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ののうの野

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【初回のみ有料】磐城まんぢう書き下ろし小説『ののうの野』を不定期掲載しています。 時は戦国、かつて信州祢津地域に実在した”ののう巫女”集団にスポットを当て、戦乱に巻き込まれていく…
学術的には完全否定されている”女忍者(くノ一)”の存在を肯定したく、筆者の地元長野に残る様々な歴史…
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記事一覧

第14話 口寄せの妙術

 何処へ向かっているのだろうか?
 往く先に何が待ち受けているのか? 奈落の底か? それとも常若の楽土か?────前を歩く才蔵の背中は何も教えてくれず、その道のりは永遠に続くのではないかと思われた。ただ一つだけ分かっていたとすれば、足を一歩進める毎に帰るべき道が確実に消えていくという事だった。
 「ねえ、どこまで行く気?」
 「誰もいない山の中だ。黙ってついて来い」
 と才蔵は言う。しかし不思議と

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第13話 相模の方(かた)様

 巫女の一日は未明の水垢離から始まる。それは旅歩きをしている時も同じで、水で身体を清めたあと、巫女たちは組頭巫女の対面に正座し、祭文を復唱してから口授で教えを受ける。そしてようやく朝餉を食し、食事が済むと神事舞太夫はその日の口寄せ回りの予定を伝える。依頼がなく時間が空く時などは、こちらの方から飛び込みで家々を訪問し、今で言う訪問販売的な事をして仕事を取ることもままある。
 翌朝、巫女らを集めた丸山

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第12話 甲斐、怪々(かい、かいかい)

 人の心ほど 不可思議なものはない。
 昨日まで同じ 釜の 飯を食べていた者同士が、釜が 壊れてなくなると心が離れ、同じ 膳を囲んだ 団欒もやがて性質が変わり、ついには対立を生じるものか。一方は釜を 惜しんで同じ釜を作ろうとする者、もう一方は釜の事など忘れ別の 旨そうな飯にありつこうとする者──── 信玄亡き後の武田家臣団がそれだった。
 人の心というものは、その時の取り巻く 環境によって白くもな

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第11話 沼田、攻略完了

 三月に入って北条方は、昌幸に取られた小川と 名胡桃の両城を奪い返そうと、 北条 氏邦に三千余騎の兵を与えて攻撃を開始させたが、 地の 利に 長けた真田方のゲリラ戦法の前にあえなく大敗を 喫し、激怒した氏邦は、沼田の南 利根川と 吾妻川の合流点にある 白井城の 長尾 憲景と戦略を立て、白井と沼田の二方面からの侵攻を計画した。
 ちなみに真田昌幸は〝 安房守〟とも言われるが、これは、このとき攻めて来

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第10話 〝御館の乱〟の大津波

 越後の上杉の動きを探っていた吾妻衆 伊与久采女が、真田昌幸の所に異変を報せに飛んで来たのは、翌天正六年(一五七八)三月半ばの事だった。このとき昌幸は信濃にあって、思わずも、
 「死んだか!」
 と、惜しみだか喜びだか悔やみだか希望だか分からない声を挙げたのは、それもそのはず、故主君武田信玄長年の、宿敵だか盟友だか判断のつかない、かの上杉謙信の訃報だったからである。
 これにより時代は大きく動く。

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第9話 女武芸者

 朧たちが石倉三河の庵でちょうど口寄せをしている頃、丸山伊織のいる但馬屋の一部屋では、暇を持てあます清音とお雪がお喋りを続け、その近くでは初夏の気候の所為か近ごろ無性に増えてきた蝿の退治に追われる伊織が、
 「そろそろか?」
 と智月に言った。
 沼田に来て数カ月────この辺りはほとんど回り尽くしたか、最近めっきり口寄せの依頼も減って、次の土地へ移動する時を迎えていた。
 「次は高崎ですか?」と

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第8話 霧隠

 上野国は沼田を含む利根郡の石倉村に、石倉三河と云う男がいた。
 もともとは、この辺りが上杉支配になった時から群馬郡の石倉城主を任されていたが、仁義に厚い半面根っから戦嫌いで、良く言えば周囲との付き合いが上手で、悪く言えば八方美人の、人間的には非常に憐れみ深い人物だった。そのような人は戦国の世には向いていないと言うもので、上杉の命令に従順なのは当然として、北条から使者が来ても武田の間者が来ても、み

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第7話 沼田城

 上野国沼田の西に位置する吾妻の、岩櫃城は海野幸光とその弟輝幸が守護して郡代を務めているが、もとよりこの兄弟は吾妻郡羽根尾を領する羽尾氏の血を引く国人衆で、信玄の勢力拡大によって昌幸の兄信綱の調略で武田氏に降ってより、
 「もとを正せば我ら、滋野一族の海野氏の子孫だ」
 と自称して海野を名乗るようになっていた。
 岩櫃城は一応信綱支配の城という事にはなっていたが、長篠の敗戦もあって、武田に領地を押

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第6話 夷講(えびすこう)での口喧嘩

 その年の十月に入り、月の半ばも過ぎれば、全国に散っていたののう巫女たちは順に故郷の祢津に帰り来て、出先で稼いだ大層なお金を、領主や神社や寺院などへ献金として配り歩くのが通例だった。その稼ぐ金額というのも半端でなく、土地の名士や豪商の家で口寄せなどすれば、その土地の情報を得るばかりでなく、一度に何百両といった報酬を貰えることもあるのだ。だから彼女たちが身に付ける物も自ずと豪華で、普段は田舎じみた祢

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第5話 勝頼の苦悩

 天正元年(一五七三)四月十二日、武田信玄は死ぬ間際、
 『わしが死んだら三年間は、絶対わしが死んだ事を外部に洩らすな。わしは隠棲した事にし、その間、四郎(勝頼)には陣代を申しつける。武田家の家督は、四郎の息子信勝が十六になったら譲る。某の弔いは無用、具足を着せて諏訪湖へ沈めよ──』
 これが遺言となった。この意味については後ほど触れるが、この物語(『のゝうノ野』)の始まりの天正四年は、信玄が没し

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第4話 雲井丸

 鷹狩りは戦国武将のステータスである。
 織田信長をはじめ、豊臣秀吉、徳川家康など、〝鷹狩り〟と称して野山に出掛けたのは、猟を通して軍事演習を兼ねたり、その土地の様子や民情を探るための視察や巡見の意味もあり、特に秀吉などは自分の権勢付けの政治的パフォーマンスとして大規模な鷹狩りを行なった。
 古くは朝廷を中心とした貴族の権威権力を示す単なる遊びとして栄えており、鷹は朝廷からの御預り物として非常に貴

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第3話 巫女屋敷

 祢津は宮ノ入にある根津の舘を背にして一本の道を挟み、右側を〝西ノ町〟、左側を〝東ノ町〟と称して一つの自治体を形成している。それぞれの町には南北を縦に延びる道があり、その道に沿って家々が立ち並ぶ。
 多くは農業にいそしむ者たちだが、中に高い垣根に囲まれ、家の内部が見えないように造られた屋敷にはたいてい巫女が住んでいて、冬の間、巫女歩きを終えた彼女らは、その屋敷内で十人ほどの規模で集団生活を送る──

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第2話 求女川(もとめがわ) 

 祢津の舘の東側を流れる川がある。 
 石垣の下はすぐ河川敷で、現在はコンクリートに狭められた窮屈な流れだが、当時は川幅が何メートルもあるほどの大きな清流だった。水源は湧き水だそうだが、その流れは今も昔もおよそ三キロほど流れて千曲川へとそそぎ込む。
 川の名を〝求女川〟と言うのは、祢津の当主が武田信玄に臣従した先代の元直の時、ここ祢津に訪れた信玄にまつわる一つのエピソードが残されたからである。
 

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第1話 巫女歩きの のんのさま

 ♪ のんののんのん姐さと旅だ 山越え津渡り ののぅの野

 近江の甲賀から岐蘇街道を歩いて、信濃は海野の里にたどり着いた旅装束の女連れは、しきりに啼く油蝉の声が染み入る大きな巌を焼くような暑い陽ざしの中を、そのまま祢津のお舘に入ると、庭の池を泳ぐ金色の錦鯉の光に涼やかさを覚えながら、奥座敷の広間に慇懃と正座した────時を尋ねれば天正四年(一五七六)、あの歴史に名高い長篠の戦いの翌年は晩夏の候で

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