優しさとは

マッチングアプリのプロフィール欄に
「優しい方だと思います!」
と自称してる人を見るといつも首を傾げてしまう。
何を根拠に自分を「優しい」と評価しているのだろう。

「優しいとよく言われます!」もある。
友人や職場の人に言われるのだろうか。
しかしそういう人に向ける優しさと
恋人に向ける優しさは全然性質が違うと思う。
それをアピールのために自分で書く意味はなんなんだろう。

後者はまだしも前者の「自称優しい人」は
99%地雷だと思っている。
優しさにもいろいろあり、地雷を踏まないためには
ちゃんと優しさを見分けないといけない。

気が利くだけで愛がない優しさ

  • 重そうな荷物を持ってあげる

  • 車道側を歩いてくれる

  • エスカレーターに乗る時は下に立ってくれる

  • 毎日おはようおやすみとLINEを入れてくれる

わたし的にはこういう行動を恋人にされても「優しい」とはあまり思わない。
優しいとしても「愛がある」とは思わない。

なぜなら、こういう行動を「優しい行動」だと知識として習得していれば
目の前にいる相手に対してそれを実践することなんて誰でもできるからだ。

わざわざ実践してあげることが愛があるってことなんじゃないか?
と元カレに言われたこともあるが、ちがう。

後に書く、他の「愛ある行動」を日々している上でこういった気の利く行動もあるなら、多少愛あるものとして受け取れるが
日頃愛ある行動がなければ、こういう「気の利く」行動自体は愛があることの何の証明にもならない。
ただ「優しい彼氏」という外面を保ちたいからだ。あるいはただの自己満足だ。

ではどういう行動が「愛ある行動」なのか。

愛がある優しさ

「愛ある行動」とは、
相手が目の前にいなくても、頭の中、つまり自分の想像の中に相手がいることに起因する、主体的な行動 だと思う。

  • 残業で疲れてるだろうから甘いもの買っといてあげよう

  • 涼しい顔で飲み会送り出してくれたけど内心心配してるかもしれないから帰る前に連絡入れよう

  • 夕焼けが綺麗だ 一緒に見たかったな 写真撮って送ろう

こういう行動が愛ある行動だと思う。

サイコパス元カレと喧嘩したときのやり取りを思い出す。

「じゃあ愛するって何?どういう感情?」
「……。そばにいたいという感情」
「でも最近休みの日ドライブしたりするの減らしたいって言ってるのそっちやん」
「ちがう。心の距離でそばにいたいという感情

咄嗟に出した回答だけど、我ながら良い答えだったと思ってる。

またこうとも言われたことがある。
「お願いされたことをやってあげることが優しさじゃないん。」
「何してほしいかちゃんと言われな、分かるわけない」

愛ある行動とは絶対に主体的で能動的なものだ。
受動的なものではない。
言われたことをやってあげるなんて誰にでもできる。
しかも言わせるのも相手任せだなんて、そこに絶対に愛はない。

本当に優しい人は優しくできている自信がない

愛ある優しさとは、目の前に相手がいなくても頭の中で相手がいることによる行動に表れると書いた。

自分の想像の中に相手がいるには、前提として相手を知りたい•理解したいという気持ちが必要だ。
相手がどういうときにどう思うのかを常に考えること。
そしてそれにゴールはない。
自分でも自分のことを100%知っている人なんていないのに
他人にそんなことできるわけがない。
だからこそ知ろうとし続ける。それが愛だ。共に生きるということだ。

「優しい方だ」と自称するのは
「僕もうゴールに辿り着いてます」と言っているようなものだ。
ゴールなんて人によって異なるのに。
自分でも自分のゴールなんて辿り着けないのに。

その人その人のゴールをいつまでも目指し続ける姿勢が「優しい」のだ。
そしてそれは「ちゃんと目指せてるのか」と不安になりながら五里霧中で探すようなことだ。
「優しくできているか」は常に不安だ。
「優しさ」とは自己評価するものでは決してない。相手が評価するものだ。

優しさの中の愛のグラデーション

これまで優しさの中に愛があるかどうかについて
0 or 100で語ってきたが、実際は0〜100のグラデーションがある。

冒頭の方に、友人や職場の人に向ける優しさと
恋人に向ける優しさは全然性質が違うと書いた。

前者は、小さい愛の優しさでも「優しい」と感じられる。
しかし後者にはより大きな愛の優しさが必要なのだ。
周りの人と同程度の大きさしか与えられないのでは恋人である意味がない。
傲慢だろうか。私はそうは思わない。

友人や職場の人なら、「気の利く行動」や「受動的な行動」に対しても「優しいな」と受け取れる。

  • あたふたしてる様子を見て「手伝うよ」と声をかけてくれる

  • この仕事教えてくださいと言うと丁寧に教えてくれる

「気の利くだけで愛がない」と述べてきたが
実際にはこういう行動も小さな愛がないとできない。
「大変そうだな」「難しいよな」と自分の想像の中に相手がいるからできる。
ちゃんと想像してくれているのである。
しかし目の前にいたり、お願いされると、想像をする難易度が低いのだ。
だから愛が小さくても優しさを発揮できる。

しかし目の前に相手がいない場合の想像は
愛が大きくないとできない。
想像し、さらに行動するのは
もっと愛が大きくないとできない。

まとめ

いろいろ書いてきたが、大事なのはこれだけだ。

愛するとは、
自分の中で相手のことを想像すること。
自分の心の中に相手がいつもいること。
心の距離でそばにいたいと思うこと。

そして
目の前に相手がいない状況や、
受動的でなく能動的に動くなど
難易度が高い状況で、想像してくれるかどうかで
愛の大きさが分かる。

そして心の距離でそばにいたいならば
相手をよく知ろうとすること。
そこにゴールはない。

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