「何もしない」も立派な行動 #57
突然ですが、
"何もしない"という事について
どう思うでしょうか?
「今日も何もせずに休日が終わってしまった…」
「ダラダラと過ごしてしまった」
「時間がたっぷりあったのに何もしなかった」
「この時間は○○をすると決めているのに
結局何もしなかった」
「ただ時間だけが経ってしまった」
「今日は何もしなかったな…」
などと思う日や時間があったとします。
何も予定がなかった時、
特別やりたいことがなかった時、
または、やらなければならない事が
あったとしても動けなかった時。
この「何もしない」という言葉が使われる時、
本当にそれは「何もしなかった」のか?
というとそういう事でもなかったりします。
「何もしない」の内訳を考えた時、
明確な予定、名前のついたタスク、
それらがなかったとしても
確実にその時過ごしていた時間
というのは存在しています。
・YouTubeを観ていた
・ネットフリックスやアマプラで
コンテンツを観ていた
・スマホでただSNSを眺めていた
・なんとなくお腹が空いて
たまたま目が合ったお菓子を食べていた
・作るのが面倒だったので
インスタント食品を食べた
・気がついたら眠っていた
・コーヒーを飲んでいた
・お酒を飲んでいた
・ふらっとコンビニに行った
・ただただ本当にぼーっとしていた
などなど…
「何もしない」と表現される時、
なにかしら"行動"をしています。
明確な予定でなくても過ごした時間、
時にはこれらの過ごし方を「ダラダラ過ごす」と
表現される事もあるかもしれません。
しかし、これらも立派な行動の一つ。
ただぼーっとしているだけでも、
「ただぼーっとする」をしている。
寝ているだけでも、
「寝る」をしている。
「何もしない」をやっています。
一見、その時自分では時間を無駄に
過ごしてしまった感覚があったとしても、
振り返ってみるとキーとなる重要な時間を
過ごしていたということがあったりします。
今はわからなくても
その無駄と思える時間が
後で良い影響を与えることはたくさんあります。
その時何気なく観ていたドラマが役立ったり、
ただ眺めていたSNSで
今後の自分のキーとなる情報を得たり、
そのタイミングでなんとなく食べていたお菓子や
インスタント食品をきっかけに誰かと話せたり、
ぼーっとすることでアイデアが湧いてきたり、
そのまま動き続けていたら体調を崩していた
かもしれないところを休息を取って
心身の調子が整えられたり、、
可能性は無限にありますが、
時に人生というのは、
自分では図れない緻密なタイミングによって
物事がピタッとハマるようになっています。
自分の思うように、
自分の思うことをする。
もし休みたいと思えば休む。
ダラダラ過ごしたいと思ったら
思いっきりダラダラする。
そこに罪悪感は必要なく、
できる限りその時の自分が思う、
そのタイミングで自分の思うことを
するのが良いと感じます。
行動というのは、
その瞬間ごとの自分と
一致するということが本質であり、
表面的なことは、実はストーリー(人生)を
構成する一部にすぎなかったりもします。
行動が大切とはよく聞く話ですが、
目に見えて分かりやすい行動だけが
「行動」ではない。
自分自身の意志で「今をどう過ごすか」、
それを選択することそのものが
行動の本質だと思いました。
今日もあなたが
自分の心と身体と一致して、
気持ちよく、心地良い時間を過ごせますよう。
お読みいただきありがとうございました。