#16 音楽史⑪ 【1848年~】 ロマン派 "第三段階" ~分裂し始めた「音楽」
ポピュラーまで見据えて西洋音楽史を描きなおすシリーズの続きです。このシリーズはこちらにまとめてありますので是非フォローしてください。
前回はベートーヴェン死後のロマン派最盛期を取り上げました。フランスでは華やかなサロンコンサートが盛んとなり、ショパン、リスト、パガニーニらがアイドル的人気となっておりました。ウィーンではワルツやポルカなどのダンスミュージックが人気となり、ヨハン・シュトラウスⅠ世らが活躍していました。一方でベートーヴェンを模範とするドイツの音楽家たちは、こういったミーハーな娯楽に反発し、ドイツの美学を前提とした「真面目な音楽」の論調を推進していきました。ドイツ語圏の文化ナショナリズムとして、メンデルスゾーンがバッハを復活させたり、シューマンが音楽批評を開始させたりしました。また、ベルリオーズは「標題音楽」を創始。このような流れによって、「真面目な音楽/娯楽音楽」「芸術音楽/軽音楽」「高級なもの/低級なもの」という二分法が誕生してしまったのです。
1844年にシューマンは作曲に専念するため音楽新報の編集をおり、1847年にはメンデルスゾーン 没。1848年にはリストがリサイタルを引退し、作曲に専念。1849年 ヨハン・シュトラウスⅠ世 没、同年、ショパン 没。さらにこのころヨーロッパでは1848年革命によって情勢が一変し、ロマン主義の空気も変わっていくことになります。
今回はそんな1848年以降のようすを見ていきたいと思います。
(ちなみに日本では1853年の黒船来航から1868年に明治維新が起こるまでのいわゆる「幕末」と呼ばれる時期にあたります。)
オペレッタの発生
19世紀半ば、パリの劇場ではオペラをより庶民的に楽しめるようにした、喜劇中心の「小さいオペラ」が確立されていきます。歌い手が踊りも任うこのエンターテイメントショーはオペレッタと呼ばれ、ウィーンにも飛び火し、19世紀後半を通じて半世紀にわたり流行しました。オッフェンバック(1819~1880)の「天国と地獄」、ヨハン・シュトラウスⅡ世(1825~1899)の「こうもり」、スッペ(1819~1895)の「軽騎兵」、ビゼー(1838~1875)らの作品が有名です。
オペレッタ流行の影響はアメリカへも波及し、アメリカンオペレッタの発展が、のちにミュージカルへとつながっていきます。
ところで、19世紀前半のパリのサロンコンサートへの反発から発生したドイツ楽壇の批評・批判によって「真面目派」の勢力が増す中、パリなどでのコンサートでは、曲目に「重いもの」と「軽いもの」という区別がなされるようになってきます。重いものとしては、「古典派(クラシック)」=ベートーヴェン、モーツァルト、ウェーバー、ハイドン、シューベルトのほか、メンデルスゾーンなども「重いもの」扱いになっていきました。逆に、昔からの人物であっても、イタリアオペラのロッシーニなどは「軽いもの」扱いだったようです。
つまり、現在の“クラシック”と“ポピュラー”の区別のような感覚が、このころ明確になってきたということなのです。ちなみに、当時の“ポピュラー音楽”といえば、オペラやオペレッタを代表として、民衆によく知られた歌曲、軍楽や金管バンドの演奏、ワルツやカドリーユなどの舞曲が当てはまります。
本来のオペラの元祖・イタリアオペラの潮流としてはこの時期、ヴェルディ(1813~1901)がイタリアオペラを変革させていきました。
アメリカ・ミンストレルショーの発展
前回書いた通り、アメリカでは1843年、ヴァージニア・ミンストレルズという劇団によってミンストレル・ショーが誕生しました。白人が黒塗りで黒人を演じた差別的なショーですが、これがアメリカ音楽史の重要な位置を占めることになります。歌、ダンス、ジョーク、曲芸などで構成されるこのショーは、1850年代~70年代にかけて最盛期を迎えます。
このミンストレルショーに多くのオリジナル曲を書き、ヒットメーカーとなったのが、スティーヴン・フォスターです。「草競馬」「おおスザンナ」「故郷の人々」「懐かしのケンタッキーの我が家」など、たくさんの楽曲が残され、「アメリカ音楽の父」と呼ばれています。
フォスターの他にはヘンリー・クレイ・ワークの作品も有名になりました。
(大きな古時計、ジョージア行進曲など)
ブラスバンドの発展
つづいて軍楽隊方面のお話をすると、19世紀初頭の地点では「鼓笛隊」状態だった軍楽隊ですが、その後、金管楽器の改良が進んでいきました。これにより、金管楽器のみのブラスバンドが発達し、ブームになります。1840年~50年頃、ベルギーのアドルフ・サックスとドイツのテオバルド・ベームによって楽器の改良が進み、トランペットの演奏表現のヴァリエーションが増加したり、チューバ、フリューゲルホルン、ユーフォニアム、サクソフォーンといった新楽器もすぐさま軍楽隊の編成に取り入れられるようになりました。こうした新しい音色は、数々の紛争や革命とともに広まっていき、人々にとって身近なものとなりました。特にイギリスでは民間のブラスバンドも発生し、労働者階級の間で各種コンテストも行われるようになります。これにより編成が固まっていき、英国式ブラスバンドと呼ばれるようになりました。この英国式ブラスバンドの在り方がアメリカ合衆国にも影響を与えます。
1848年、イギリスからアメリカへ、ギルモア(1829~1892)がやってきます。ギルモアは、軍楽用ではなくコンサートによる活動で収入を得るビジネスバンドを育てました。これにより、アメリカ音楽の新しい局面となります。工業力の発展で楽器の大量生産も可能となります。
1861年~1865年、アメリカ南北戦争が勃発。戦争中も、北軍・南軍の両方で、多くの民謡・愛国歌・賛歌が流行し、士気を高めました。ギルモアは北軍の軍楽隊を編成する仕事や、委員会の結成などで忙しくなります。
そんな中でギルモアは、軍楽隊をみな集めて大合同フェスティバルを開くことを思いつきます。ニューオーリンズのゼネラル銀行をスポンサーにして、500名の軍楽隊員に多数の打楽器とビューグル(軍楽ラッパ)を加え、さらに5000人の合唱団をつけたグランドナショナルバンドを編成しました。1864年3月にニューオーリンズのラファイエット・スクエアにてこの演奏会を開き、フィナーレには36門の大砲を加えるという大仕掛けのものとなりました。ニューオーリンズでこのような金管楽器の音色が響き広がったことが、南北戦争後のニューオーリンズジャズの発生の一要因となって影響したとも考えられるでしょう。
大合同バンドはヨーロッパでも流行しました。
さらに、先述した通りコンテストも多く開催されており、なかでも1867年パリで開かれた各国の軍楽隊コンテストは豪華なものとなりました。
大英帝国の威光とミュージック・ホール
ところで、19世紀は世界史的にはイギリスの時代です。当時「パックス・ブリタニカ」と称されるほどの覇権を獲得した大英帝国。前回書いた通り、イギリスでは19世紀に入るとソング・アンド・サパー・ルームズ、サルーンシアター、フリー・アンド・イージーといった「酒と演し物」を売り物とする娯楽場が増加し、ジェントルマンからごく普通の労働者に至るまで、音楽や演し物を人々は享受していましたが、1830年代以降チャーチスト運動をきっかけとして規制が強まり、「劇場でもパブでもない新しい施設」が必要となりました。
1848年、パリやベルリンでは革命の嵐が吹き荒れたのと対照的に、イギリスではチャーチスト運動は収束していきました。そんなロンドンにて、チャールズ・モートンという男がパブを買い取ります。客寄せのために小部屋でコンサート(フリー&イージー)を催し、評判となります。モートンは、これを大衆音楽の殿堂にしようと構想しました。
1851年、第1回 国際博覧会がロンドンにて開催。大英帝国の威光を見せつけ、国際情勢に変化が起こっていきます。人口調査では初めて、都市が農村を上回り、上流社会からのトップダウンでしかなかったクラシックのような貴族エリート文化(農村のリズム)とは違った、労働者階級向けの都市文化が生まれる土壌ができあがっていました。
1852年、モートンはパブを改めミュージック・ホールとして「カンタベリ」という施設を完成させます。それまではミュージック・ホールといっても演奏会の会場という意味しかなかったのが、産業革命後の都市空間の発展にともなった上流社会と下流社会の分断によって、「ジェントルマンやミドルクラスのコンサートとは違う、労働者のための“娯楽空間”」を示す語として再定義され、名目上パブとも劇場とも違う、「酒と歌と踊り」のための施設が誕生したのです。
・手ごろな料金(6ペンス)・大規模な施設・広告の使用・女性や子どもにも開かれた施設を目指したこと・猥雑さを払拭した演し物の充実化
など、モートンの巧みな経営主眼により、ミュージックホールのスタイルが定まっていき、発展していきました。
“問題児” ワーグナーと、“対抗馬”ブラームスの登場
さて、こういった娯楽のための「軽音楽」の発展を否定しながら、「崇高な美学」に基づく「真面目な音楽」をアイデンティティとして確立していったドイツ地域の楽壇では、19世紀前半のロマン派の最盛期に活躍したメンデルスゾーン、シューマンらと同世代でありながら彼らに遅れて台頭し重要人物となった問題児が登場します。リヒャルト・ワーグナー(1813~1883)です。ワーグナーは19世紀後半、一作曲家という範疇を超えて文学界、思想界、政治にまで影響を与えました。ワグネリアンと呼ばれる狂信的な崇拝者まで生みだしています。ワーグナーの功績は、オペラを庶民化させたオペレッタとは真逆の方向性ともいえる、従来のオペラに文学・演劇・絵画の要素を付加し大掛かりな総合芸術として発展させた「楽劇」の創始です。
各地で革命が起こっていた時代、ワーグナーは積極的にこれに参加。政治的危険人物とみなされていました。1849年のドレスデンでの革命失敗により、革命軍の先頭に立っていたワーグナーは国外追放され、13年にわたる亡命生活を送ることとなりました。アイドル的演奏者を引退し、作曲家となったリストが亡命を手助けしたといいます。この亡命時代に、「総合芸術論」を書き、「楽劇」の理論を創り上げたのです。
「楽劇」の特徴は大きく2つあり、それは無限旋律とライトモチーフです。
他にも傾向として、半音階的な技法が多く用いられ、調性がはっきりしなくなるなど、音楽技法として歴史を大きく変化させました。
ワーグナーは台本もすべて自分で書いていました。つまり、文学史的にも大きな足跡を残したのです。ニーチェなどの哲学者や、トーマス・マンなどのドイツの作家がワーグナーの影響を受けています。さらに亡命時代、反ユダヤ主義的思想も募らせ、文章を残しています。(これは後にヒトラーに利用されることになります・・・。)
ワーグナーの作風は、ベルリオーズの創始した「標題音楽」の流れを汲んでいるといえます。作曲家へと舵を切った“後期”リストも「交響詩」といわれる作品を書きはじめ、ベルリオーズの系譜に入るようになります。これらは「革新派」と位置付けられ、メンデルスゾーンやシューマンの系譜を汲む「保守派」と対比されるようになります。
ドイツの音楽批評誌「音楽新報」。1844年に、作曲に専念するため編集を降りたシューマンの後を継いで編集になったのはブレンデルでした。ヘーゲル的美学、進歩主義だったブレンデルは、シューマンの書いた作品が保守的に聴こえてしまい、落胆し、ここでワーグナーに目を付けます。
このようにブレンデルは、3人の革新派を「新ドイツ派」として称揚しました。
しかしここで、シューマンやメンデルスゾーンの系譜を引き継ぐ若手が登場します。ブラームス(1833~1897)です。細々と活動していたブラームスは、1853年、紹介によってシューマン夫妻と知り合い、シューマン夫妻はブラームスを大変気に入ります。シューマンは9年ぶりに音楽新報に筆を執り、「新しい道」という記事でブラームスを紹介、絶賛。これをきっかけにブラームスは躍進していきます。シューマン家に住み込み、一番弟子となったブラームス。しかし当時シューマンは精神的に不安定で、1854年にライン川に自殺未遂。救い出されたものの、精神療養所から戻ることなく、1856年シューマンは亡くなってしまいます。(ピアノ奏者であった妻のクララ・シューマンにとって、その後ブラームスが重要な存在となっていきました。クララ・シューマンとブラームスの間に愛情が芽生えていたといいます。)
ブラームスは、感情や物事の描写ではない、「絶対音楽」を志向していました。ニックネームのついた曲もなく、「ピアノ四重奏曲 〇短調」のようなものばかり。形式を持ち、伝統的な書法に基づいて厳密に構成され、その中に言葉や物語ではない音楽自体の感性を注ぎ込みました。
ドイツ楽壇での論争と人間模様
1859年、「音楽新報」は創刊25周年を迎えます。ブレンデルは、リストやワーグナーら「新ドイツ派」に肩入れ・称揚する記事ばかりを載せ、その中には「新ドイツ派の理論があらゆる有力な音楽家たちに受け入れられている」という一文がありました。さらに、25周年記念式典がシューマンの生地で行われましたが、そこに未亡人クララもブラームスも招待されませんでした。これに怒ったクララがけしかけ、ブラームスの署名入りで、「新ドイツ派をすべての音楽家が受け入れている訳では無い。新ドイツ派の理論は間違っている」という趣旨の宣言を発表します。これをきっかけに「保守派」と「革新派」の対立は深まり、エスカレートしていくことになります。
1864年、ワーグナーはドイツ追放が解かれ、ここからさらに大成功を収めていきます。追放中に完成させた作品も上演していきます。そして1865年、クラシック音楽史上の転換点となる楽劇『トリスタンとイゾルデ』がハンス・フォン・ビューロー指揮により初主演となります。冒頭に登場する和音が和声学的に多様に解釈可能であり、後年、20世紀のクラシック音楽に多大な影響を及ぼすことになります。これは「トリスタン和音」と呼ばれ、クラシック音楽はこの後、和声が不安定になっていきます。こういったワーグナーの和声の拡張は、半音階を徹底的に推し進めることによって達成されています。
そんなワーグナーですが、1866年に不倫をします。不倫相手は、なんとリストの娘であるコジマ。同棲を始め、ワーグナーの正妻ミンナは病死してしまいます。リストの娘コジマは、指揮者ハンス・フォン・ビューローと結婚していました(ちなみにビューローは、クララシューマンの父・フリードリヒ・ヴィークの教え子でした)。しかし、1869年に離婚。1870年にワーグナーとコジマが結婚します。ビューローは当初ワーグナーに心酔していましたが、これをきっかけにブラームス陣営に転換し、ワーグナーに対抗していくこととなります。
ワーグナー派においては、ワーグナー自身が自らの理論を発表していたのとは対照的に、ブラームス自身は自らの理論を明確にした文章を残していません。しかし、熱狂的なブラームス支持派の評論家ハンスリックが文章を残しています。ハンスリックは、音楽とは別の何かを表現するための道具ではなく、音楽そのものを描くべきとし、「音楽の内容は響きつつ動く形式である」という言葉を残しています。ハンスリックはワーグナーや、ワーグナーを支持する音楽家を徹底的に批判しました。
このようにして、
の対立が、ドイツ楽壇のあいだで表面化していきます。
ここで、世界史的情勢に目を向けると、ドイツ地域は長らく諸侯乱立の地域でしたが、19世紀にはプロイセンが力をつけていきます。1870~71にプロイセン・フランス戦争(普仏戦争)で、これまで長い歴史の中でやられっぱなしだった相手であるフランスをついに破り、ヴェルサイユ宮殿で「ドイツ帝国」建国を宣言します。ドイツ語圏でもあるオーストリアはここでドイツから外され、異民族で今まで支配していたハンガリーに自治を認めることとなり、「オーストリア=ハンガリー帝国」が誕生します。
このような北ドイツ(プロイセン)と南ドイツ(オーストリア)の違いを、ドイツ音楽の対立に重ねて見ることもできます。ブラームス的な自立美学は、ドイツが音楽的な中心、スタンダードであるという「普遍性」が、異民族も擁するオーストリア的なゲルマン精神であり、一方、文学的な作品性を追求するワーグナー的芸術は「崇高な精神性」がプロイセン的なゲルマン精神である、という解釈があります。
両者に共通する基盤・目標として、やはりベートーヴェンの存在がありました。運命に立ち向かう意志、貴族のための音楽からの独立、古典派からロマン派へと音楽的に発展させていく革新的姿勢。合唱付きであるいびつな構成の第九に影響をうけたワーグナーは、こうした面を引き継いだのでした。一方、新しいタイプの音楽ではなく、緊密に構成された統一世界であるベートーヴェンの交響曲の形式を正統的に受け継いだものも望まれており、こうした需要に応えたのがブラームスだったといえます。
今回は、パリやウィーンでのオペレッタ、アメリカでのミンストレルショーと吹奏楽・軍楽、イギリスでのミュージックホール、そしてドイツのクラシック音楽史的論争を紹介しました。
次回は、論争の続くドイツ音楽のほか、1861~65のアメリカ南北戦争や1870~71の普仏戦争を経てまたもや空気の変わっていく19世紀後半を見ていきます。