『「40歳を超えてから、大学院へ行く」ということ㉔「ファミレス」と「誕生日」
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。
(※この『「40歳を超えてから、大学院に通う」ということ』シリーズを、いつも読んでくださっている方は、「分かる」から読んでいただければ、重複を避けられるかと思います。今回は、大学院に4月に入学し、半年以上が経った11月後半の話です)。
大学院で学ぼうと思った理由
元々、私は家族介護者でした。
1999年に介護を始めてから、介護離職をせざるを得なくなり、介護に専念する年月の中で、家族介護者にこそ、特に心理的なサポートが必要だと思うようになりました。
そうしたことに関して、効果的な支援をしている専門家が、自分の無知のせいもあり、いるかどうか分からなかったので、自分で少しでも支援をしようと思うようになりました。
そして、臨床心理士の資格を取得するために、指定大学院の修了が必須条件だったので、入学しようと考えました。それが実現したのが2010年です。介護に専念して10年が過ぎた頃でした。
私自身は、今、振り返っても、40歳を超えてから大学院に入学し、そして学んで修了したことは、とても意味があることでしたし、辛さや大変さもあったのですが、学ぶこと自体が初めて楽しく感じ、充実した時間でした。
「40歳を超えて、大学院に通うということ」を書こうと思った理由
それはとても恵まれていたことだとは思うのですが、その経験について、(すでに10年以上前のことになってしまいましたが)伝えることで、もしも、30代や40代や50代(もしくはそれ以上)になってから、大学院に進学する気持ちがある方に、少しでも肯定的な思いになってもらえるかもしれない、と不遜かもしれませんが、思いました。
(もちろん、資格試験のために大学院へ入学するのは、やや一般的ではないかもしれませんが)。
同時に、家族介護者へ個別な心理的支援を仕事として続けてきたのですが、少なくとも臨床心理士で、この分野を専門としようと思っている方が、かなり少ないことは、この約10年間でも感じてきました。
もしも、このnoteを読んでいらっしゃる方の中で、心理職に興味があり、臨床心理士や公認心理師を目指したい。
さらには、家族介護者の心理的支援をしたいと思ってくださる方がいらっしゃるとしたら、できたら、さらに学ぶ機会を作っていただきたい、という思いもあり、改めて、こうして伝えることにしました。
この私のnoteの記事の中では、もしかしたら、かなり毛色が違うのかもしれませんし、不定期ですが、何回かに分けて、お伝えしようと思います。そして、当時のメモをもとにしているため、思ったよりも長い記事になっています。
よろしくお願いいたします。
今回は、40代後半になってから、介護を続けながらも、臨床心理学専攻の大学院に通えることになり、秋の新学期も進んで、11月の後半になった頃の話です。
分かる
11月16日。火曜日。
昨日の夜は、介護もあるのですが、けっこう遅くなったのは、今日の発表のためもありました。それでもいつもと同じように受付の実習はあるし、起きる時間は少し早めだし、といっても最近はあせりもあるせいか、眠りが浅いというか、トイレの回数が多いというか、そんなによく眠れた感じがしませんでした。
午前11時頃に起きて、支度をしてセブンイレブンで食事を買って、それから地下鉄へ続く電車に乗って、途中で音楽を聞きながら、少し眠りました。午後1時半くらいから始まった受付の実習はものすごくゆっくりと時間が流れていきました。
その間にいろいろなクライエントの人達も来て、電話は少なく、だんだんと時間はたって、あれだけ、あと3時間もある、とか思っていたのに、あと数分みたいな感じになって、早く発表のコピーをしないと、と気ばかりあせって、実習が終わってから閲覧室に行ったら、今日発表の同期の人達がいて、自分の分もあるのに手伝ってくれて、それでコピーも終えることができました。
それから学食で学校の名前がついている丼ものを食べて、ついでにアイスも食べて、教室へ向かって汗をかいたからシャツを着替えて、少しバタバタしていたのですが、それから講義が始まり、自分が最初の発表者でした。
いつも話し始めると、なんだかあせった感じになって、自分で嫌だな、と思ったりもしていて、話しながら修正をしようとしていました。
だけど、そこそこ反応もよくて、指導教授も少しは評価してくれている感じは分かったのですが、それでも、反応がよくない同期の人もいたので、聞いていてつまんないのかな、とも思い、そこからも、かなりしゃべりました。いろいろな資料も用意し、いつの間にか、私はそうした小道具を準備しないといけないような感じにもなっていたのですが、それでも、つまりは自分の全てを出そうとしていたのも事実です。
やっと終わってから、次の人が発表をして、わたしが難しくて手を出さなかった部分をちゃんとやろうとして、それはナイスチャレンジでもあったと思いました。あとで、このへん逃げたでしょ。と同期に責められ、その通りなのであやまったりもしました。
それからまた発表が続き、その中で、話を聞いて考えているうちに、自分の存在のあやうさみたいなものを考え、生まれたばかりのときは、すごくあやふやな存在なのだから、最初に誰かにここにいていいよ。と承認してもらえなければ、そこからどこへも行けるわけがない。それが小さい頃から全くされていなければ、自分(自己)なんて出来るわけもない。不安と緊張の固まりになっていて、だからこそ、周囲のことに異常に反応するのは、ものすごく緊張しているせいで、だから、問題はその存在をそのまま認めてあげること。この時は、まさに「あげる」だと思いました。
それはある意味では親の代わりをするのだから。ものすごく強い不安と緊張で激しく動き、近づくと逃げ、遠ざかると寄ってくる、そんな固まりを、少しだけでも落ち着かせることが出来て、こちらが全身でぎゅっとして、ここにいてもいいよ、と伝えられること。それが出来れば、おそらく病的な状態は快方に向かうはずだ、と感じました。
やっとその講義の意味も少し分かった気がしました。でも、それは荷物を多く積まなくてはいけない、ということでもあるので、なんだか覚悟がいるものでした。
変な話だけど、家に帰って、さらに考えると、幼い女の子は存在を認めることだと思った。ギュッとすること。男の子は、よくやったね。とほめてあげること。やったことを認めてあげること。たぶんそのくらいの違いはある。そんなことが、分かって来たような気がしました。
それは、自分の経験の、これまでの生かし方が分かって来たせいかもしれません。昨日、プロの人から、子どもを育てた人と認知症の介護をしてきた人は、ノンバーバルの能力があるから、臨床家として優れた存在になっていく可能性がある、という話を聞いたけど、たぶん、相手がどんな状況であっても、存在を認められる力がつく、ということだと思いました。
そういえば、そんなことを感じた記憶が確かにあります。ただ、非言語が分かるというのは、優れた点というよりも、ちょっと怖いようなことでもある気がしました。
雨
11月17日。水曜日。
朝からやたらとうるさいガス工事が近所で続いていて、なんだかよく眠れず、夜中近くに帰ってきたら、まだ工事をやっていて、妻に聞いたら、夜になって「ガス漏れがありました」と言って来て、だから工事を続けていると聞いたけれど、それは断言は出来ないが、工事中にどこかキズつけて漏らしちゃったんじゃないの?と疑ってもおかしくないことでした。
そんなに都合よくガスの工事をやっている時に、ガス漏れが発見されるわけがない、という話を少し妻として、その工事は夜中の12時過ぎまで、道路を固める音を響かせて続いていて、終わったのが午前1時だったのですが、今日は久しぶりにそれほどの焦りもなく起きることができました。
課題や発表や実習のことや、まだいろいろとやることがあって、学生のうちは、こういう生活が続くんだろうな、と思っているのですが、介護はずっと続いていることもあって、リズムを整えられないまま、もう半年以上が過ぎてしまいました。
昨日の発表で全力をつくしてかなりホッとしてしまったせいもあるのですが、終わらないといっても学生生活が終わる頃にはいったんいろいろなものが終わるのだから、後悔しないようになどと思いますが、学校への行きの電車の中で昨日、同期の人にもらったその人の弟のCDを聞きながら電車の時間が過ぎていきました。
大学へ着いて学食で食事をしようと思ったら誰も知っている人はいなくて、ちょっと寂しかったのですが、そのうちに3人も同期の女性が来て、いっしょに食事が出来て、なんだかしみじみと楽しい気がしました。
その時間は20分くらいで終わり、講義に行きました。
今日も発表で、実習でのことをテーマにあげて、それで時間はけっこうたったし、かなり勉強にもなりました。それから私にとっては、年齢はかなり若いのですが、上級生の事例の話になり、大変だと思いつつ、その若さを改めて知り、なんだか自分が老けていることを改めて分からされたような気がして、でも実りがある時間になりました。
校舎を出たら雨が降っています。
そばの食堂ではダンスサークルの人たちが踊っています。その奥には確かに同期の男性もいたし、声をかけようかとも思ったのですが、それは私が行ってはいけない世界のような気もして、通り過ぎました。同時に、でも、声をかければよかったかな、みたいな気持ちにもなって、駅に向かい、一人で帰って来ました。帰り道は、一人だと、ちょっとつまらない感じがしました。
家に帰ってからは、夜中というか早朝といっていい時刻まで介護が続きます。
休み
11月18日。木曜日。
たぶん、先週の日曜日以来だから、10日ぶりに家に一日いました。
介護は変わらず続いていますが、休みといっても、まだ課題はあるし、実習の逐語録はまったく始められない状態だし、研究ゼミのこともあるし、ロールシャッハが手つかずで残っているし、何だか嫌になるほどやることはありますが、そうやって、やることがなければ、考える時間が圧倒的に少なくなり、それでは身に付くのが遅くなるのだろうと感じていました。
もし自分が若かったら、こんなに課題とか発表とかあったら時間がないじゃん、遊べないじゃん、みたいなことを思っていたに違いなく、今みたいにそれでもやろうとしたり、どこか楽しめたりはしないと思うけれど、それが歳をとった利点かもしれません。
これまで、そんなにつらかったの?みたいな感じを改めて自分でも思うのですが、だけど、もう8ヶ月がたち、1年生の終わりが見えて来た今になっても学校へ行くことが娯楽になっているのは、同期の人達のおかげだとホントに思います。
それだから、これから修了後も付き合っていけるように、おそらく私が一番、仕事がある確率は少ないのだから、それを少しでも上げるために、今、出来るだけベストを尽くして学ぼうとしている面はあるのだと思います。
あとは例えば、大学院の受験で私のように中年の人が受けに来た時に、私がダメだったら、そういう人に対しての目が厳しくなるだろうし、というのも実は勝手に思っていて、それはある種の自意識過剰でもあるのは分かるのだけど、でも、そういうことも含めて自分の力を出す動機にしないと、やっぱり頑張れない、という気持ちも確かにあります。
ヘルパー2級の研修を受けたときの同期の集まりでも、今、ヘルパーとして仕事をしないで、家族の介護をしていると、それはそれで負担があって、これ以上をやるのは自分の体を考えても無理だとは思ってはいますが、それが事実だとしても、だけど、働いていない、ということで、何となく肩身が狭い思いをしてきましたし、これからもそうだろうと思います。
今のところ義母が生きている限り、介護をしていくのが優先事項でもあるから、そんな条件で資格をとった後も、自分の年齢のことを考えても、そう簡単に仕事があるわけもなく、そうした場合、資格をとっても、たとえば同期で集まりましょう、という話になったとして、介護をしています、と言っても、え、仕事していないんですか?ということになったら、自然と話がしづらくなり、何となく会から疎遠になる、という未来だってないわけではありません。
だから、そういうことにならないため、といっても、難しいかもしれないけれど、少しでも努力したい、という気持ちにはなっているのだと思います。みんなに軽蔑されたくない、というわりとシンプルな思いだったりする、と書くと、気持ちは若いんだ、と自分で感心し、人は、気持ちは歳をとってもたいして変らないんだと改めて、自分のことで分かったりします。
課題提出
11月19日。金曜日。
今日、時間があれば、会って話をしましょう,と言っていた相手が、カゼをひいて休んだと知りました。
そうやって約束などをしたから、妙にプレッシャーになっていたら悪いなと思いつつ、では、今日は週末だし何人かで飲んだりするのかな、とも思いつつ、そういえば、この前、話が途中で終わったような気がしていたけれど、どうしようかな、などとも思い、講義は比較的、スムーズに終わり、課題の提出も出来ました。
それでも講義の内容は、膨大な知識と将来への悲観的な話になったりもしたのだが、なんとか終わって、そして、最後の講義では飲み会をやりましょう、というような話にもなり、もう年末というより、後期も終わりということは、1年生の時間が終わるということでもあり、11月ももう後半だし、すごく時間が過ぎるのが早くなったと思いました。
そして、いろいろなことがあったようで、自分があまり変化していないようで、でも感じが変ったとか言われるのだから、何かしらの変化はあるのだろうけど、それよりも、こういう楽しい時間が終わりに向かっているのが分かるので、それが実はかなり寂しいのかもしれない、などとも思っていました。
とにかく講義が終わり、それから大学の正門のところで何となく集まり、それから、その近所の店に行こうということになり、道路を渡ったところにある中華店の2階。他にまだ誰もいない座敷に座り、6人で酒を飲んで、食事もしました。
鍋に入ったぎょうざが売りのお店のようで、それもいくつも食べて、いろいろと話をして、同期の将来の話で、お嫁さんになりたい、それも結婚してしばらくは夫婦で2人で暮らしたいけれど、でも子どもが出来たら、夫の実家に一緒に住んで-------というような話にもなり、なんだか微妙な空気にもなりましたが、それでも私にとっては楽しい時間でした。
まだ、その飲み会は続いていましたが、私にとっては終電が近づいてきたので、先に帰ることにした。講義が終わるのが午後9時過ぎですから、最近、ちょっと遅くなると、すぐに終電になってしまい、もっと遅くまでいたい気持ちもあるのですが、それはぜいたくというか、できないことでした。
私には帰って、義母のトイレ介助が午前5時まで続く、という仕事があります。
これから、どうするんですか?みたいな話になると、いろいろな話題になりますが、昼夜逆転で介護を続けながら、しかもかなりの高年齢になっている私の場合は、普通に考えたら仕事はないと思うので、自分で作るしかない、という状況は変わりなく、このままだったら、おそらくホントに何もないとも思います。
ただ、介護する人を心理的にサポートする、という明確な目標はあるので、その方向の努力は確実にするとは思います。でも、臨床心理士の資格をとっても、仕事はこの年齢ではある方が珍しいのでしょう。だけど、今の楽しさを、ある意味で持続させようと思うのなら、ちゃんと仕事をしないと、いつのまにか話が合わなくなって、また孤立してしまうのだから、なんとかしたいとは思っています。
ファミレス
11月22日。月曜日。
午後にはロールシャッハの分析を進めて、少しなんだか分かったような気持ちにもなって、ああそうか、こうやって分かるものなんだ、という感覚にもなったけれど、時間はあっという間に2時間くらいは過ぎてしまい、そういえば研究ゼミのことも全然やっていないな、とあせり、その上で実習の逐語録もやっていないし、といつもと同じようにあせり、でも、考えたらあせるだけでは時間の無駄だろうとも思いました。
近所で大きい音がしたら,交通事故だというのを知って、少し見にいったら、クルマ同士がぶつかったみたいで、でもけが人は出てないみたいだったらしい。という話をしていたら義母がデイサービスから帰って来て、それから大学へ出かけました。
図書館へ行って、返却をして、そのまままた借りて、学食へ行ったら誰もいなくて、コーヒーだけを買って、教室へ行ったらいつもよりも15分遅く始まるのを知り、それなら学食で食事が出来た、と思いながらも、そこにいたら今日のゲスト講師の方もいらっしゃいました。それで、まだ学生は4人くらいしかいなかったのですが、講義が始まり、途中で3人が合流して、講義は進みました。
この大学院に入学したあと、ある講義を受けたとき、優れた臨床家は、その言葉と、その言葉にこめられた感情やイメージがすごく膨大なのに気がつき、どこか圧倒される思いになったことを思い出しましたし、同時に、そうした人がいる、この大学院へ来てよかった、という気持ちになりました。
そして、今回の講義を受けていて、優れた臨床家の実践というのは、なかなか文章などで伝えるのも難しく、ただ、その凄さを目の当たりにした、やはり同じ臨床家が、さらに伝えようとすることで、それが残って歴史になるのかもしれないなどと思いました。
そうこうしているうちに時間がたち、講義は午後10時ぎりぎりで終わり、門を出て、地下鉄まで一緒で、同期の一人がロールシャッハを勉強したいというので、次の駅で降りてファミレスで勉強しました。
それからそこにしばらくいて、終電で帰りました。ただ、そうやって深夜のファミレスで勉強する、みたいな状況が、とても学生らしくて、ちょっと追いつめられたような状況だけど、なんだか楽しく思えました。
50歳近くになって、またこういう時間があるなんて、本当にうそみたいにありがたい気持ちになりました。
勉強
11月23日。火曜日。勤労感謝の日。
朝起きてから、わりとロールシャッハのことばかりを考えていました。
昨日、夜中にファミレスで勉強するという学生っぽいことをして、きつかったけれど、なんだか楽しい時間だったので、ぽわーんとしていて、でも、その中で、どうやらスコアリングに間違いがあるらしいと知り、それを直すことから始め、全面的に書き直し始めました。
そうしているうちに、反応で書き漏らしているのもあるのが分かり、ちょっとゆううつになったのですが、やるしかなくて、それで、今日は午後からそればかりになりました。
やり直したり,書き直したり、計算し直したりしているうちに、なんだか午後はあっという間に1時間半くらいがたっていて、時間がたつのが早くなります。それで、ちょっとぐったりしてしまって、少し妻とお茶をしながら録画していたテレビを見ていたら、また時間は過ぎて、昼寝をしようと思って寝ました。
本当は妻の筋トレもやろうと思っていたのですが、起きたらすぐに妻が作ったカレーの夕食になったので食べました。美味しかったです。
それから自分だけは食卓から少し早めに離れて、隣の部屋にいる義母の様子をうかがいながら、台所で皿を洗っていたら、途中で義母が、ティッシュをお茶でひたして、それで目をごりごりこする、ということをやっていたので、そのティッシュを握っている手をたたいて、ものすごく怒ってしまいました。
その行為は、お茶などに入っている雑菌のためにかえって目に良くないと眼科医に注意されていたことでした。耳も聞こえないのだから、目まで見えなくなったら、さらに生活が大変になるのが分かっているはずなのに、そして、そのことは、これまでも何十回も筆記ボードに書いて伝えてきたのに、といった蓄積があるせいか、怒ってしまっていました。
その声でせっかく2階でくつろいでいた妻も降りてきてしまいました。こういうのも虐待、と言われてしまえばそういうことになるのでしょうけれど、自分自身がロールシャッハテストを受けて、出ていた葛藤とかは、やっぱりこういう生活のためかも、と思いました。
それでも、なんとか自分も義母も落ち着いて、というよりは、義母は淡々とした反応になっていましたが、また2階へあがって、私はずっと課題を続けていました。妻はテレビを見ているのに、その傍らでキーボードを打ち続け、それは妻にとっては邪魔だったりするのかもしれませんから、申し訳なかったのだけれど、それでも進めていて、その作業の途中で義母をトイレに行かせるまで、1時間半くらいがわりと早く過ぎました。
その間に妻はお風呂にも入って、気持ちよかったと言っていて、よかったと思いました。それから、また1時間くらいで、ようやくロールシャッハのスコアの1回目が書けました。今日だけで、4時間。トータルでは、どれだけの時間を使ったのだろうか、と思います。
でも、分析が自分自身のだから、ある意味ではとても気楽でした。夜中にやっと一区切りがついた頃、妻は眠そうにしていたので、もう寝る?と聞いたら、午後11時半には布団に入ったので,少しマッサージをして、寝てもらいました。
それから、今度は明日の研究ゼミのための用意を始めたました。修士論文を書いていくためのゼミです。ホントはもうインタビューを始めていた方がいいのだけれど、でも、いろいろ考えたり、とか、大きな理由は時間がないせいで、結局は何も出来ず、発表と課題でずっと時間が過ぎただけでした。
こんなことで研究は進むのか?とも思えたのですが、とにかくインタビューを頼むところをちゃんとやらないと、いいインタビューは出来ないのは当然だから、そのあたりを慎重に、というのは、ただの言い訳だけでもないと思いたいところです。
明日、聞きたいことを原稿にまとめ、それから、依頼の手紙の原案をまとめ、とここまでで1時間20分。今日はいつもよりも、早く時間が過ぎていきます。
これだけ勉強する日が、50手前に来るなんて思いませんでした。間違いなく、これまでで一番、勉強していると思います。なんだか、いまだに不思議な気持ちがします。
そろそろ、また義母をポータブルトイレに連れていかないといけません。
論文
11月24日。水曜日。
いつも研究ゼミが始まる前は、かなり緊張をします。それは、修士論文を書くための指導の時間です。
指導教授は、怒りはしないけれど、かなり優秀で、そして、その期待(されているかどうかは分かりませんが)を裏切りたくない、みたいな気持ちがあるせいで、余計に緊張しているようでした。
ごまかしたらすぐに分かられてしまうでしょうし、かといって、この2週間は発表とか課題に追われて、何もしていないし、どうしたらいいんだろう?みたいな気持ちにもなっていましたが、でも、こうした悩みみたいなものはかなりぜいたくなものだというのも分かっていますし、妻に負担を増やしてしまっているのだから、ちゃんとやらないとバチが当たるとも感じています。
かといって、時々、やらなくてはいけないことの多さに、ちょっと重荷を感じることもあって、でも、そういう負荷をかけないと、ついサボってしまうので、ちょうどいいのかもしれない、というような気持ちにもなりつつ、まだ終わっていないいろいろなことを心の中で指折り数えて、ため息をつく、みたいな感じはやっぱり続いています。
ただ、それでも課題を何とかメドをたて、研究ゼミで今日、発表したいこともなんとか形にし、そして大学へ出かけ、講義を受け、その中で、その疑問とか、手紙の書き方とか、いろいろなことが明らかになったし、その担当教授の話を聞いていると、私ともう一人のゼミ生の考えていることを、時間がたつごとにかなり的確にとらえているのが分かり、臨床心理士、という臨床のプロはやっぱりすごいと思ったりもしました。
こういう先生の元で研究出来るのはラッキーだと思いながらも、その負担とプレッシャーもまた思い、それでも何だか論文を頑張ろう、という気持ちにもなりました。
目標は、無謀なのはわかっていても、研究の論文がそのまま本になるようなことを秘かに目指していました。
これからを考えると、そういうことにならない限り、仕事がなさそうだったからです。同時に、そういう目標を立てないと、実はがんばれないのではないか、というような気持ちもありました。
楽
11月25日。木曜日。
ロールシャッハテストのスコアリングの提出日で、なんとか昨日の夜中に仕上げて、と思いながらも、義母の介護も変わらずに続いていますので、午前5時くらいに寝るようになってしまい、だから今日も、ハっと起きたら昼の12時を過ぎていて、ああ、と思ったのですが、まだ実習の逐語録を仕上げていなくて、昼間やっていて、そのうちに時間が過ぎて義母がデイサービスから帰ってくる時間になり、家に迎えてから、あとは妻に任せて、大学へ出かけました。
今日から新しいリュックにしました。青のチェック柄で、義姉からもらったもので、こちらの年齢50歳を考えたら、ちょっと若いのでは、とも思ったが、でも新しくて外側にペットボトルも入れられるし、という機能も優れていて、嬉しい気持ちで出かけられました。
提出は少し落ち着いたので、講義に出て来たエリクソンという人の本を行きの電車の中で読んで、オリジナルであって、実はすごく平凡な方法でもあることをちゃんと出来ている人なんだ、とも思いました。
これは、実は、その相手が困っているのならば、そのために、どうしたらいいか?だけを真剣に、ぶれなく本気で思い続けられる、という、それこそが天才というか、他にはない才能なのではないか。
そして、それを持続できたから、様々な、他の人にはオリジナルに見えるような、そういうことをやれたのだと思うから、そこだけを取り上げると変ったように見える方法が、実は必然でもあるのだろうということは何となく分かった気がしたのですが、でも、それはまだ読み始めたばかりだから、なんともいえないけれど、ただ、すごい人がいる、というのは分かった気がしました。
こういう人こそ、本当はオーソドックスなのだろう、というのも感じたような気がしました。
それで、ああこういう人がいるのを知ってよかった、というような気持ちになり、ちょっとうれしく思いました。直接関係あるわけでもなく、目標とするには遠すぎますが、この世界は、やっぱり他のジャンルと同様に、オリジナルな凄さを持つ人がいる、と思ったからでした。
本を読んでいるうちに、大学の最寄りの駅へ着いて、それから家へ公衆電話から電話をして、変わりがないことを確認してから、大学の学食へ行ったら、貸し切りで閉まっていました。
だから、持って行った携帯食を食べようとコーヒーだけを買って、閲覧室へ行ったら、けっこうな人がいました。それから講義が始まったのですが、今日はロールシャッハを提出するにあたって、それぞれがどんなことを思ったり感じたりするか、という話をずっとしていって、色々なことを思ったり、考えたりもできました。講義は1時間半くらいで終わりました。
じゃ、飯でも、ということになり、近くの中華料理店に行きました。二つのテーブルになるくらいの人数でした。いろいろと話をしているうちに、今日は徹夜した、と言っていた同期も来て、それからまた話が続き、今日は午後11時前には解散になりました。
雨が降っています。
帰宅時刻は、午前12時を過ぎていたので、当然ながら妻は、もう寝ていました。こたつの上に手紙が置いてあります。〝おかえりなさい。お風呂に入らせてもらって、ありがとう〟というような内容で、こちらの方がありがたい気持ちになりました。
そういえば、今日、大学のそばで食事をしている時に、今年の1年を漢字で、という話になった時に、何人かは「激」という漢字、と言っていて、私は「楽しいから、楽かな」と言っていました。
同じように社会人入学した人が、卒業したらうつになるかも、と言っていたのですが、その気持ちはよく分かります。今がハレかケでいったら、ハレの毎日で、またケの日常に戻るのは、ハレを知ってしまっただけに、つらいかもしれない、とは確かに思います。
家に帰ってきて、これから午前5時くらいまで介護の時間が続きます。その間に勉強もしようと思います。
誕生日
11月26日。金曜日。
大学へ出かけ、学食へいつものように行ったら、微妙な空気だな、とも思ったのですが、でもいつものように大学の名前のついた丼を食べ、「いつも丼ですね」と同期に言われました。そこにもう一人同期が来て、油そばを熱い、辛いと言って食べつつ、それから時間が迫って教室へ行きました。
エレベーターが一緒だった同期と、今日はみんなぴりぴりしていて怖い、みたいな話をして、私は「動じないよね」と言われ、それで教室に着くと、先生が30分遅れると知り、なんだかダラダラとしゃべっていたのですが、教室の中にマンガとか袋とかペットボトルとかが散乱していて、それを片付けて、そのマンガを読んだり、いろいろと話をしたりして、ちょっと楽しかったけど、ふと考えると年齢的にも、自分だけが浮いているような気もしてきてきました。
それは、他のみんながちょっと沈んでいるというか、元気がない感じがしていたせいもあるかもしれません、その中の一人がサイフの中のお札を新しい順から入れているというのを聞き、それを並べてくれたとき、私は見た目では、よく分からなかったのですが、それは年代的にグラデーションになっているということで、それはほとんどアートではないか、と思えました。
それで講義が始まって、質問などありませんか?みたいなことを聞かれたので、この前気になったところを質問しました。それは、講義の後半に質問をすると、そこから圧倒的な情報量の答えを返してくれるので、時間も長引いてしまいますし、講義の終わる頃なので、余計に理解するのが難しくなってしまう、ということを覚えたので、前回の疑問を、次の講義の冒頭でしたほうがいいと思うようになったからでした。
ただ、質問の仕方が適切でなかったせいか、微妙な空気になってしまい、ちょっと反省もしました。そういうこととは関係なく、講義はいつものように淡々と、だけど、圧倒的な密度の言葉が続いていきます。
途中からうつの話になり、それは社会的なことだと知ると、じゃあ、どうしたらいいんだろう?と思い、それから、うつに進む前に、という話になると、じゃあ、その時にはどうすればいいのだろう?などと思い、老人のうつをちゃんと治療した方が、その方が認知症が進みにくい、というような話も聞き、なるほどと思いつつも、講義の最後に改めて聞きたい、と思ったけれど、時間が押して、さらに遅くなってしまうので聞くのをやめて、次の講義の最初に聞こうと思いました。
講義が終わりました。それから、引っ越すので、うちで使っていた古い炊飯器でもいい、という人がいたので、それを、渡すことになっていて、その前に少し使い方の説明をしようと思い、教室で説明していたら、いろいろな人が先に帰ってしまいました。
今日、誕生日だという男性の同期で、私の下の世代(といっても十歳下)の人に声をかけて、飯でも、という話になり、4人で沖縄料理店へと行きました。誕生日の人に、食事を一応みんなでごちそうして、楽しい時間が過ぎました、
その店から出て、雨が降っていたのに、炊飯器を持った女性はそのまま帰ります、と言って走っていきました。それがなんだかずっと気になったので家に着いてからメールを打ったら返事がすぐに返って来ました。
無事だったので、少しホッとしたのですが、最近、少し寂しいような気持ちになっているのは、もしかしたら最大の理由は、今日も同期と話していて、1週間がすごく早い、という話題になり、確かにそのスピードが増していて、それは自分でも感じていて、この楽しい時間があっという間に去ってしまうんではないか、という、どこか空しい気持ちなのだと思いました。
これから介護です。
勉強会
11月27日。土曜日
今日は、初めての先生を招いての、しかも外の人と合同の勉強会で、午後1時半から開始だというので、午後1時ごろに着くように出かけました。同期の人が一緒に働いている方々と一緒だということで、ちょっと緊張していったし、その方の一人が事例を出してもらえるということで、それも何だか悪いな、と思うとともに、有難く思いました。
楽しみでもあったのは、春に不思議なたたずまいだけど、なんだかすごい講義をしてくれた人が講師に来てくれるということで、その人はこの前の講演会でもこちらの視点をふわっと変えてくれるような言葉を言ってくれた人でした。
そして、なんとなく緊張のうちに始まりました。久しぶりに、最近使わなくなった校舎の上階の教室でした。春は、この校舎をよく使い、ここで慣れない学生生活を始めたのも何となく思い出しました。8ヶ月前のことが、とても遠くに見え、今は当たり前になったような顔をして過ごしている今の生活も1年もたっていないことを改めて思ったりもしました。
事例の話が進むうちに、微妙な違和感がふくらんできたり、さらに考えたり、そこにさまざまなコメントがされて、さらにいろいろと考えることができました。
その後にその先生の講義のような形になりました。それは心理療法とは何か?という話で、それは、メンタル面に働きかけて、相手を少しでも生活がしやすくすること全部を指し、それにプラスして、こちらからセールスしない、相手を待つこと。そして、共同作業であること、という話になりました。
それは、ただ1対1でカウンセリングするだけでなく、もっと広い意味にとれることでもあり、そういう話を聞いて、なんだかとてもありがたい気持ちになりました。
その後、懇親会といって飲み会になり、その中で今日、参加した少し不思議な気配を持つ若い男性と話をしたりもしました。音楽に詳しいようで、最近、気になるバントとして、サンボマスターの話をしました。夜中にテレビを見ていたら、いろいろなバンドが出てきて、その中でサンボマスターは演奏する前は印象が薄かったのに、演奏が始まったら、急に輪郭が太くなったように思って、といった話をしたら、バッグの中からiPodを出してくれて「神聖かまってちゃん」というバンドを教えてもらいました。
それで、その会は終わり、2次会に行くことになって、それにさらに先生も付き合ってくれることになり、同期の一人の女性がコンビ二に行ってお金を降ろしたいというので付き合って、その飲み屋に行ったら、先生の隣になってしまい恐縮してしまいました。
それでも、そのうちにいろいろと話すようになり、その先生からいろいろなことを聞けて、それは本当に有りがたく、何か、その人の底力の一端を見たような気がして、すごくよかったと思いました。
視点を変えるような事を、最初から違う角度で考えたりされるんですか?と聞いたら、そうじゃないです。と答え、もっとまっとうに考えた蓄積の末の事だと教えてもらいました。その凄さが、少しずつの真っ当な蓄積の上に成り立っているものだと分かったような気がして、自分ができるかどうかわからないにしても、そういう人に直接、教えてもらう機会があったのは、幸運なことでした。
その中で、私が話をする時にエクスキューズ、ようするに前おきの言い訳が多い、というようなことを言われ、すみません、と引っ込んでしまう、とも言われ、それは本当にそうなのだろう。介護に専念するために仕事をやめてしまったことで自尊心のようなものが根こそぎ削られていたとも思っていますので、それを直していくための学生生活なのだろう、とも思いました。なんだかすごく、目に見えにくいけど、豊かなものを得た気がしました。
帰ってからは、介護の時間です。
講義
11月30日。火曜日。
今日の、面接をテーマにした講義も、ある意味で波紋を広げたりもして終わり、なんだか疲れたものの、まだ整理できていないし、無理にまとめるものでもないとは思いますが、学べることが多かったように思います。
あとは、最後にふさわしいレポートを書きたいと思うのですが、結局は、自分の力以上のものは出ない、という冷酷な事実があるだけだと思いました。ただ、ここでベストをつくさないと、おそらくはひたすら後悔するだけでしょうし、せっかくがんばる癖が50手前でついたのですから、それをゆるめないようにしようと思います。
毎回、とにかく全ての力を出し切ることが大事、というのが、当たり前のことですが身にしみてわかったのも、幸運なことだとも思っています。
講義が終わり、同期の何人かで食事をして、それは楽しい時間でしたが、夜中に帰宅して、今日もこれから介護の時間です。
気がついたら、もう年末になっていました。
夏休みが終わってから、本当に時間が進むのが早くなったと思っていたら、そこからさらに加速しているようです。
(他にも、介護について、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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