『「40歳を超えて、大学院へ行く」ということ』㉚大学院1年生・2月後半---「反省」と「病気」。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
(※この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「バレンタイン」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います。今回は、大学院に4月に入学し、年がかわった、2月後半の話です)。
大学院で学ぼうと思った理由
元々、私は家族介護者でした。
1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのは、介護に専念して10年が過ぎた頃でした。
私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。
「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由
それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。
(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。
同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間でも感じてきました。
もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士や公認心理師を目指したい。
さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。
この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
よろしくお願いいたします。
ただ、この記事は、ほんの一例ですが、介護をしながら学んでいる人間の記録でもあると思います。
今回は、40代後半になってから、在宅で、妻と一緒に義母(妻の母親)の介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、年を超えて大学院1年生の2月後半の頃の話です。
なお、大学院の同期は10数名です。学部からそのまま進学した人と、社会人入学の人が大体半々。女性の数がやや多いという構成です。特定を避けるため、個別な人に関しては、曖昧な書き方になっていますが、時間が経つごとに、春から夏、秋から冬になり、1年間が終わる頃は、同期とも交流が増えてきたと、思っていました。ただ、2月になると、講義もほとんど終わり、学校へ行く機会自体が減ってきましたが、実習などは続いています。
バレンタイン
2月14日。月曜日。
朝、といっても昼過ぎに起きたら、妻からのプレゼンとがありました。
秘かに今日のために用意してくれていたようでした。手描きの絵が入った手紙や、絵を描いてくれているパッケージで、その手紙も御礼の言葉が並んでいて、すごく嬉しい。さらに有り難い、と思います。
いつも、ちゃんと気持ちがこもっていて、それが、うれしい。御礼を言ったら、とんでもない、みたいなことを言われて、なんだかよけいにありがたい気持ちになりました。
午後に歯医者に行き、先週から舌が痛くて,という話をしたら、おそらくここのところが、と言いながら、治してくれている歯の周辺まで念入りに削ってくれました。おそらく大丈夫だと思います、と言ってくれました。
舌でさわっただけで、この前とは違ってつるつるなのが分かって、痛くなくて、ぜんぜん違和感もなくて、すごく気持ちが楽になりました。
帰って、「なんとなく機嫌が悪そうにしていたのは、そのせいだったんだね。言ってくれればいいのに」と妻に言われ、「え、ちゃんと言ったのに」と答えたら「そこまで気になっていたなんて分からなかった」と返ってきたので、感情を抑える癖がついているのかも、と自分をちょっと疑ってしまいました。
昨日から、今度、一緒に展覧会に行きたいという提案が同期からされたのですが、いろいろと勉強会とか、研修会とかが重なる日程になってしまい、最近は実習の事とか、いろいろと重なるなあ、と思いながらも、こういうメールでのやりとりがちょっと面白いな、と思ったりしていました。
昨日から、修士論文のためのテープ起こしをせっせとしていて、そのためか、少し不安が減って来たようです。それに、これからも、もっと研究をしたいという気持ちになってきた部分があって、あれだけ、論文に対して苦手意識があったのに、自分でもけっこう意外だと思ったりもします。
ただ、それだけではなく、研究のためのインタビューの依頼の手紙を出し、という事も進めて、4月にはとても手間のかかるGT A(グラウンデっド・セオリー・アプローチ)の分析を一人分だけでも終わらしていたい、という目標があります。
というようにやることがあって、当面は一応生活していける、というのは、やっぱりぜいたくなのだろう、と思いました。
つい2日前に、若い同期と話していて、その未来の長さがやっぱりうらやましかったのですが、同時に同期の人たちの不安な思いを感じると、あの種類の揺らぎは、歳を重ねてしまった今の自分には持てなくなってしまったものだと思い、それは、言われる当人たちは嫌だとは思いますが、どこかかけがえのないもの、のようにも感じていました。
夜は、介護が続きます。
受付
2月15日。火曜日。
春休みになっても、カウンセリング施設の受付の実習は、変わらずにあります。
昼前に家を出たら、地下鉄がトラブルで遅れて午後1時くらいに大学に着きました。休みに入っているから、学校の中は人が少なくて、それでも学食のガラスに向かってダンスをしている学生がいます。
午後1時15分くらいにカウンセリングの施設に行ったら、本が並んでいて、それは今年の3月でやめる先生が寄贈してくれるものでした。実習ゼミでお世話になっていたのですが、研究室に、こんなにあったんだ、と思い、そして、25年間臨床心理学の世界で仕事をしてきたのに、家の都合で、違う職種になるんだと思い、整理しながら、少し読んだら、その先生らしい、と思える部分にアンダーラインがひいてあったりもしました。
受付の実習が始まると、電話が何本もかかってきて、今日は大学院の面接の日で、ちょうど1年前に私は面接を受けていた日で、そういえば、とても緊張していたし、そして、筆記のときとは違って、受かりたい、という気持ちにもなっていたのを思い出し、今振り返っても、よく受かったな、と改めて思いました。
この1年間で、いろいろな不安があって、資格をとったとしても、それがすぐに仕事につながらない資格だというのが分かって来て、そして、特に自分のように歳を重ねた人間には、仕事そのものがないのも知るようになり、なんだか不安がさらに増した時期もありました。
今は修士論文を書くために、けっこうその不安の方が大きく、なんというか、その論文が自分にとっては、一冊の本を書くのと心構えとしてはほとんど同じであり、作品であることに変わりがないんだ、と思えるようになったら、不安もあるのですが、やる気も出てきています
ただ、1年間、学生をやってきた中で、目の前のことをきちんとやっていけば、それがそのまま報われたり、ということはないにしても、ちゃんとやっていかないと未来はない。というのが何となく肌で分かって来たので、とにかく、不安がる前に目の前のことをきちんと取り組んでいく。そのものが自分にとって大事だ、というのを、別にきれいごとでなく、思うようになりました。
ボクシングの「はじめの一歩」のアニメを見ていたら、その中でも出て来た言葉が、努力する者が報われるとは限らないが、成功している者は必ず努力している、というような事は本当なんだ、と思えるようになってきたのは、ある意味で歳をとってきた、ということかもしれません。
実習の受付は、電話がたくさんかかってきて、今日のページがいっぱいになり、先生に電話をつないでいる間に時間が過ぎて、いつもより早く過ぎたような気もしましたが,そのあとに、閲覧室へ行ったら,同期の人たちが何人かいて,少し話したので、それで、なんとなく楽しくなって、それから、家に帰ってきました。
妻と夕食を一緒に食べて、テレビを見ていたら、夜中になり、ここから介護が続きます。
反省
2月16日。水曜日。
昨日は実習だったが、今日は、実習の振り返りという名の反省会です。
この1年ほどのことなので、やっぱり気持ちが重い部分はあったのですが、昨日と同じように電車に乗って、地下鉄で食事をしながら、いつもの駅に着きました。
電車を降りて、コーヒーを買って、大学院の閲覧室へ行って、長らく借りていた本をようやく返して、ほっとして、それからオープンスペースへ行きました。
机がなく、いすが丸く配置されているだけの場所になっていて、真ん中の空き地がちょっと広い、と思いつつ、学生は全部で6人くらいで、スタッフと先生の方が多い、というような状況で少しやりにくい、と思いつつ、最初は感想で、かなり無難な話をしたのは、もっと気になっていることを機会があれば、話そうとしていたからです。
スタッフや先生方の話は、実習生の学生に対して、もう少し相手のことを考えてほしい、周りのことを考えてほしい、というような内容で、それはもっともだと思いました。途中で一人抜けたりもして、それでも話は続き、どうしようかな、と思いながらも、残り時間が10分になり、要望は?という話題になり、もう時間はあまりないものの、自分が当てられたので、周りを見て、話を始めました。
それは、できたら、伝えたい内容でした。
それがあまり深刻にならないように、誰かを責めないように、それでも、そうした場合の対応を考えてほしい、というような話をしました。
そうしたら、そのことを、最初に気にしてくれた実習ゼミの担当の先生から、さらに詳しく聴かれ、それで特定の誰かに責任がいくような流れになってしまったので、つい反射的に、そこに割って入ってしまいました。
それが、いいかどうかは分かりませんが、そこからもさらに話は続き、予定の時間がかなり過ぎ、申し訳ないと思いながらも、でも大事な話だし、来年度の1年生のためにも、というような事を思い、それでも伝えられてよかったかも、と思いました。
それから、大学院の閲覧室で、今日の逐語録を、今日参加した同期の人たちとワードで打って、起こし、それから、外へ行って、同期の一人と昔ながらの喫茶店でだらだらといろいろな話をして、やっぱり純粋なんだ、と感心して、それで何だか嬉しくなりました。
夜は介護です。
そして、明日からは、義母をショートステイで、4泊5日、特養に預かってもらうことになっています。
緊張
2月21日。月曜日。
妻がかぜをひいて、夜は「うーうーうーうー」というような声を出しながら寝ていて、辛そうでしたが、自分もよく眠れなくて、夜中遅くになって、やっと眠れた感じで、起きたら、午前11時過ぎくらいで、ああいつものペースになった、と思えました。
妻は病院にもう行ってきていて、それで肺はきれいで、という話を聞いて、とりあえずはよかったと思えました。
妻のかぜの具合によっては、明日の実習を休もうとか、思っていたのですが、だけど、もし今度は休んだら、実習の反省の時に、何かしら要望のようなことを、生意気にも伝えたわけですから、やっぱり行かないとまずいのではないかと勝手に緊張をしていました。
昼は食事をして、洗濯をして,皿を洗って、それから歯医者へ行って、一応、治療のメドがついた、と言われて、少しホッとしました。去年の8月くらいからずっと通い続けて、それが、何年も続くかと思えたので、少し終わりが見えたのは、ちょっと嬉しいことでした。
今日から、義母がショートステイから帰ってくるので、午後3時半には出かけたのですが、妻がかぜなので、今日は自分が中心になって、いろいろしないといけないと思うので、そこからちょっと緊張して、特養に着いたら、義母はちょうどトイレに連れて行ってもらっている時で、まずは無事でよかったと思います。
それから、いろいろな荷物と共に、義母と帰ってきて、一通り、いつもの生活に戻る支度が終わってから、妻にもう一度昼寝をしてもらって、夕食は、義母への寿司と、自分たちの弁当を買って帰ってきて、ショートステイからの洗濯物を洗濯して、それから、少し休んでから,義母に夕食を出して、洗濯を干して、自分たちの夕食の支度をして食べて、片付けをし、午後9時前に少し寝て、30分くらいで起きました。
それから、テレビを見ながら、何かをしようと思いながらも、何もせずに、気持ちが少しあせりながらも、座っていて、妻が今日は調子が悪いから、妻の様子に付き合って、みたいなことを思いながらも、それは言い訳っぽい、と思って、それでも、何かをやらなきゃ、と思いながらも、自分もカゼを少しひいたみたいでした。
だけど、まだいろいろとやることがあって、それがあんまり進んでいないので、やっぱり微妙にあせりながら、明日は実習と思うと、早めに寝ないと、みたいな気持ちになってしまいますが、義母が帰ってきたので、夜中から午前5時くらいまで介護が続きます。
恐れ
2月22日。火曜日。
先週、振り返り会で、少しだけとはいえ、要望のようなものを発言して、そこからその会は、予定よりも長くなってしまったので、何かしらの変化があるのかもしれないと、勝手に微妙に恐れていました。
通学の時間を使って、いろいろな音声を聞いたり、本を読んだりもしました。
妻にも介護者としてインタビューに協力してもらって、それを聞いていると、二人で本当にしんどい、というか、ぎりぎりの時間をよく乗り越えてきた---という気持ちになり、妻に対して強い感謝を感じました。
その話の中で、私が、母が入院する病院に通っていた頃に、行き帰りの電車の中で、よく本を読んで勉強していた、というイメージがあるらしいのが、少し意外でした。
あの頃の方がおそらくは毎日疲れていたはずで、それに比べたら、今は学校が楽しい、という状況なのだから、考えたら、電車に乗っている時間が40分以上になっているのだから、かなりの時間で、その時に、もっと本を読んでいれば、かなり読めるはずなのだから、たるんでいる、と言えるのかもしれない、などとも思い、今日は、少し読みました。
これは,丁寧なドキュメントでもあるように思いました。これだけ書けたら、その影響力はよけいに大きくなるだろう、と思って、ただの学生としては生意気な言い方になってしまいますが、アクスライン、という人に改めて感心もしました。
大学に着いて、いつもと同じようにカウンセリングの受付実習のために、カウンセリングのための施設に入りました。いつも通りに、と心がけて、時間を過ごします。作業があったから、かなり時間が早く過ぎた。時々、ぼーっとしてしまう瞬間があったのは、やっぱり、先週、自分が要望のようなものを言ったのを気にして、ちょっと勝手にいつもよりも緊張しているせいかもしれません。
だけど,一応は無事に実習も終わりました。微妙に気持ちが重いのですが、その重さは、自分が要望を出した分だけ、おそらく続くのだろう、とも思いました。
ペース
2月23日。水曜日。
妻がカゼをひいて、だから、なるべく妻の負担を減らすような工夫をしていて、買い物も行ったりしていて、そして、義母が、妻が昼を作っている直前に、もうすぐお昼ご飯を知っているのに、せんべいを食べるのを怒ったら、その5分後には、違うせんべいを食べているのを見て、怒り、「気をつけます、という言葉は嫌いです。やりません、と言ってください」と筆記ボードで伝えた数分後に、今度はティッシュで思い切り目をこすっていました。
かゆいこともあるのかもしれませんが、その行為は目に傷をつけ、今でも白内障で見えにくくなっているのに、もっと見えなくなると、眼科医にも言われているし、何度も伝えているのに繰り返すので、怒ってしまいました。
もしかしたら、妻がかぜで苦しそうな寝息を立てていて、午前5時頃に寝ても、そのあとも、けっこう眠れなかったりしていて,私自身も知らないうちに妙なストレスがたまっているかもしれません。
ほとんどの家族介護者にとっては、一人で行わらざるを得ない場合が多い現状では、2人も介護する人がいて、一見、優雅にも見えるかもしれませんが、でも、一人がちょっと病気になるととたんにうそみたいに負担がまた増えて、というような生活があるので、来年度から、何か実習を増やそうと思っていのですが、やはり無理ではと思うようになりました。
ギリギリの生活であることに変わりはないようです。
昼間の介護もなるべく行い、夜中の介護はいつものように続きます。妻の体調がこれ以上悪くならないように、なんとかしたいと思っています。
サイゼリヤ
2月26日。土曜日。
久しぶりに大学へ行き、学校の同期の何人かと会いました。
学内だけではなく、大学の施設を使って開かれた講座が開かれ、そこで学生だけでなく、いろいろな人が来ていました。今日、講座で話される先生は、いつものように、も自分の昔からの話もしてくれて、それはどの話もこちらの気持ちに届くような内容でした。
その場その瞬間で、確かに逃げずに来た人なんだ、というようなことが分かるような時間で、そのことを確かめられただけでも来てよかった、と思えました。
そして、そのことを考えながら、2時間がたち、今年の3月で学校も、臨床心理士もやめてしまう先生が司会をしていて、それを見ていても、いろいろなことを思い、それから、その講座が終わって、どうしようか、と思っていたら、その講座のアルバイトもしていた同期の人から食事でも、と声をかけられ、うれしかったので、作業が終わるまで待っていて、そこから6人でどこに行こうか、と話をして、駅前のサイゼリヤに行くことになり、歩きながら、話もしました。
それでサイゼリヤで299円のドリアを食べて,コーヒーを何杯も飲んで、アニメの話もして、そして、卒業旅行にはグアムに行こう、というような話をして、自分は介護があるから行けないとしても、そういったことを話すだけで、やっぱり楽しい時間でした。
こういう学生らしい話を、50歳になる年に出来るなんて、地味ですが、介護だけをしていた時から考えたら、ある意味では奇跡に近いんじゃないか、というような気持ちには、少しなりました。
そして、妻の体調もよくなってきたので、午後4時半から、2時間くらいそこにいることができて、そして、本当は、もっとここでダラダラと一緒にいたかったけど、でも、明日もあるから、と、解散になりました。
電車は、途中まで3人で、途中から2人になると、なんだか何をしゃべったらいいか、よく分からなくなって、まだそんなになじんでないのかも、などとも思い、だけど、そのまま途中の駅で、さようなら、と手をふってくれました。
それから自分は乗り換えの駅ビルで、『百年の孤独』を買い、靴下屋で、妻に今年のこの店の春のデザインはせめてる、と思えるような明るいのを買って、それから無印で何点か商品を買って、それから家に帰りました。
妻は介護もあり、家をなかなか離れられないので、出かけさせてもらっている私が、買い物の担当になっているようなところがあります。
帰宅したら、午後9時前だったので、一緒に岡本太郎のドラマを見ました。妻に、思ったよりも早めに帰ってきてくれて、よかった、やっぱり心細かった、と言われたので、帰って来てよかった、もっと早く帰ってくれば、と出かける申し訳なさも思いました。
妻は、寝てからもかなり激しくせきをして、それは何年かぶりだったので、苦しそうで、聞いていて、心細く、というか、すごく不安になりました。
調子が良くなったようでしたが、体調は、まだ戻っていないようでした。大丈夫?と声をかけたり、背中をさすったりもしていましたが、それでも、午前5時までの義母の介護も続きます。
病気
2月27日。日曜日。
妻がかぜをひき、もしかしたら私がうつしたかもしれないので、申し訳なく、なるべく大事にして、医者にもかかって、クスリをもらい、それでも治らず、夜中も激しくせきをして、こちらもよく眠れず、昼間もせきをして、安静にしてもせきが出て、あっためるとせきが出る、という妻に対して、重い気持ちになるのは、6年前の記憶と重なるせいかもしれません。
義母だけでなく、私の母親の介護もしていて、介護の負担が今より重い頃に、大人になってから妻が、ぜんそくになってしまったのが6年前のことでした。
そのときは、さらにいろいろなことをあきらめなくてはいけないんだと、ちょっと絶望的な思いにもなっていたのですが、病院に通ってくれたことや、薬もマメに使っていてくれることで、今は、私が大学院に通えるほど安定しているので、ありがたいのですが、カゼを引くと、今回のように長引いてしまいます。
この大学院の生活が終わったら、こういう介護だけの毎日にほぼ戻るわけですし、介護を優先させるのが何よりだから、それによって、仕事を探すのも限られてくるし、それならば、もう少し金銭的に余裕があったら、さらに博士課程に進んで研究して、というような日々の方がいいのかもしれない、などとちらっと思うのですが、それは、金銭的にもさらに厳しく、何より、この1年で、研究することの面白さのようなものに初めて気がついたとはいえ、自分の希望とは裏腹に、年齢的な衰えや、元々の能力の不足を考えると、分不相応の思いのように感じます。
とにかく目の前のことをやらないと、と思いながら、介護している毎日に、1人が病気になったら、その負担は倍ではなく、3倍くらいな気持ちになり、重くて顔を上げていられないような気持ちにもなり、だから、ちょっとサッカーボールを蹴ったり、走ったりすれば、このつまんなさ、というものが少しは変ってくるのかもしれない、などと買い物の途中に思って、それを想像するだけで、少しは気持ちがあがったのですが、帰って来て、またやるべきことをやっていくだけでした。
買い物の整理をして、お米をといで、横になって、それでもせきをしている妻に少し気持ちが明るくなるかも、とラジオをつけて、それから、義母の様子を見にいったら、またトイレに行きたくなった、みたいで、腰を浮かせるからトイレに連れていっていたとき、昨日、妻が言った「いてくれると心強い」という言葉を思い出し、なるべく出かけるのはやめよう、みたいなことを思い、それで、なんだか気持ちが暗くなりました。
改めて、この介護ばかりの生活に、普段は思わないような嫌気があがってきます。
これが、学生生活が終わったら、また戻ってくることになるのだろうし、資格をとったからといって、義母が生きている限り、介護は終わらないし、そのことにちょっと恐怖を感じて、自分で、それを見ないようにしているのは、その先の自分が老いていくことで、介護が終わった時に、自分自身が介護されてる立場にどんどん近づいていく怖さを直視したくないせいだと思いました。
それは、とても怖いことでもあり、仕事をしたい、と思いつつも、そう簡単にいかないのだろう、とやっぱり思い、今みたいに、学生の気分が味わえるというのは、ぜいたくなのは間違いない、とも思います。
時間が確実に進んでいます。
かぜ
2月28日。月曜日。
妻のカゼがまだ治っていなくて、それで,昨日は文句みたいなことを言ってしまうようなこともあり、申し訳ない、というようなことも思ったのですが、でも、なんだかうんざりしてしまうという気持ちもあって、2人で介護していても、妻がカゼをひいただけで、もう余裕がまったくありません。
今日も「なるべく寝た方がいい」と妻に伝えたので、それを手助けするために、なるべく協力をして、昼間の介護も私がやるようにしているので、それで、なんだか時間がたってしまって、いろいろとやることはあったものの、出来ないままで、どこかで妻の病気だから、しょうがないという言い訳を自分の中で言っています。
朝、アルツハイマーになった自分の母親を記録として撮影してインターネットで公開している、という女性監督の話があったから、録画した、と言われて、妻と一緒に昼間に見ました。
そうしたら、前向きだとか、向き合うとか、受け入れる、とか、介護を始めた頃に「専門家」と言われる人から、何度も言われたことを思い出し、それが嫌だったことも思い出しました。
その傾向が、あまり変っていないこと。そして、その女性監督の扱われ方の、おっかなびっくり感を見て、もしかしたら、自分も全く違う立場とはいえ、あんなふうに見られていて、そして、私は、その監督と違って、社会的には何の力も蓄積もないから、尊重されずにいるのだろうと思ってしまいました。なんだか自分の無力感を改めて思い、少し暗くなりました。
そうこうするうちに夕方から、夜になり、すごく眠くなって、義母に買って来た弁当を皿にうつしかえて、義母に出してから、2階の部屋へ行ったら、妻も眠っていて、一緒に少し寝たら、どこかへ行って、なにかの狭い場所で競争するかのように、何かの競技をしていて、妙な争いごとをしているような、なんだかあいまいな夢を見ました。
なんだか勝手にあせっていて、それは、ずっと狭い世界で生きてきて、その中で何とかしていく、というよりは、一度はもう少し広い世界を知った上で、また、でも、それは限られた時間に過ぎず、広い世界を知ってから、また狭い世界へ戻る強い不安があるんだろうな、とも、あとで思いました。
明日は実習ですが、妻がかぜだし、休もうとも思ったのですが、妻と相談して、行った方がいいと言ってくれたので、明日の調子次第ですが、ありがたくそうさせてもらうことにしました。
でも、一人でも病気になると、本当に生活そのものがガラっと変るのを改めて感じました。それは、ちょっとした恐怖、でもあるのも、分かりました。
(他にも、介護について、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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