今日はわりと普通に家を出れた。 あいつが1日社外の予定だから会社に行くのが苦ではなかった。 会社に着くとなぜかあいつが出社してきた。 なんでー! 業務が立て込んでるからと外出の予定をキャンセルしたらしい。 最悪。 午前中は後輩へ仕事を教えるのに夢中になって 午後はパワポ作業に夢中になって ことなきを得た。 食堂で残業した。 まあまあ遅くまで仕事してそろそろ帰るかとデスクに戻ると てっきりもうみんな帰ってると思ってたのにあいつがまだ残ってた。 興味深い3Dモデルを触って
期待しすぎは良くないってよく言う。 そうなんだろうか。 この記事でも書いたけど 期待することは愛だし、信頼の証やん。 そりゃあまり期待しない方が楽だとは思う。 そんなん分かってるし期待しないこともできるっちゃできる。 でもそんなの幸せ度下がるじゃないか。 期待した愛ある言葉と行動を、 期待どおり又は期待以上にしてくれる方が幸せ感じるじゃないか。 幸せを感じることに貪欲になっちゃだめなのか。 でもそしたら人と関わる意味がない。 1人でも楽しく生きられるが、幸せには生
アラームが鳴って目を覚ました。 朝が来ちゃった。今日会社に行くかどうか決めないと。 とりあえずもう一回寝た。 6:30にまた目が覚めて体を起こした。 パパが「会社行くんか?お弁当詰めたるで」と聞いてくれた。「うー」という、「うん」とも「ううん」ともとれない微妙な返事をした。決められなかったから。誰もがどっちやねん!と言いたくなる返事なのに、パパは黙ってお弁当を詰めてくれた。パパほんとごめん、でもナイスすぎる、ありがとうと心の中で言った。 ちょっとでも血行を良くして自律神経
今日は急遽テレワークにした。 クリニックに行きたいからと言って、定時より1時間早く上がれるようスライドワークさせてもらった。 朝からダラダラと仕事をした。 ママが家にいる日だったから良かった。 邪魔しないように気を遣いながらちょくちょく他愛もないことを話しかけてくれた。 (こういうときの適度な距離感は今まで何度もママと大喧嘩しながら培ったものだ。) 昼休みもママといっしょにお昼ご飯を食べてたけど、なんか涙がでてきて、ばれないようにしたけどばれてて、「なんで泣いてるのー」と
感受性が高く、すべてに真剣に向き合うタイプ。 やっぱりしんどい。 感受性が豊かなことは悪いことじゃない。 立派な個性だと思ってるし、 感受性が豊かなことを良さとして精一杯発揮すればいいと、そう思ってるけど それが良さだと、強さだと 社会ではまかり通らない。 発揮する場所も社会も存在しない。 やっぱりそれが現実。 そう痛感する日々。 超めんどくさいしメンヘラだし、 自分と付き合うなんて絶対だれにもオススメできないし。 仕事もプライベートもやる気でなさすぎてダメだー。
星空に惹かれる理由は ロマンチックだから。 シンプルだけどこれが全てである。 あの星の光は何年前に出発したものなのかなとか 地球がまわってることとか 星々が平面的に見えるなんてどれだけ宇宙は広いんだとか スケールのでかいことを考えていると 心が開放的になる。 なんて自分はちっぽけなんだろうと思う。 超ありがちな理由だけどそれがすべてだ。 暗くて静かで 空気が澄んでてひんやりとしてることとか 見上げる姿勢がのどを開いて自律神経に良いとか そういうのもあると思うけど とに
今、紫金山•アトラス彗星が話題になっている。 「君の名は」で描かれていたような、 大きな尾をひく彗星が見られる。 それを撮りたくて最近は日の入り時刻に西の空をしきりに気にしていた。 そしてついに先日撮れた。 わたしは星空が好きだ。 今年の夏も剣山へ登り星を撮ってきた。 なんで星空が好きなんだろう。 このことについてはまた後日書くとして、 星空を見上げているときによく頭に浮かぶ言葉がある。 「永遠」である。 ファインダーをずっとのぞいていても、星が少しずつ動いているのが
愛とは、心の距離でそばにいたいという感情だと 前の前?の記事で書いた。 その考えには変わりないが、この記事ではもう少しいろんな側面から愛することについて考えてみたいと思う。 愛するとは、与えること 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。 愛は与えることであり、もらうことではない。 何を与えるのか。 与えるとは決して物質とは限らない。 物質とはすなわちプレゼントなどで、つまりお金である。 お金で買えるものをもらっても「愛がある」とは言い切れない。 それよりももっと
わたしは最近マッチングアプリを頑張った。 いいねが来た相手のプロフィールを読み、左右に指先を振り分ける。 マッチした人とメッセージのやり取りをする。 やり取りが続いた人と会う約束をする。 会って、2回目の約束をする。 そういう◯次選考を重ねていく。 選考のたびに落ちていく人がいるわけで、 落ちる人は「ピンとこなかった」人だ。 ピンとこないとはどういうことか。 最近読んだ本にこう書いてあった。 「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」 「その人が無
マッチングアプリのプロフィール欄に 「優しい方だと思います!」 と自称してる人を見るといつも首を傾げてしまう。 何を根拠に自分を「優しい」と評価しているのだろう。 「優しいとよく言われます!」もある。 友人や職場の人に言われるのだろうか。 しかしそういう人に向ける優しさと 恋人に向ける優しさは全然性質が違うと思う。 それをアピールのために自分で書く意味はなんなんだろう。 後者はまだしも前者の「自称優しい人」は 99%地雷だと思っている。 優しさにもいろいろあり、地雷を踏ま
大概の男の人は笑ってる女の人が好きだ。 パートナーとは笑顔の絶えない日々を過ごしたいという理想を語る人も多い。 わたしも、愛がなんだとかごちゃごちゃ書いているけど 一緒にいるとたくさん笑っていられる人がいいと思っている。 人はどういうときに笑うだろう。 友達と喋ってて「可笑しさ」に笑う 料理を食べてあまりの美味しさに笑みをこぼす きれいな花束をもらって嬉しくて笑う 「笑う」は大きく2つある。 1つは 笑顔を見せる(smile) もう1つは 笑い声を出す(laugh)で
わたしとアサギマダラとの歩みを記します。 2021年苔目当てで行った祇王寺でたまたま出会った美しい蝶。 一瞬で心を奪われ夢中でシャッターを切った。 今思うと本当に奇跡の写真。 まだAPS-Cにzuikoつけてた時代だから マニュアルフォーカスだし、 そういう意味でもよく撮れたなと笑 帰って父に撮った写真を見せると 「アサギマダラやな。この時期に大移動する渡り蝶で、フジバカマっていう花に休憩しに来る。」 と教えてもらった。 アサギマダラとの出会い。 2022年松葉杖生
「自分に自信がない」「自己肯定感が低い」 だから「承認欲求が強い」し「自分磨き」をせっせとする。 現代社会でよく耳にするワードである。 人に愛されるには、人を愛さないといけない。 そして人を愛するには、自分を愛せないといけない。 あなたは本当に人を愛せていますか。 見返りほしさで人に優しくしていることがありませんか。 人になにかをしてあげて、その見返りがなくて傷つく。 そんなの偽善の押し付けであって、自己満足であって、本当の愛ではない。 愛は受け取るものか与えるものかで
「こういう言葉がほしかったのに全然違うことを言われた」 「励ましてほしかったのに余計悲しい気持ちになった」 向こうも考えた上で言ってくれてるのはこっちも分かってるから、期待した効果が得られないと身勝手にも余計傷つく。 期待するのは信頼してるからなのに、やっぱこの人に話すのは間違えたな、次からはやめよってなっちゃうと信頼できる人を1人失うことになる。 そんなの悲しい。 勝手に期待して勝手に傷つくのは辛いし相手にも失礼だから 期待しすぎないのが大事だよ。 そうなんだけど
仕事で来客があったとき飲み物をお出しする。 ひと仕事終えたときに後輩に自販機を差して「何か飲む?」と声をかける。 友人に「茶しばこ」「飲みに行こ」と言う。 災害に遭われた方に温かい飲み物を提供する。 「飲み物どうぞ」はただの水分補給ではない。 「吐き出していいよ」の合図だ。 心理的安全性を担保しますの合図だ。 飲み物を提供する側にとってはそこまで深い意味のことではないのかもしれない。 本当にただの「水分補給してください」かもしれない。 でも受け取る側にとってはそれは 心
共感能力とは小さな愛を与えることだ。 ただ共感することや同調することではない。 対話をとおして相手の感情の経緯を理解しにいくこと。 言葉にならない感情を言語化するお手伝いをしてあげること。 傷つき朽ちて、丸くカチコチに固まってしまった心に、小さな愛という水を与えて解きほぐしてあげること。 「ちょっと話聞いてください」と相談されたときは 相手が津波の中で立つことも難しい状態なのか、 立てるけどどう歩けばいいのか分からない状態なのかは ちゃんと見極める必要がある。 一見後者だ