【分野別音楽史】#08-2 「ロック史」(1950年代後半~1960年代初頭)
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
今回はいよいよロック史に突入していきます。音楽ファンの方の中でも詳しい方が多くなってくる分野だと思いますが、当noteのスタンスとしてはここまでたくさんのロック外の系譜も提示してきました。今回の記事で触れる範囲と同時期に存在した別のジャンルの音楽も既に過去記事でたくさん触れています。その視点も忘れないようにしながら、引き続き冷静に追っていきましょう。
◉「ロックンロール」誕生と衰退
1920年代にレコード会社のマーケティングの都合で音楽に人種の境界線が引かれて登場した「レイスミュージック」の区分けは1940年代になってもその分類が引き継がれ、
というような棲み分けが続いていました。
しかし、1950年代に入り、1つの曲が複数のジャンルのチャートに登場するようになります。白人の若者に黒人のリズム&ブルースが話題となり始めていたのです。
1951年、オハイオ州クリーヴランドの人気ラジオDJ、アラン・フリードがこういった黒人音楽に目を付け、「ムーンドッグズ・ロックンロール・パーティー」と名付けた自分の番組でリズム・アンド・ブルースの楽曲を紹介し始めたところ、白人の若者たちに熱狂的な人気となっていきました。アラン・フリードは、リスナーの趣向を見極めながら、レコードのセールスマンとして、またヒット・メーカーとして、リズム・アンド・ブルースの曲を紹介していきました。
一般の白人達にはリズム・アンド・ブルースはまだまだ「レイスミュージック」という黒人社会のみで聴かれる音楽という常識が拭えていなかった事情もあってか、番組名からとった「ロックンロール」という語がそのままジャンル名として、リズム・アンド・ブルースを指し示す言葉として定着して広まっていったのです。
リズム&ブルースの人気が白人ティーンエイジャーの間で高まるにつれて、カントリーミュージシャンがブルースやリズム&ブルースのカヴァーを始め出します。同時に、リズム&ブルースのミュージシャンもカントリーのカヴァーをはじめ、お互いのスタイルが結合していき、ロックンロールのスタイルとなっていきました。
カントリーシンガーの出身からリズム&ブルース路線へと転身し人気となったのがビル・ヘイリーです。1955年の映画「暴力教室」の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が一大センセーションを巻き起こし、「若者の反抗」の象徴としてとらえられるようになっていきました。
さらに、エルヴィス・プレスリーが登場し、圧倒的な人気となります。エルヴィス・プレスリーは、白人用に薄めたリズム&ブルースではなく、本気の姿勢で黒人スタイルのワイルドさを表現しようと取り組んだところが画期的だったのでした。「曲に合わせて腕や腰を振る様子はあまりに下品」であり、「ロックンロールは青少年の非行の原因だ」と大人たちから大きな反感を買うようになりました。
エルヴィスの影響を受けて、黒人をリスペクトする形で表現したロック・スターが続々と登場しました。ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、バディ・ホリーなどです。このような、白人のカントリー(ヒルビリー)と黒人音楽との融合の側面があるロックンロールはロカビリーとも呼ばれました。
一方、当の黒人サイドのリズム&ブルースを出自として、ロックンロールへの変遷期において影響力を発揮したのアーティストには、リトル・リチャードやチャック・ベリーがいます。リズム&ブルースを基盤としながらも、ゴスペルやカントリーの要素も取り入れ、50年代のロックンロールのスタイルを確立しました。
ギターサウンドが中心となってきていたロックンロールにおいて、リトル・リチャードやファッツ・ドミノは、ピアノ演奏を武器に人気となりました。
アメリカの音楽業界全体でのロックンロールの大きな影響として、ニューヨーク中心産業を解体してしまった点があげられます。南部の出身のアーティストが多く台頭し、地方のラジオ局によってムーブメントが巻き起こったのは、ティン・パン・アレーのポップスの影響力が決定的に低下してしまったことを示していました。
1920年代以降、アメリカの音楽産業は基本的に人種による音楽ジャンルの分節化を進めてきましたが、ロックンロールはそのような境界線を崩壊させ、ポップスチャートに黒人ミュージシャンが多く登場したり、リズム&ブルースのチャートに白人ミュージシャンが多く登場するなど、「人種混淆」の形相を呈しました。
一方で、「若者文化」としてロックンロールが人気を得たことで、これまでの「人種による音楽ジャンルの分断」に替わってアメリカ社会は「世代間での分断」の問題が新たに顕在化していったのでした。
さて、このように一大ムーブメントとなったロックンロールですが、実はわずか数年のブームでいきなり失速してしまいます。その大きな原因は2つありました。
1つは、ロック・スターが相次いで表舞台から去ってしまったことです。1957年、リトル・リチャードが突然の引退。1958年にはエルヴィス・プレスリーの徴兵・入隊が公表され、ジェリー・リー・ルイスのスキャンダルが発覚します。1959年にはバディー・ホリーをのせた飛行機が墜落し、死亡。チャック・ベリーが淫行容疑で逮捕されてしまいました(濡れ衣ともいわれています)。
もう1つは、ペイオラ事件です。当時レコード会社では、ラジオでレコードを多くかけてもらうために、DJに多額の賄賂を支払っていました。これをペイオラといい、DJはラジオで同じレコードを毎日のようにかけ、ヒットを叩き出していました。このように、ヒットのために賄賂を渡す行為は何も突然始まったことではなく、19世紀のティンパンアレーから実は日常的に存在していました。楽曲(楽譜)を舞台で使ってもらうために劇場主や人気スターに賄賂を差し出すことでヒットを産み出していて、その文化が引き継がれていただけだったのでした。
しかしそれが、ラジオやテレビなどのメディアでエスカレートしていくと、見過ごせなくなり、また、槍玉に上がったDJがロックンロールを流していたことから、「社会悪」であるロックンロールブームを駆逐しようという意図もはたらき、ティンパンアレー系の著作権団体であるASCAPが激しく非難して議会へと働きかけ、ペイオラを違法とする法律が制定されることとなったのでした。「ロックンロール」の名付け親だったアラン・フリードは罪を認め、名声は失墜してラジオ局を解雇されてしまいました。
こういった要因により、ロックンロールは一瞬にして衰退してしまいました。
さて、このあと「ビートルズの登場までチャートは再び退屈な音楽で占められてしまう。」と、従来の「ポピュラー音楽史」ではここからまるで空白期のように語られてしまいます。しかしこれは、反抗心のある若者音楽を「正史」、商業的なポップスを「退屈、悪」だという一方的な視点で選別された、ロック中心的すぎる歴史観だと言わざるを得ないのではないでしょうか。
実際のところはこのあとの期間も停滞期なんかではなく、20世紀前半のジャズ・ブルース~ロックンロールまでの音楽傾向から脱皮し、その次の新しいポピュラー音楽手法が発展するための充実した転換期であるということをここから確認したいと思いますが、こういった「ポピュラー音楽史」の名をかたった「ロック史」は、ドイツ発祥の進歩史観的な美学にとらわれた「クラシック音楽史」や、即興性だけにフォーカスしてしまった「ジャズ史」、荒々しく原始的なものをホンモノだと定める「ブルース史」などと同じく、特定の価値観によって視点を固定化し、全音楽史からジャンルの価値観を分断させる原因になるものだと感じます。
◉「ティーン・ポップ」の時代
ニューヨーク・マンハッタンのブロードウェイの一角に、ブリル・ビルディングという建物があり、戦前から戦後までティン・パン・アレーの作曲家が集うオフィスが数多く構えられていました。
そして、1950年代後半以降、従来のティン・パン・アレーの作家とは異なる若い作曲家たちが、このビルを拠点にして活動し始めます。多くの作曲家は「アルドン・ミュージック」という出版社に所属し、小さな部屋の中で分業体制を敷き、ヒットソングを生産していきました。
ブリルビルに入居していた150以上の音楽会社の「垂直統合」と呼ばれる制作・経営システムによって、出版・印刷・デモ音源制作・レコードの宣伝・ラジオのプロモーターとの契約などまで、すべてがビル内で完結するようにまでなったのです。ここで産まれた音楽はブリル・ビルディング・サウンドと呼ばれます。
ロックンロールの流行を受け、ブームが収束した後の反動のような形で注目され、1950年代後半~1960年代にかけて流行したのでした。
従来のティン・パン・アレー・ソングは幅広い世代のリスナーを想定していたのに対し、ブリルビルサウンドではあくまで若者向けに作られていた、という点に特徴があります。ロックンロール以降、音楽が「世代」によって分節化されるようになった時代になっていたのです。
1950年代後半、ティーンエイジャーを対象とした「アメリカン・バンドスタンド」などのテレビ・ショーが人気となり、そこから多くのティーンアイドルが誕生していたのでした。パット・ブーン、ポール・アンカ、フランキー・アヴァロン、コニー・フランシス、ブレンダ・リー、ニール・セダカ、キャシー・リンデンなどといった白人ティーンアイドルが人気となり、彼らが歌うティーンズ・ポップスが空前の売り上げを見せていました。
作家チームはエリー・グリニッチとジェフ・バリー、シンシア・ワイルとバリー・マン、キャロル・キングとジェリー・ゴフィン、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、バート・バカラックとハル・デイビッド、ドク・ポーマスとモート・シューマンのように、タッグを組んで制作されることが多かったようです。
キャロル・キングは後にシンガーソングライターとして成功して有名になっていますが、この時代ではブリルビルでの職業作曲家だったのです。
ブリルビルのプロダクションと同じような生産手法をとりながら西海岸で音楽拠点となった音楽スタジオが、ロサンゼルスのゴールドスター・スタジオです。ここでは音楽プロデューサーのフィル・スペクターが大きな存在感を発揮しました。
フィル・スペクターの独自の制作技術は、その後の音楽制作者やミュージシャンに大きな影響を与えました。普及しつつあったテープ録音を駆使し、音楽にさらに厚みを持たせるために、トラックに重ねて録音する「オーバーダビング(多重録音)」の手法を発展させたのです。その重厚な音作りは「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」と呼ばれていました。
このようなサウンドプロダクションにより、シュレルズ、ロネッツ、クリスタルズ、ディキシー・カップスなどの黒人ガールズグループが人気となりました。ガール・グループのサウンドにロックンロールに匹敵する迫力を加えるためにアレンジ・レコーディング上の工夫がなされていったのだといわれています。
◉「サーフ・ミュージック」の発生
さらに、西海岸では「サーフ・ロック」というスタイルが1960年代前半に流行しました。ドライブやサーフィンといったカルチャーの流行に合わせて、「太陽が照り付けるビーチにビキニ姿の女の子、終わらない夏・・・」といったイメージを盛り上げる音楽として発展していったのでした。
歌モノだけでなく、ギターを中心としたインストゥルメンタル・サウンドが多く作られたのも特徴的です。活躍したアーティストとしては、ビーチ・ボーイズ、ディック・デイル、デル・トーンズ、ベンチャーズ、シャンテイズ、ジャン&ディーン、アストロノウツなどがいます。
◉アマチュアの「ガレージバンド」ブーム
ロックンロールが誕生した50年代後半以降、アメリカでも「バトル・オブ・ザ・バンド」と呼ばれる音楽コンテストなどが流行していました。ロックンロールに刺激された若者たちは地元で仲間同士でアマチュアバンドを結成し、自宅の「ガレージ(車庫)」で練習を積んでいたのでした。このようなバンドは「ガレージ・バンド」「ガレージ・ロック」と呼ばれ、無数のバンドが結成されていたといいます。
アマチュアなので当然、音楽としては単純で稚拙であり、商業的成功とは無縁で、決してメインストリームではありませんでした。60年代初頭のティーンポップの台頭で一度影を潜めたようにも見られましたが、サーフロックなどのギターインストの流行とも相まって、ギターという楽器は「アマチュアによって演奏されるもの」としてより一層人気が強まってもいました。
この動きがもう少し後の70年代パンクロックへと繋がっていくのですが、「専門の教育を受けていない若者によるDIY精神」「アマチュア性」がロックというジャンルの重要な特質になっていったことが、他のジャンルと違う、注目すべきポイントのひとつだといえます。
◉「ブリティッシュ・ブルース」革命
ここまでアメリカの潮流を見ていきましたが、このあとビートルズらが出現する前夜のイギリスの潮流も確認してみます。
イギリスでも50年代後半からリズム&ブルースやロックンロールの人気は高まります。アメリカ人のアラン・ローマックスが自身のフィールドワークによって採集したブルースを流すラジオ番組もイギリスで始まりました。
ここで、ロバート・ジョンソンやマディー・ウォーターズのような、デルタ・ブルース、シカゴ・ブルースといった荒々しいギターが特徴的な音楽が紹介され、「アメリカン・ルーツ・ミュージック」としてイギリスのリスナーの刺激となり、数々のブルースバンドが結成されたのです。
前回の記事で見た通り、当時のアメリカ社会では、ジャズと渾然一体となった都会的な音楽やブギを取り入れたジャンプ・ブルースも含めて「ブルース」「リズム・アンド・ブルース」というジャンルだったのですが、イギリスにおいては田舎的なギターサウンドこそがブルースの魂であり、ルーツミュージックとしてカッコイイものだ、という図式になっていったと言えるのではないでしょうか。ある種、偏っているともいえるこの視点が、現在のブルース史観・ロック史観に大きく影響していると感じます。音楽における価値観の大きな転換点です。
こうした影響を受け、アレクシス・コーナー、シリル・デイヴィス、グレアム・ボンド、ジョン・メイオールらが登場し、「ブリティッシュ・ブルース」を奏でていきました。
◉「スキッフル」または「マージー・ビート」
一方、北部の産業都市マンチェスターや、近隣のリヴァプールでは、20世紀前半のアメリカのジャズ、ブルース、カントリー、フォークといったルーツミュージックが独自に融合したスキッフルというジャンルが流行していました。リヴァプールは港町ということもあり、輸入レコードがいち早く手に入るなど、アメリカ音楽の最先端の地となっていたのです。
ここで、ロニー・ドネガンによるフォークソングのカバー「ロック・アイランド・ライン」が大ヒットとなり、イギリスの若者たちによるスキッフルのバンドがたくさん生まれることになりました。ロニー・ドネガンのほか、トミー・スティール、アダム・フェイス、クリフ・リチャード、チャス・マクデヴィットなどが登場。彼らの音楽は、その地域に流れるマージー川の名前をとってマージー・ビートとも呼ばれました。
こうしたリヴァプールの若者たちのスキッフルバンドのひとつとして、1957年に「クオリーメン」というバンドが結成されました。1960年に彼らは、「ビートルズ」に改名し、ライブ活動を広げていきます・・・。
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