではありません。「結論にかえて」までを含めると全部で9章になりますが、各章は何年かのあいだにいくつかの雑誌に発表されたものです。それらを時系列に並べることによって、(主としてヨーロッパ文学における)小説の意味的変遷を辿るものになったわけですが、第7章のディケンズ研究によって、それまでの論旨がリアリティを持って完結された感があります。


2.現代小説の問題定義と論旨の展開

①現代小説における問題点

本著作ではまず現代小説の問題定義がなされます。それはサマセット・モームが「小説家はストーリーで考える」と言ったことに対する、現代の作家たちのあり方についてです。

「書く」という行為の深い謎をめぐって現代の作家たちは書きながら時間をさかのぼる。むしろ新しい時間の創造をそこに見出してゆく。われわれはもはや現実の眼に見える秩序に寄りかかることはできない。われわれにとって人間も事物もただ謎としてしか存在しない。しかもわれわれの社会は鉄のように冷たく眼に見えない巨大さでわれわれの上にのしかかり、われわれはその実体のない怪物へのおそれをのみ生活の実感として感じている。

『小説への序章』 河出書房新社/第1章 物語と小説のあいだ より


さらに「第6章 小説空間の意識」ではより具体的に、現代小説の問題が提示されます。

いま、かりに任意の小説の一節を抜きだして、それを新聞、論文その他日常的な意図による散文と比較して、われわれはそこに何らかの異なる性格を見出すことができるだろうか。おそらくこうした相違を発見することは、以前よりいっそう困難になっているのではあるまいか。というのは現在とくに日本では作家がその固有の文体を見うしないつつあるという事実があるばかりではなく、小説そのもののリアリティを日常的事実と置きかえようとする意図が、作家一般の傾向のなかに見られるからである。
(略)
しかし現代の小説が自己の内容を日常的現実と置きかえようとする意図のなかには、こうした信憑性の根拠とか、ロマネスクな関心の対象とかいうもの以上に、単なる日常的現実を認知しようとする(日常的現実の目ざす方向と同じ)方向が支配的なのである。
(略)
とすれば小説は、現実的世界における伝達と同じアスペクトで対象を取りあつかっているということになる。

『小説への序章』 河出書房新社/第6章 小説空間の意識 より


つまり現代小説が抱える問題は、物語という形を取りながら、それが新聞や論文などと同じ細部の分析・伝達になってしまっているという点だと、1960年代後半の頃に既に辻さんは言っておられるのです。

ではまず、物語とは何なのか⎯⎯


②ナラシオン(物語るという行為)から小説へ

例えば古代の神話や中世の叙事詩は、「物語」ではあっても「小説」ではない、というところから本論は始まります。どういうことかというと、

1.神話や叙事詩は共同体から生まれたもので、個人の心情や出来事を扱ったものではない

2.神話は信仰の一形態であり、叙事詩もまた共同体の歴史あるいは英雄譚で、描かれた出来事は、どんなに荒唐無稽なものであっても共同体が成立するための疑う余地のない現実である

3.「物語る」という行為は「伝える(伝達)」ということ

古代や中世においてはこの「共同体の中の現実」こそが疑うべくのない「真実」であり、そこに個人が介在する余地はありません。なので、

そこに自らの生の意味を問う必要もなければ、自分において考えることもない。

『小説への序章』 河出書房新社/第2章 神々の死の後に より

ということになります。「物語る」という行為は神の事蹟や勇者の歴史的行為を語り継ぐことを意味し、仮にそこに感動があったとしてもそれは信仰としてのそれであるか、共同体を維持するために必要な感情への訴えかけにすぎません。つまり、「感動」が目的ではないということです。


やがて、信仰を意識した共同体が崩壊し市民階級が成熟するとともに、「私」という意識が現れるようになります。「私」は共同体(集団)の呪縛から解き放たれて「自らの意志で現実を見る」ことになるわけですが、しかしそのとき目にした現実は真の現実ではなく、「私が目にした現実」ということになります。
この、今見ている現実は客観的現実ではない、という事実、それに突き当たったとき、芽生え始めた近代的自我は大いに苦悩するわけですが、それを「私のヴィジョン」として転回させたのがルソーであり、これが近代小説への変化の特質となる、と、辻邦生さんは語られます。

このような近代精神の展望を、もっとも大胆に開き、自我の相対性を強く肯定することによって、そこに一つの「転回」を象徴的、典型的に実現したのはジャン・ジャック・ルソーだが、この「転回」こそがわれわれの主題たる近代小説への変化の主要な特質となるのである。

『小説への序章』 河出書房新社/第3章 内面への転回 より


③「ナラシオン」の、古代から近代への転回

本書ではここから「私のヴィジョン」について検証するのですが、ここはかなりわかりにくい部分です。僕が理解したところでできる限り簡単に言うと、

1.「ヴィジョン」としての「私」は実在としての「私」個人ではなく、「私」が見る世界を内包して立つ総体としての「私」であり、それは「誰でもない私」である

2.そんな「私」によって、内包された世界が照らし出されるのだが、そのとき照らし出された部分の「明るさ」の成熟が「見る」の本質である

3.この「ヴィジョン」を明らかに保つには、ただ詳細に語るしか術はない。この「語られる必然性」こそが、「ナラシオン」の近代への意味的転回である。ここに至って、近代小説が描かれる主要な動機が明示されたことになる


ここでは現実の「私」を「小さな私」と呼んで「ヴィジョン」としての「私」と区別します。そして、「小さな私」が見る世界は「私対外界」という対立軸にあるのに対し、「ヴィジョン」としての「私」が見る世界は「私」が内包する「全体的世界」であって、小説家がどんなに詳細に町や森や山々や、あるいはそこに暮らす人々を語ったとしても、それは小説家によって創造されたものである、というのが本書の論旨です。つまり、

古代的ナラシオンと異なり、近代小説は「私的ヴィジョン」の故に成立したもの

というわけです。


④バルザックの主体的リアリズム、フローベールの写実、そしてトーマス・マンへ

「私的ヴィジョン」によって見られた世界は「観念的現実」であり、それがどれだけリアリティに富んでいようともそこにはロマン的心情がある、本書ではそう述べられています。

われわれがバルザックの世界像の根底に、近代的リアリズムの精神態度を認めるとしても、なおそこに、それらをこえ、それらを動かす原理として、ロマン的心情を考えるのは、彼がその哲学小説の系列において『セラフィータ』を頂点とする神秘的な恋愛観を展開したり、また異常な偏執狂的人物をとりあつかうといった嗜好のためではなく、「大いなる自己」という内面的世界の展開をその小説の構造の基底にもっているからである。

『小説への序章』 河出書房新社/第4章 全体像の形成とその崩壊 より


そしてバルザックの『哲学ノート』の詳細な観察メモを引きつつ、それは彼の客観的認識態度による観察ではなく、対象に感情移入した結果実体と同化した末に書かれたもの、ということになります。つまり、見られたものは客体ではなく、「ヴィジョン」としての「私」(あるいは大いなる自己)による創造的主体なのです。

その際のロマン的心情を否定したのがフローベールで、彼は、

ロマン性は人の恣意的感情の故に揺れ動く主観的なもの

の故に徹底的に否定した、とされます。主観が否定されるということは、それによって意味があったさまざまの創造的なものがすべて失われることを意味し、そののちに現出するのは過去から未来へ連綿と続く現実⎯⎯いわゆる「写実主義」が掲げる美学を支える現実です。


ここでは「大いなる自己」のなかに観念によって呼びだされるごとき形象は存在しない。すべては主観に先立って存在する「現実」であり、この「現実」をいかに正確に認識するかが、外界認識の唯一の意味となる。そしてこの認識を扱うのは、抽象と分析を武器とする知性の役割なのだ。

『小説への序章』 河出書房新社/第4章 全体像の形成とその崩壊 より

ということになります。ただその結果、

芸術作品は認識されるべきもの、分析されるべきものとなって、もはや感動的に味わったり、享受されたり、魅惑されたりするものではなくなる。
しかしこのようにして達成された知性美は、同時にかつて人間が創造しえた全人間的感動を基盤とする芸術美をまったく喪っていることも事実なのである。

『小説への序章』 河出書房新社/第4章 全体像の形成とその崩壊 より

ということになるのです。

こうした「美的閉塞化」に対して戦いの狼煙のろしを上げたのがトーマス・マンであるとして、辻邦生さんはマンの代表的な著作『ブッデンブローク家の人びと』・『トニオ・クレーゲル』・『トリスタン』・『ヴェニスに死す』を引いてその根拠を展開します。

「ブッデンブローク家の人びと」/takizawa蔵書


しかし、トーマス・マンが挑んだ「美的閉塞化」の克服は現代芸術においてもいまだその傾向が見られるままか、あるいは「現実」からの疎外感の中で個々の感覚のままに分離・拡散してゆくかどちらかである、と、辻さんは問題定義しておられます。


⑤プルーストの反発と象徴的全体性の把握

上記で述べたような知性はただ認識されるものであって、認識されるべき対象と「私」とのあいだに何らの関係性もないという意味で、この知的認識は無限に拡散してゆく、と本書は語ります。その無限に拡散してゆく知性に反発を試みたのがプルーストの『失われた時を求めて』だ、というわけです。


拡散する知的認識を全体として捉えるには、主体(私)の認識に対する関わり方が必要になります。それは、

個々の対象物をばらばらのものとして認識するのではなく、例えば「山」は山全体の象徴として捉えること

であり、それはつまり客体としての山ではなく、主体(私)の認識によるということです。
プルーストの「失われた時」は、過去から未来までの時間を総体として⎯⎯時間の象徴として描こうとしたもので、そうした主体の認識による象徴としての現実を、本書では「内在的現実」と名づけています。すなわち、

外面的現実(ただ認識されるもの)は部分だが、内在的現実は全体である

ということになります。芸術家が描くべきはこの「内在的現実」=象徴、であり、それこそが①の問題定義への回答である、というわけです。


3.ディケンズの著作に見られること

ディケンズは生前から現代に至るまでその人気は衰えることがないけれども、小説そのものの評価は低い、ディケンズについてはまずこのように書き起こされます。それはディケンズが流行作家、大衆作家であり、読者に迎合しようとしてさまざまの試みを行ったこと⎯⎯読者の要望に答えてストーリーを変更したり、ハッピーエンドにしたり、新作の朗読会を開催したり⎯⎯に対する偏見、中傷でもあった、と辻邦生さんはおっしゃいます。

しかし、例えばディケンズが行った、登場人物や情景などの定型化・単純化は、確かに作品そのもののリアリティを失わせることにはなったけれども、ディケンズはその「型」を意識的に繰り返すことによって、「象徴的観念」と化した「型」を写実における具体物と同等のものに感じさせようとした、というのが辻邦生さんの考えです。

辻さんは写実主義による現実認識を遠近法的全体認識と呼び、正確さを企するという意味で一定の評価をしてはいますが、その遠近法を引いてディケンズの作品について次のように語ります。

ディケンズにとって世界は真昼間の平行光線に照らされた、遠近法的な視野のもとに展開する、自明の現実とはならなかった。こうした自明な現実は、単なる物質的世界、機能的世界、もしくはせいぜいのところ実用的に構成された世界である。その客観性はわれわれに多くの自然支配を可能にし、それによって物質的な繁栄と快適さを増大させることができたが、同時に、それら個々のものを物質的な客観の次元に還元し、非人称的な世界を出現させるにいたったのだ。しかしディケンズにはこうした世界はほとんど無縁であるといっていい。われわれにとって単なる樹木であるものに、彼は身をゆすぶる巨人を見るのであり、われわれにとって単なる家であるものに、彼は悪徳で腐ちてゆく柩を見るのである。
(略)
ディケンズの象徴的観念を中心として形成される映像は、「観念」の具体化であり、肉づけであったとしても、何らかの客観的な対象の分析的な描写ではない。ここには、いかなる認識的な働きも介入していない。作者の目ざすのは、彼が直覚した強烈な観念に肉体を与えて、その形成を通して、観念を明確化し、あえてわれわれの意識に変更を加えようということなのだ。
(略)
こうした「観念」が、分析的認識の結果ではなく、・・・主体が直覚的に把握した了解内容を示しているとすると、「観念」は、主体を疎外した認識過程から、ふたたび主体をそこに参加させた、絶対的関連のなかでの、主体による対象把握を意味している。この意味では「観念」は、いわゆる抽象的な概念ではなく、対象と主体との関係を規定する心情的な内容と考えることができる。

『小説への序章』 河出書房新社/第7章 ディケンズと映像 より


引用が長くなりましたが、これ以外にも小説の中の対話などを取り上げて、辻さんはディケンズの方法を語ります。そして、ディケンズの作品に見られる「物語性」を明示したのち、それは「情緒」を抜きにしては考えられないことから、ディケンズの作品全体を<「感情を響かせる」空間>と名づけるのです。

辻邦生さんはご専門がフランス文学でしたが、ディケンズからも影響を受けておられました。上記のようなディケンズ分析論を読むと、辻さんの作品を読むたびに僕が映画的印象を抱くのもあながち間違いではない、そうおもいます。


4.小説と現実との関係性

最初に提示した結論における<終わりのない「終末期」>とは、辻さんによる聖書の黙示録からの転用です。
現実は客観的なものであり、対して主観は自由です。芸術は主観によって成立するわけですが、その自由さの故にいつかは崩壊への一途を辿ることになります。そのとき、主観が保護を求めるのが現実的客観性なのですが、そこに矛盾が生じます。その矛盾を回避するために必要なのは、

芸術がその根拠を、客観的なものの中に求めること

です。例えば客観的な視点で言うと、時間は過去から未来へ、少しの歪みもなく流れてゆくものです。この流れを見るとき、「終末期」には終わりがありません。芸術家は、客観的な時間を主観的に、<象徴として>全体認識するのです。

現実を抜きにして小説はあり得ませんが、小説家が描くのは「芸術の真実」です。客観的現実の中の真実は象徴的なものであり、それを提示することによって、小説家はそこに「よろこばしき生」を現出させるのです。逆に言えば、読者は小説を読むことによって、現実の世界をもう一度象徴的に生きるのだと、本論はそう提示して幕を閉じます。


5.最後に/ヨーロッパ的文学史観

辻邦生さんはフランス文学を専攻されていたことから、ここに書かれているのは主としてヨーロッパ的文学史観です。例えば2-④でバルザックの『哲学ノート』に触れましたが、東洋的視点から言うと、バルザックの言う人間界は、法華経の第二「方便品」の中の「諸法実相」に他なりません。バルザックが表す遥か昔に、東洋では既に「三千大千世界」という形でこの世を表現していました。そうしたことを考え合わせるとき、例えば、では『源氏物語』は本論の中ではどのような位置付けになるだろうかと想像すると、また違った視点が拓けてくるのではとおもいました。

法華経/takizawa蔵書


そうしたこととは別に、当然のことながら、ここには辻邦生さんの小説に対する考え方が網羅されています。ご本人が「筆者の小説創作のための見取り図」と書かれているように、僕も今後の辻作品読解の指針としたいとおもいます。


*本文中の出典名のない引用枠は僕の要約による部分です




【今回のことば】

真に歴史的な世界が現われるためには、われわれの言語によって書かれ、言語はあたかもそこに存在しないかのように無化(超出)される必要がある。

『小説への序章』 河出書房新社/第7章 ディケンズと映像 より




『小説への序章』




なお、こちらを読まれる方はおそらくこう思われるだろうとおもいます。なので、先回りして。


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