自己評価と自己愛に縛られる人生
わたしは最近マッチングアプリを頑張った。
いいねが来た相手のプロフィールを読み、左右に指先を振り分ける。
マッチした人とメッセージのやり取りをする。
やり取りが続いた人と会う約束をする。
会って、2回目の約束をする。
そういう◯次選考を重ねていく。
選考のたびに落ちていく人がいるわけで、
落ちる人は「ピンとこなかった」人だ。
ピンとこないとはどういうことか。
最近読んだ本にこう書いてあった。
「ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です」
「その人が無意識に自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は、”ピンとこない”と言います。」
私の価値はこんなに低くない。もっと高い相手でなければ、私の値段とは釣り合わない。
無意識にそう考えていた。
傲慢かもしれない。
でもアプリなんて無限にいろんな人があふれる市場であり
そこから買えるのは1点のみとなれば
どうしてもお買い得商品を探してしまう。
実際、私は自分に高い値段をつけていると思う。
名の知れた高校・大学を出て、
顔も同性にけっこう褒められるほどではあり
仕事も趣味も向上心をもって頑張っていて
自分の強みを理解しそれを高める努力もしている。
だから異性にも厳しい。
本当は、愛があることが最も重要で
愛さえあれば誰でもうまくやっていけるということも、頭ではわかっているつもりなのに
愛がゼロのサイコパスと付き合ってしまい
愛があるとはどういうことかを考えまくったことで
愛があるかどうかについても厳しくなってしまった。
そしてサイコパスと結論づけた元カレでさえ
わたしが感性が強くて繊細な人間であるがゆえに
不誠実さや愛のなさを敏感に感じ過ぎていた、
つまり厳しくなっていたのかもしれない。
思いやりや愛が小さくても
そういう適当さや鈍感さも優しさだと受け取れていたら良かったのかもしれない。
わたしは学生の頃はただただ
自己評価が低いくせに自己愛が強い人間だった。
それではダメだと思い、
自分を理解すること・自分を認めること・好きなことを磨くことを頑張って、
自己評価が高くて自己愛も強い人間になった。
今も頑張っている。
でも本当は別に頑張らなくてもいいのかもしれない。
自己評価とか自己愛とかそんなの考える必要なんてないのかもしれない。
ただ笑ってればいいのかもしれない。
わたしはきっと生きる意味がほしいのだと思う。
生き生きと生きがいを感じて生きたいんだと思う。
でもこれも自己愛が強すぎる考えなんだよな。
意味とか見出さなくてもただ生きてればいいじゃん。
何も考えず流れる水のように生きると楽だよってよく言う。
本当、そうだよなと思う。
それで満足できる人間だったらどれだけ良かったかと本気で思う。
でも、、、わたしという人間はどうしてもそんなの嫌なんだ。
理解されないだろうけど
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