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唐古・鍵遺跡がカギ!

欠史八代 第九話 第七代 孝霊天皇 ①

黒田廬戸宮くろだのいおとのみや

 六代までは伝承地が南部に集中していましたが、第七代 孝霊こうれい天皇はいよいよ奈良盆地の中央部に移ります。磯城郡田原本町黒田の法楽寺には孝霊天皇黒田廬戸宮伝承碑が立っています。また、法楽寺から南東へ500mほどのところには、孝霊こうれい廬戸いおと)神社があります。

伝承碑
聖徳太子開基の真言宗の寺院 本尊は子安地蔵菩薩
本堂 
由緒書
柳田国男は、『本朝神社考』(徳川家康に仕えた儒家神道の林羅山著)巻五に秦河勝化生の事を説いて「昔大和国洪水の折に、初瀬川はせがわが大いにみなぎり、大きなかめが一つ流れて来て三輪の社頭に止まる。土人くにびと開き見るに玉の如き男の子あり云々。後に又小舟に乗って播磨に著し、大荒明神(大避大明神/大避おおさけ神社)とあるのが桃太郎伝説の一番古いモチーフであろう」と記します。田原本町の言う伝説とはこの話のことですね。
昔は大きな寺院だったようです。
孝霊神社
 



唐古からこかぎ遺跡

 黒田廬戸宮くろだのいおとのみやの近くには、奈良盆地最大の弥生遺跡である 唐古・鍵遺跡があります。皇紀を単純に西暦で表すと、孝霊天皇の在位は紀元前290−215年ですが、私の考える時代は、弥生後期中葉 、2世紀の前~中期です。

唐古・鍵遺跡公園 遺構展示情報館
模型
唐古・鍵遺跡のシンボル 土器に描かれた絵を元に復元した楼閣
 遺構展示情報館内部
柱に使われていた樹齢110年のケヤキ材
紀元前4世紀頃の墓


紀元前5世紀頃に大和へ出雲の民がやってきた・・という妄想話を以前書きました。


唐古・鍵遺跡から弥生時代後期のことを考えてみましょう。


唐古・鍵のムラは、纏向まきむくへ移転した!?


唐古・鍵遺跡が最終的にどうなったか、先にお話ししておきます。

唐古・鍵ミュージアム展示パネル


 2世紀の後半、まるで纏向まきむく遺跡へ移転するかのように、環濠を放棄し、集落は解体されます。こうしたことは唐古・鍵に限らず、奈良盆地に点在するムラにある一定程度共通する事象でもあります。

 
『記紀』の記述に照らし合わせると、それは私の想定する時代では、孝霊天皇から数十年後、第九代開化かいか天皇の頃になります。開化天皇の宮は春日率川宮かすがのいさがわのみやで、現在の奈良市だと考えられていますから、開化天皇の頃には大和政権の支配が奈良盆地全体に及んだことが想像できます。

 纒向まきむく遺跡は大和政権の都として整備されていくわけですが、着手から、象徴的な箸墓古墳の築造を終えるまで半世紀以上の年月を要しています。

第十代崇神天皇の磯城瑞籬宮しきのみずかきのみやは纒向遺跡から南東へ3キロ程離れています。崇神天皇の頃にはまだ纒向の都は完成していなかったのでしょう。『記紀』は、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇の宮が纒向まきむくにあったと記します。

 私は『記紀』が記す欠史八代天皇の宮や陵の位置が、奈良盆地の主要な弥生遺跡と近接し、それを順を追って見ていくと、(年代は皇紀ではなく独自解釈ですが)、現在知ることのできる考古学的な知見と違和感無く繋がっているように思えるのです。

ところが、『古事記』『日本書紀』を肯定的に捉えない、もしくは無視して国の成り立ちを語る場合、どうしても矛盾が生じます。

 その代表的なものが、「邪馬台国纏向説」です。纒向まきむく邪馬台国やまたいこくの都で、箸墓古墳が卑弥呼の墓という説です。数ヶ月前、NHKスペシャル番組でもそうした内容が放送されていました。


 邪馬台国と女王卑弥呼が記されるのは『魏志倭人伝』で、他の中国史書にも登場しますが、全て魏志倭人伝のやき直しですから、『魏志倭人伝』にしか記されていない国と解釈しても差し支えありません。もちろん日本の歴史書には登場しません。その国がどこにあったか、江戸時代から議論が続いていますが、未だにその所在が確定しないという古代史の謎です。

私は纒向は邪馬台国では無いという立場で、根拠となることをこれまでも断片的に書いてきました。孝霊天皇の話から大きく脱線しますが、今回、唐古・鍵遺跡を紹介したので、ついでにこの件をまとめておきたいと思います。


人の往来が無いのは、どう考えても不自然


『魏志倭人伝』には、

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐

 「伊都国いとこくは女王国に統属し、(帯方)郡の使者が往来して常駐する場所である」と記されます。伊都国は福岡県糸島市周辺であることは、ほぼ一致した見解だと思います。

 纏向まきむくが女王国であるならば、その女王国の国際的な玄関口である伊都国と纏向との間に人の往来がなければならないはずです。

当たり前ですが、弥生時代は今のように奈良と福岡を日帰りで行き来することはできず、水行、陸行で何日もかかりました。食事をするための調理器や食器(土器)をもって行ったであろうと思います。他の土地からやって来た人々が持ち込んだ土器を「外来土器」と呼び、遺跡から出土する土器などによって、どこの地域と人の行き来があったのかをある程度推察することができます。

 ところが纒向遺跡から出土する外来土器の中に、北部九州のものがほとんど無いことは以前の記事で書きました。

 纒向遺跡はまだ全体の数パーセントしか発掘調査が行われていないため、今後出土する可能性もあります。もし大量の北部九州土器が出てきた場合、私の考えは間違っていたということになりますが、その可能性は低いと思っています。前述の通り、唐古・鍵と纒向遺跡には連続性があると考えられるため、唐古・鍵で出土した土器から考えることも有効だと思います。

唐古・鍵遺構展示情報館パネル ⑫をご覧ください


 何十万点にも及ぶ唐古・鍵から出土した土器の中で、北部九州の土器のカケラはたった1個だけ見つかったそうです。これは、人の交流があったというより、リレー的に持ち込まれた土器の破片だといえるのではないでしょうか。


これでもまだ納得出来ませんか?(笑)


 それでは伊都国いとこく側を見てみましょう。伊都国歴史博物館の展示パネルをご覧ください。

伊都国博物館の展示パネル


やはりこちらでも畿内との人の交流はみとめられませんね。


ただし、伊都国歴史博物館と、唐古・鍵ミュージアムの両方のパネルをよくご覧ください。

唐古・鍵ミュージアム展示パネル

両方の国と交流している地域があります。瀬戸内(吉備)・尾張です。

もしこれらの地域の海人族の仲介があったならば、邪馬台国畿内説も成り立たないわけではありません。


NHKのスペシャル番組では、邪馬台国は東国と争っていたと言うが・・


其南有狗奴國 男子為王

 女王国の南に狗奴国くなこくがあり、男子が王となっている。そしてこの後に続く文章で女王国はこの狗奴国と攻撃しあっていると書かれているのですが、NHKの番組では納得いく説明もなく(私が見落としていただけ?)、狗奴国が南ではなく、東の国になっていました。

東の狗奴国ってどこを指すんでしょうか? 

 唐古・鍵もそうですが、纒向遺跡で出土する外来土器の割合は、5割が尾張・伊勢方面、瀬戸内方面が約2割です。もし東の国を尾張だとするなら、争っている国と人が行き来するはずもなく、先ほどもし尾張等の海人族の仲介があったら邪馬台国畿内説もありかなと書きましたが、争っているならそうしたことは成立しません。

 それとも、東の狗奴国は、東海・関東辺りにあったのでしょうか? 九州から大和、尾張までの邪馬台国連合と、関東・東海にあった?狗奴国が争ったということでしょうか。。

凄いですねぇ〜。卑弥呼の時代(3世紀中頃)に、そんな広範囲に国同士が連合して、東西決戦、関ヶ原の戦いのようなことがあったのでしょうか?

どこにもそんな形跡は無いように思いますが。。


畿内の人は黥面文身ではなかった!


話は変わります。『魏志倭人伝』には、

男子無大小 皆黥面文身

と記されています。この部分は有名ですね。男子は大人・子供の区別なく、皆、顔と体に入れ墨しているという意味です。邪馬台国の時代、日本人は皆顔や身体全体に入れ墨をしていたと。

 ところがですね、奈良盆地に暮らす人々は顔に入れ墨はしていなかったようなのです。畿内から出土する線刻画が描かれた弥生土器には黥面のものがありません。

  帯方郡の使者が纒向に来たのなら、黥面文身していない倭人も見たでしょうに。。

唐古・鍵ミュージアム展示パネル



箸墓古墳は卑弥呼の墓なのか?

 箸墓古墳の築造年代が3世紀中で、『魏志倭人伝』に記される卑弥呼の死と符合すること。さらに卑弥呼の墓の「径百余歩」が箸墓古墳の後円部径(150m)と合致すること。まさにこの二点が纏向説の最大の論拠といえます。

 しかし、言い換えれば、「その時間あなたは現場にいた。身体的特徴が目撃者の証言と一部で一致する。だから貴方が犯人だ!」というような乱暴なロジックでもあります。もし箸墓古墳が築造から変わらぬ姿であったなら、帯方郡の使者が中国では見たことの無い前方後円墳というカタチを、単に「径百余歩」と記すでしょうか? 後円部の直径だけ一致するからというのは、どうなんでしょう。。

池の水を抜いた状態
箸墓古墳の赤外線画像 前方部は後で継ぎ足した二段階築造説というのもありますが。纒向の古墳は箸墓だけじゃありません。前後同時期の前方後円墳の調査からすると、箸墓古墳が最初は円墳だったとするのは無理があるように思いますね。


さて、文字数が4000文字に近ずいてきました。この話はきりがないので、これくらいにしておきます。


最後までお読みいただきありがとうございます。次回、孝霊天皇②をお届けします。

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