「見て見ぬふりをしていたやつも同罪」に思うこと
学校でのいじめ問題や、ネットでの誹謗中傷、BLM運動など、現代社会に延々と続く様々な問題や悲惨な事件に関して、よく見る意見。
「見て見ぬふりをしていたやつも同罪」
ごもっともです。
ごもっともなんだけど、この意見をナチュラルに主張できちゃう人って、どこか当事者じゃないから言える部分があるというか、外野からモノを言っているよなあ、とも、思ってしまう。自分が被害に合う可能性が無いから、自分がその「周囲」にいないから、実際の痛みを知らないから、強い立場にいるから、堂々と指摘できる、安全圏だからこそ言える正論だよなあ。と。
近くで良くないことが起こっている状況下にあって、周囲の人は別に
「被害者のことを助けるに値しない」
「無視することによって被害者のことをもっと傷付けてやろう」
などと積極的な悪意を持って見て見ぬふりをしたくてしている人は少なくて、どうしても言い出せる状況じゃなかった、一歩間違えれば自分も被害者になる可能性が高かった、恐怖で言い出せる空気では無かった、というのが大部分ではないか?と、自分の経験上では、思う。
そしてそれは言い訳として持ち出して良いということではなく、むしろその「言えない空気」とは何なのか、ということまでをもっと深く考えるべきなのではないか、ということだ。ただただ「見て見ぬふりをしていたやつは反省しろ!」というだけでは、そのとき言い出せなかった人がさらに傷つくだけで、何も解決しない話だろう、ということだ。
自分は地元の小学校から、中学受験をして、住む地域とは別の中学校に通うようになったが、その両方の学校で、暴力を受けた。それぞれ小6と中1のときだった。今から、そのときの話を書く。
当時の僕の考え方について、冷静に読んで「何でそういう思考になる?」「それはおかしいだろ」という部分が多々あると思うが、当時まだ幼いころの考え方だということで理解してほしいし、なぜそういう思考が働くのか、という部分から、「言えない空気」についても考えてもらいたいと思うのだ。
小学校のときは、暴力的なヤンキーのような「ボス格」のやつが何人かいて、なるべく彼らに酷いことをされないようにやり過ごすのに必死な日々だった。時期によってヤンキーたちの暴力のターゲットが移り変わり、ひ弱で暴行該当者になる可能性のある僕達何人かは、なるべく目を付けられないようにビクビクしながら生きていた。恐怖政治のようなものと言えば良いか。
そんなクラスで過ごす中で、一人の女子がヤンキー男子達から目を付けられていた。その女子は、天然パーマ?なのか、アフロヘアっぽいと言えばいいのか、どちらかというと不清潔な印象を覚えてしまいがちな髪をしていた。だからといって決していじめられても仕方がなかったとは言わない。大人になった今なら、体質なのか、病気なのか、何か事情があったのかもしれない、という想像もすることができる。が、小学生の自分たちにそんな想像力を働かせることなどできるはずがなかった。現代の大人社会でも「清潔感」はマナーであり、不清潔な人間は攻撃の対象どころか逆に加害者扱いにすらなるぐらいでしょう。
ヤンキー男子達はその子に対し「キモい」と口にしていた。僕は自分からその子に対してそういう言葉は発したりなんて絶対しないけど、実際に不潔だなとは内心思っていたから、そんな子に自分から関わるなんてことをするはずがなかった。もしいじめの件が無くても仲良くなりたいと別に思っていない子であり、荒れている状況下で、そんな子と関わったら、わざわざいじめっ子たちに自分を暴力のターゲットにしてくださいと言うようなものだ。
ある時期から、ヤンキー男子達は、その女子の頭に後ろから消しカスを投げ、気付かれないようにモジャモジャ頭の上に乗せる遊びをしていた。
ある日、月イチで行われる席替えを経て、僕の席がその女子の後方になったとき、ヤンキー男子達は僕にも消しカスを投げるように言ってきた。「あいつを殴れ」とか「一緒になって暴言を言え」とかだったら流石に断っていたが、消しカスを投げる程度なら自分にもできる、断ってはいけない、と判断してしまい、その遊びに加担してしまった。
その後、大きな問題になった。
ある夜、保護者同伴でクラスの男子全員が呼び出されて、一人ずつ謝罪の言葉を言わされた。消しカス遊びをやっていない男子もいただろうが、男子全員が同罪扱いだった。というか、先生からすれば「男子全員が結託してその女子ひとりをいじめている構図」に映っていたのだろう。「見て見ぬふりをしたやつも同罪」だ。
実際に僕は女子の頭へ向かって消しカスを飛ばすその行為を1度でもして嫌な思いをさせたことは紛れもない事実であり、きちんと「ごめんなさい」とは言った。
しかし、内心は煮え切らない思いでいっぱいだった。自発的に面白がってその行為をしたわけでは無いし、何なら、僕含め何人かの男子のほうが、ヤンキーたちに殴られたり、罵られたり、消しカス飛ばしよりもよっぽど酷いことをされたことすらあるのに、、、という思いはあった。
その被害女子は、暴力的なヤンキーたちがひ弱な男子に対しても暴行したり脅したりしていることについてはどう思っているのだろうか?クラス全体の「空気」についてはどう思っているのだろうか?本当に僕含めクラスの男子全員が結託して自分だけをイジめていたように感じていたのだろうか?それとも自分だけが被害者ヅラしようとしている?そんな思考も、頭によぎる。
それでも、他の男子たちと同罪側に立ってニコニコやり過ごすほうが、まだ平和だ、と、判断していた。「チクる」という行為だけは絶対的タブーだった。チクるという行為は一番ダサく、反感を買う。実際、ヤンキーたちがやっている色んな行為に関して、本人から僕たちに「チクんなよ」と脅しのようなことを言われていた。チクったりして独りぼっちになるより、暴力の伴う関係でも便宜上「友人関係」として相手にしてもらっているほうが断然マシだった。
何より、自分が消しカス事件で加害者側になってしまったのに、今さら自分も被害を訴えてしまえば、自分がその女子に対して思ったように、「抜け駆け」「被害者ヅラかよ」と見られてしまうだろう、とも感じていた。
その数日後、僕は暴力を受けていた。何往復もビンタをされ、泣いていた。
原因は何だったのか今はもう覚えていない。何かの罰ゲームを受けさせられていたような気もするし、単なる遊びで殴られていただけだったかもしれない。
まあそれでも自分の中では、よくある日常だったし、特に反抗もせず、ひと通り終わったあとはニコニコ友達ムーブしておくことで、波風立たせずやり過ごせる、と、思っていた。本当にみんなと友達として接していたいとも思っていた。ある種のストックホルム症候群のような状態にもなっていたのかもしれない。あるいはDV被害者のような心情か。
今思えば、自分でも「自分がいじめられている」「自分が弱い」ということを認めたくなかったのかもしれない。強がることで、つぶれそうな自分を何とか保っていたのかもしれない。これは友達とのじゃれ合いの一環であり、自分さえ痛みを我慢すれば空気が悪くなることは無い、という心理が働いていたと思う。上に書いたとおり、孤立してしまうより、相手してもらっている方がよっぽどマシだ、という気持ちもあったのだ。
だが、その日のソレは流石に看過できないレベルに見えたのか、とある女子がそれを遂に「チクった」。
その子の親から僕の親に電話がかかってきて、その事件が発覚した。
殴られたのは事実だったから、親に訊かれて僕は被害を受けたことを認めたけど、頭の中は「僕が親に被害を訴えたのだと同級生たちに思われるのがイヤだ!」でいっぱいだった。
今振り返れば自己中すぎる思考だとも思うけど、「マズいことになった。チクった女子、いらんことしやがって…」と思ってしまっていた。
僕の親は割と親バカというか、僕のことを「良い子ちゃん」のように絶対的信頼を置いていて、消しカス事件のときも「誰かに言われて仕方なく投げたんやな」とすぐに理解を示してくれていたほどだった。だから、今回も「絶対守ったるから!」「任せとき!」と、わかったようなことを言っていたが、実際のクラスの空気も知らないくせに、親が何をしでかすか、事態が悪化しないか、ただただ恐怖でしかなかった。
数日後、4時間目が終わったあと、給食の時間が始まる前に、僕の親があらわれ、クラス全員に対して話をした。「うちの子が今、このクラスで酷い目にあっています。クラス全員で考えてほしいです。特に直接暴力をふるった○○君と○○君は、このあと○○室に来てください」みたいな感じだった。
いや、伝わらんって!!!!!
恥ずい、恥ずい、恥ずい、恥ずい、恥ずい!!!!!
何が「守ったるから!」「任せとき!」やねん!!!
もっと上手いことしてくれ!!!
そんな感情でいっぱいだった。
今となっては、息子のために精一杯動いてくれたんだろうなと思うけど、当時はそんな感謝の気持ちもなく、ただひたすら、この日以降逆に反感を買って自分が孤独になりたくない、みんなの間で浮いた存在にならないように、攻撃対象として余計目を付けられないように、と祈っているしかなかった。
その後、大人に言われたからだろうが、暴力をふるった奴らが謝りに来た。そいつはたくさん事件を起こしているから、謝り慣れていて、心から謝っていないだろうな、というのもわかったけど、別に僕も心から謝ってほしいとも思っていなかったし、とにかく特殊な事態を収めたい、という気持ちでいっぱいだったので、すぐに表面上和解となった。
今回殴ったのは、チクられて謝りに来たソイツらだったけど、他のヤツも暴力的なやつは何人もいるのになぁ。結局、具体的事案が無いと大人は動かないし、謝らせてそれで終わり。何が「任せとき」だ。クラスの「空気」の根本的な解決になっていないじゃないか。
そんな失望を、大人に対して抱いた。
たださすがに僕に向けての行き過ぎた暴力はそれ以降は減ったから、今思えば、大人の介入は結果として自分としては良かったのかな、とも思うが、ドラマやアニメのように、事件を経てクラス全員が素晴らしい関係に一致団結・・・みたいなことになるわけもなく、ヤンキーたちが君臨するクラスの中で、いかにやり過ごせるか、みたいな日常は卒業まで変わらず続いた。
大人が子ども達の関係性のことなんて分かりやしないし、所詮その程度の対処しかできないんだ、と、思った。
そんなことが小学校で起き、さらに地元の中学はもっと荒れている、との評判もあり、別の中学を受験をすることになった。
それまで特に塾に通うこともしていなかったが、小学校では成績は良かったので、少しの受験勉強で難なく合格。今振り返ると、なかなかの高偏差値と高倍率だったらしい。当時はそんなことよく分かっていなかったが。人生で勉強ができたピークがそこだったかもしれない。さらに同時期、ピアノのコンテストにもエレクトーンのコンクールや発表会にも複数出場していたし、振り返ったらなかなかの超絶スケジュールだったのに、よくまあ苦も無く突破できたと、自画自賛したい。
さて、中学に入学し、ようやく平和な学生生活が始まる・・・と、思いきや、そうならなかった。
学年全体の中で、僕達「外部受験組」の人数の割合はかなり少なく、大多数が附属小学校からエスカレーターで上がってきた内部進学生だった。そして、僕の入学した学年の内部生が、かなり荒れていたのだ。
僕の体感だが、小学校のときのほうが、まだ明朗快活というか、何人かの暴力的なヤンキーが暴れているだけという感じではあり、暴君と手下達、というわかりやすい構図なだけで、それ以外のヒエラルキーカースト的なものはあまり感じずに済んでいた。
だが、中学の内部生たちは、もっと陰湿というか、今で言う「陽キャラ/陰キャラ」というカースト意識、グループ分けという階級的な怖さがあったように思う。
そしてもちろん、陽キャラどもは陰キャラに対してしばしば暴力を振るう。
そんな中で、自分が入っても安全そうな友人達のグループを見つけて、怖い人たちと関わらないようにしている分には、大丈夫だった。
問題は、出席番号順で強制的にグループ分けして取り組まされる、移動教室の授業や数々のグループワーク、行事などのときだった。
自分は「オオタ」なのだが、すぐ手の出る、とても素行の悪い暴力的な「ウ○○」や「キ○○○」という名字のやつが居て、出席番号順で並ぶたびに彼らに挟まれていたのだ。
そうなると、その時間のあいだ、ターゲットは常に自分だ。
自分のクラスの席替えなど関係なく、一年中通してずっと出席番号順で座らなければいけない、移動教室の授業。
出席番号順でグループ分けされる、クラスの係りや課外学習のグループワーク。
それらの時間が地獄だった。とても苦痛だった。
出席番号が絡まないときは、わざわざその二人が特定の僕をターゲットにやって来てイジメるわけではない。休み時間などは、陽キャに目を付けられないように身を守っていたし、逆にその二人以外の陽キャたちに出くわしたときはソイツらからも怖い絡みをされることもあった。
他の陽キャが他の陰キャに高圧的に接しているのを目にすることもあった。でも、小学校の消しカス投げられた女の子のケースと同じように、「イジメられて当然」とは言わないけど積極的に助けてあげようとは思わない。そんなことしたら自分が目立ってしまって積極的なイジメに繋がってしまう。
もし大人に何かを訴えるにしても、まず何をどう言っていいのかもわからなかった。「僕はウ○○くんとキ○○○くんにイジメられています」という文は、不正確だ。この二人は出席番号でたまたま隣り合っていたからこうなっただけであって、そこだけを告発しても何も意味がない。根本問題は「陽キャと陰キャ」というヒエラルキーの問題、カースト的な「空気」の問題だから。
具体的な被害としてチクっても、何も大人は解決できない、という失望は小学校のときの経験でわかっていた。そもそもチクるのはダサい、タブー、という空気は小学校のときから引き続きあった。
何を言いたい記事なんだったっけ。
書いていて辛くなってきたな。
そう、昨今の「加害」とか「見てみぬふりは同罪」とかのワードを見ると、小6や中1のときのこういう記憶がフラッシュバックしてきて辛い。
1番悪いのは暴力を振るうやつだ。
それはもうみんな分かってるはず。
ただ、「見てみぬふりをしていたやつも同罪」と声高に主張する文を見ると、普段は暴力振るう陽キャヤンキーと仲良くしていてそっちこそ見てみぬふりをしている癖に、何かクラスで問題になったときだけ手のひら返して正義面して先生に良い子アピールするようなキラキラ学級委員の雰囲気を感じてしまって胸糞悪くなってくるのだ。
あるいは、生徒みんな怯えながら生きているのにそれにも気づかず全員が卑劣な加害者だと言わんばかりに決めつけて学年集会で全員に向けて高圧的に恫喝する生活指導の先生を思い出す。結局そんな指導したって何も解決しないんだよ。
誰かが被害にあっているとき、自分を犠牲にしてまで助けるようなやつがヒーローでカッコいい?そうかもしれないけど、僕にはそんな強さ無いし、みんな自分が被害者にならないように振る舞うだけで必死なんだよ。それほどまで「空気」って怖いんだよ。太刀打ち出来ないものなんだよ。弱くて悪かったな。見てみぬふりをしたから同罪?それで立場の強い側の仲間入りが出来て自分の身が守られるなら人間みんなそうしちゃうよ。こっちだって被害者だ。そこから必死に逃げて自分を守っているのになんでその行為を非難されないといけないんだよ。見て見ぬふりをやめようったって、自分が被害をこうむるだけなんだよ。そんなん本当はみんな分かってるんでしょ?
簡単に「見てみぬふりをするな」とかいうやつは、その被害者と同じかそれ以上の加害を自分が受けてもなお助けるという覚悟があるのか?同じ痛みが自分は平気なのか?それが平気なら、そんなに強いのなら、そんなにご立派な正義感があるなら、全員助けてみせろよ。根本の空気から全部全部解決してみせろよ。自分も実際その立場になったら何にもできないくせに。誰も助けてくれなかったくせに。
取り乱してすみません。でも、そんなことを思ってしまうんです。
安全圏から正義を振りかざして綺麗事を言うんだったら、もう一歩踏み込んで、「言えない空気」「告発できない原因」をもっと考えませんか。という話。そうじゃないと、被害者の味方をしているつもりでも、余計傷付くだけの場合もあるんです。
終わります。
まとまらない駄文ですみませんでした。
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